●戦闘機による航空優勢
本項は制空権と航空優勢の基礎知識(中)の続きです。
空中戦は、戦闘機によるディフェンシブカウンターエアを行う勢力があって初めて発生します。
戦闘機によって行われる、インターセプト(迎撃)、特定空域のコンバットエアパトロール(戦闘空中哨戒)といった、戦闘機の基本任務はディフェンシブカウンターエアの一種です。
地上撃破が基本のオフェンシブカウンターエアにおいては主力はあくまでも爆撃機です。オフェンシブカウンターエアによって相手の航空戦力を完全に撃滅する事が可能であるならば、戦闘機の出番は完全に無くなります。
戦闘機を用いてオフェンシブカウンターエアを実施することも稀にあり、これをファイタースウィープ(戦闘機掃討)と呼びます。読んで字の如く、敵地に戦闘機を飛ばしその迎撃に上がってきた戦闘機や、付近を飛行する航空機を空中戦で掃討するという任務です。
戦闘機に対し戦闘機を当てるという事は、彼我の戦力がほぼ同等であれば敵を撃ち落した数だけ自軍も損害を受けているはずです。前回書いたように鳥を根絶やしにせんとするなら巣を排除した方が遥かに効率が良いのですから、航空撃滅を目的として行われる事は基本的にありません。
航空作戦上意義のある活動を行うのは爆撃機や偵察機、輸送機ですから、戦闘機対戦闘機という状況は全く意味が無く、本来望ましくないのです。唯一価値が有る事と言えば、軍のリクルーティング材料になると言う事ぐらいのものでしょう。
そのファイタースウィープを恒常的に行った例の一つが、1960年代中〜後期のベトナムにおけるアメリカ空軍です。
アメリカは大統領レベルの政治的な決定により北ベトナム軍の航空基地への空爆を禁じており、空軍はミグ(MiG-15/17
MiG-21)を空中戦で撃墜し、排除しなくてはならないという制約を抱えていました。
しかし、北ベトナム空軍はアメリカ空軍のファイタースウィープを相手にしませんでした。ソビエトの援助により構築されたレーダーサイトによる管制で、アメリカ空軍の爆撃機のみを的確に迎撃。爆撃機が爆弾を捨て回避行動に入ると、戦闘機との交戦を避けて、ミグは即座に離脱。攻撃を受ける事の無い「聖域」である飛行場へと帰還しました。
たとえ爆撃機の撃墜に至らなくとも、爆撃を阻止したのだから、北ベトナム空軍にとっては戦術的な勝利でした。
1967年1月、アメリカ空軍は、まったく交戦の意思を見せなかった北ベトナム空軍のミグをおびき寄せて交戦に引きずり込むために、戦闘機を爆撃機に見せかけるよう、電子的に偽装するといった奇策まで用いることになります(ボウロウ作戦)。
その結果、アメリカ空軍は4日間で7機のMiG-21を撃墜。北ベトナム空軍唯一の近代戦闘機であった虎の子MiG-21の半数を撃滅(MiG-15/17を50機、MiG-21を15機しか保有していなかった)するという大戦果を上げた事もありました。
しかし、同年4月に航空基地への爆撃が限定解除された際には、僅か1日で26機のミグを破壊しました。やはり敵の航空戦力を排除し航空優勢確保の主力となるのは爆撃機なのです。
(本作戦の詳細については第70回:ボウロウ作戦 その1 第72回:ボウロウ作戦 その2 を参照。)
では、オフェンシブカウンターエアにおいて戦闘機は不要であるかというと、そうではありません。爆撃機の護衛などの極めて一時的かつ断片的な空間における航空優勢の奪取や防空網突破の支援においては非常に大きな力を発揮します。
また、歴史上完全なオフェンシブカウンターエアが達成されたことは一度もありません。先に例にあげた第三次中東戦争中にも幾度となく空中戦が発生しています。
1991年湾岸戦争においても、多国籍軍の強烈なオフェンシブカウンターエアで実質的にイラクが航空優勢を失った開戦三日後以降にも、イラク空軍機と多国籍軍のオフェンシブカウンターエア任務の戦闘機が交戦しています(多くはイランへ逃げ込む途中に落とされた)。
1999年のユーゴスラビアにおけるアライドフォース作戦でも同様に、僅かに生き残ったユーゴスラビア軍の戦闘機はNATO諸国空軍に対し脅威であり続けました。全ての飛行場を同時に破壊しても、滑走路や誘導路に大穴をあけた程度では数時間程度で復旧してしまうのです。
第二次世界大戦におけるドイツや日本も、敗戦のその日まで迎撃機を飛ばし、連合軍の戦闘機や爆撃機と交戦しています。爆撃機は戦闘機なくして安全な活動はできません。戦闘機は脇役ではありますが、航空優勢の確保に必須の存在なのです。
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