第47回:二つの橋ををめぐる攻防戦 その1

タンホア橋を巡る戦い

第47回から48、49回と3回に分けてベトナム戦争の航空戦における最重要目標であったタンホア橋(Thanh hoa)と、ポールドゥメ橋(Paul Doumer)の、二つの鉄橋をめぐり行われた攻防戦についてすすめたいと思います。

1964年、アメリカ統合参謀本部は北ベトナムに存在する24の目標をピックアップし、リストを作成した。その中にタンホア橋とポールドゥメ橋が含まれていた。どちらも北ベトナムの物資輸送の主軸となる鉄道網の大動脈である。ベトコンの南進を阻止する為にはこの二つの鉄橋を落とすことが最重要であると認識される。
二つの橋を含めた主要目標はローリングサンダー作戦における航空兵力により4週間以内に無力化される「はず」であった。しかし、この時点では橋を落とすため(しいてはベトナムでの戦いを終結させるため)に、長い年月を要する事などアメリカ軍・政府首脳部は思ってもいなかったであろう…


タンホア橋は、ソンマ川に東西にわたり全長164m、幅17m、中央にコンクリート製の橋脚を持ち、2本の鋼鉄製橋桁には中央に鉄道線路、両脇にそれぞれ車道が通っていた。1965年4月3日、このタンホア橋に対する第1回目の攻撃が行われる事になる。

(PHOTO:USAF)

攻撃部隊編成
F-105*46機
うち16機が2発のAGM-12ブルパップを搭載、残り36機がM-117 750ポンド通常爆弾を8発搭載した。
15機が防空網の制圧、31機が橋への攻撃を担当。

F-100*21機
AIM-9を搭載した4機がMIGCAPを担当、機関砲のみで武装した2機が天候偵察、M-117を2発と2.75inロケットポッドを二つ搭載で武装した7機が対空火器制圧、同様の武装をした8機が、部隊に被撃墜が出た場合のRESCAPに当たる。

RF-101*2機
攻撃前の偵察と終了後に爆撃効果判定を行うために写真撮影を行う。

KC-135*10機
タンホア攻撃に向かう戦闘機へ空中給油を行う。


以上総数79機に達する大攻撃部隊である。


この大編隊は「部隊」とは言っても1つの基地から発進したものでは無いし、実際に大編隊を組むために集結するわけでもない。各フライト(4機編隊)が攻撃 開始地点(IP)を指定された時間に1分のずれも許されずに通過、そのまま攻撃態勢に入ることによって順序良く空爆を行う。むやみやたらに攻撃してはお互 いが妨害し合い効率的な攻撃は望めないからだ(しかしこの方法は防御側からしてみれば容易に攻撃経路が予測できてしまう弱点を併せ持つ)。

今回は攻撃開始地点(IP)は橋の南東に設けられ、まず北上し橋を目視確認してから右に旋回、およそ北東の方角からそれぞれの目標に向かって降下爆撃を行う手筈になっていた。
まず最初に対空火器制圧機が、周囲のAAAに対して攻撃を行う。たいした戦果も得られなかったが、次にAGM-12を搭載した16機が攻撃に入った。AGM-12はパイロットが目視でラジオコントロールを行う原始的なミサイルである。
AGM-12はタンホア橋に命中した。しかし何ら効果的な損害を与えることが出来なかった。250ポンドの弾頭では「橋に当たって跳ね返る」程であったと言う。

続いてM-117 750ポンド爆弾を搭載する編隊が攻撃に入る。結果は強風が吹いていた為もあり、最初は殆ど命中しなかった。この風の影響を修正した最終攻撃において、い くらかの命中弾を与えたが、戦果は、「数日の修理を要するであろう程度」で終わった。しかもその代償としてF-100とRF-101の2機失いながら。
そして翌日再攻撃を行う命令が発令されるのである。

AGM-12ブルバップとM-117はタンホアを除く他の橋への攻撃には非常に有効であり、この後26の橋を完全に破壊する事に成功している。他の橋は植 民地支配していた技術力の高いフランスの技師が設計したものであり、強度に無駄が無かったため、空爆に対して防御力を持っていなかったのだ。
かと言ってタンホア橋だけが最初から航空攻撃による防御力を目指して設計されたと言うわけではない。タンホアだけは技術力の低い中国人技師が設計しており、皮肉なことに「無駄に」丈夫だったのだ。

再攻撃はほぼ同じ編成ながら、前日「クソの役にも立たなかった」AGM-12を搭載せず、全F-105がM-117を装備し任務にあたり、橋を通る道路と 線路に大きなダメージを与え通行不可能な損害を与えた。なお、ベトナム軍MiG-17の奇襲により2機が撃墜され(ベトナム空軍による最初の撃墜)、さら には対空砲火により1機、計3機のF-105が失われた。結局橋を落とすまでには至らなかったが、輸送路の遮断という目的は一応の達成を迎えた。あくまで も暫定的には…だが。

攻撃からおよそ1ヵ月後、北ベトナムは橋の修理を一部完了し、鉄道路が開通した。自動車道路は依然復旧作業中ではあったが、同年5月7日に第3回目の攻撃を加える事が決定された。
今度は、米側も最新鋭の戦闘機F-4CをMIGCAPに当たらせ、ELINT機を投入するなどの防御策を講じたものの、結局主力のM-117を搭載したF-105は28機は通行を一時的に閉鎖せたものの、やはり橋を完全に落とすことは出来なかった。
半月後に、またもや復旧の兆しが見えたため、第4回目の攻撃が行われた。4機のF-105が合計32発のM-117を投下し、いくらかの命中弾を得て、通 行を停止させたが、橋は例によって即座に復旧活動が行われることになる。なおこの時点で通算1000発の爆弾とミサイルが投下されている。

この後タンホアへの攻撃は、空軍から海軍への管轄に移り、A-4、A-6、A-7、F-4を主力とし、空軍には当時存在しなかった2000ポンドクラスの TV誘導爆弾(AGM-62ウォールアイ)を含み、空軍の作戦に比べて比較的小規模な編隊で何十回と攻撃を繰り返すことになるが、結果は同じであり、数度 の通行不可能なダメージを与えながらも、北ベトナムは人海戦術と突貫工事により、1968年の空爆停止まで実に3年間、800ソーティーを超える攻撃機か ら継続した空襲を受けながら、タンホア橋はソンマ川に存在しつづけたのである。


タンホア橋を巡る第1ステージはベトナム側の勝利で終わり、空爆停止中タンホアは更に強化されることとなる。
しかし、このタンホアへの空爆はアメリカ軍にとってなんの戦果も無かったのか?と言うとそうでもない。少なからずダメージを与え何度か通行を不可能にした ことにより、ベトナム側は修復作業へのリソースを割かなくてはならなくなっている。そのため、ベトナム軍は鉄道や道路を利用した大量輸送から、人力や動物 を利用した輸送路、いわゆる”ホーチミンルート”への移行が主流となってゆくことになる。


(PHOTO:USAF)
'Valley of the Moon’タンホア鉄橋付近は、「バカな爆弾」こと、無誘導爆弾により月面のごとくクレーターだらけになった。

(更新日:2004年2月22日)


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