第101回:空対空戦闘1 戦闘機パイロットへの憧れ

憧れてもなれるわけではない。いろんな意味で。

「いやっほううううううぅぅ」などと奇声を上げてカリスマ戦闘機F-14を駆る、映画トップガンの主人公、「マーベリック」はあまりに刺激的です。男なら誰しも「マーベリック」になりたいと一度は思うはずです。
そして、その夢を本気で追い続け、選ばれたごく一握りの人が「マーベリック」になる権利を得て戦闘機の操縦桿を握っています。そのごく一握りの人たちは「マーベリック」になれたのでしょうか?

100年ほど前にさかのぼってみましょう。
戦闘機パイロットという職業が生まれたのは1914〜15年の第一次世界大戦時初期です。それまでは敵の飛行機を撃墜する目的で設計された飛行機などは有りませんでした。いや、有るには有りましたが大国の航空隊でも数えるほどしか保有していませんでした。
世界大戦が始まり、飛行機による偵察の正確かつ迅速な情報が知られるようになると、それを撃墜せんとする飛行機、後に戦闘機と呼ばれる飛行機の数は、わずか2〜3年の間に一万倍にも増加しました(当時は追撃機とか、スカウトなどとも言いました)。
しかし、「マーベリック」候補の数は全く不足しませんでした。
今も昔もかわらず、パイロットという職種は若者の憧れの的だったからです。

地獄から見た雲上の天国

第一次世界大戦の地上戦は地獄そのものであり、機関銃や野戦砲で構築された塹壕を突破することの出来ないまま、無意味な消耗戦により多数の命が失われました。
また、運良く生きていたとしても常にしめった状態の塹壕内は不潔で、排泄物がたまり、雨の日にはそれがわき出して塹壕を満たし、死体にはウジとねずみがわく酷い環境での生活を余儀なくされました。
そんな状態だから感染症が蔓延し、心身ともに病む人が続出しました。そんな地獄から空を見上げると、そこには「メビウス1」がいました。(メビウス1って何?って人はググってください)
「メビウス1が敵の飛行機を撃墜した!」
「メビウス1が勲章を授かった!」

前線の兵士たちは、地獄とは無縁に思われた美しい空での戦いを報じる新聞の見出しや、軍用無線から流れるニュースに胸を躍らせました。
空中に「メビウス1」が現れると、兵士たちは地獄を忘れて
「俺たちの上をメビウス1が飛んでいる!」「メビウス1なら突破口を開いてくれる!」
と、士気が向上するようになります。地上の兵士たちは皆「メビウス1」に憧れました。

「自分もメビウス1のようになりたい。」

「塹壕から遠く後方で旨い飯と柔らかいベッドで休みたい。」

「おにゃのこにモテモテウハウハ」(たぶんこれが一番の動機)

そして、ごく一握りの人間がパイロットになり「メビウス1」になる権利を得ました。

月間損耗率100%

第一次大戦時、アメリカ陸軍航空隊を指揮したウィリアム・ミッチェルが戦後に記した著書「ウィングド ディフェンス(空軍による防衛)」には、大戦中における航空隊の月間損耗率は100%に達し、1ヶ月で部隊のメンバーが総入れ替えになった。と、書かれています。
つまり、「メビウス1」になりたいと勇んで志願したパイロットの平均余命は僅かに半月であり、1ヶ月後にはほぼ全員が戦死していました。
当時の戦闘機は防弾も無い空中にむき出しの状態でしたから、操縦席付近への一撃がそのまま致死につながりました。そしてパラシュートも無かったため、たとえ無傷でも飛行機がその機能を失えば、自動的に死が待っていました。こうした状況が致死率の高さに拍車をかけたのです。
たとえ生き延びていても、毎日仲間が死んでゆき次は自分の番かもしれない。と、おびえる毎日の中で、多くの飛行士たちが精神を病んでしまいました。
地上戦は地獄だったかもしれません。しかし、地獄からはい上がれる可能性は有りました。
パイロットへ志願すると言うことは、自殺を志願することと全く同じだったのです。死への確実な片道旅行という意味では空中は天国だったかもしれません。
月間損耗率100%を生き延びた、ごく一握りの人間のなかの、またごく一握りだけが「メビウス1」や「マーベリック」になることが出来ました。
そして、不思議なことに、生き延びる回数が増えるに従って、その致死率も劇的に下がってゆきました。「メビウス1」や「マーベリック」たちは桁違いの撃墜数を重ねてゆくことになります。
(これは統計的に実証されていることで、かの有名な米空軍のレッドフラッグ大演習などは最初の10ソーティーを経験させることを目的として実施されるようになりました。)

スポーツと戦争の狭間

言葉は悪いですが「メビウス1」や「マーベリック」たちの殆どが空中戦を狩りと同等のスポーツの一環程度にしか感じていませんでした。
連合軍の「メビウス1」であるフランス人のジョルジュ・ギンヌメールは、7回撃墜されても生き残ったタフな男でしたが空中戦に騎士道精神を求めすぎました。
ある時、単機で飛んでいたドイツのエース、エルンスト・ウーデットに一騎打ちを仕掛けましたが、相手の機銃が故障したと見るや、絶好のチャンスにもかかわらず、敬礼をして離脱してしまいました。
この戦いで見逃され、生き延びたウーデットは、後に62機の連合軍機を撃墜。ドイツではレッドバロンに次ぐ2位のエースとなりました。
しかもウーデットは戦争を生き延び、ナチス政権の空軍の幹部となり、急降下爆撃機による陸軍支援の推進者の一人として、電撃戦に貢献しています。
ギンヌメールは騎士道精神を発揮したがために、間接的に多数のフランス人同胞の命を奪うことになってしまいました。
ロマンティシズムなところが彼の人気の源だったのかもしれませんが、軽率な行動であったと言われても仕方のない一件です。(22歳の青年にそこまで求めるのも酷と言えるかもしれません)
ギンヌメールは8度目の被撃墜で死亡しました。

一方、塹壕の東側の「マーベリック」でも事情は変わりませんでした。
戦争はスポーツではないと、騎士道精神を完全に否定した、近代空中戦の祖であるオズワルト・ベルケの指導のもとに頭角を現した、レッドバロンで知られるリヒトホーフェンは、撃墜した飛行機の残骸を拾いコレクションしたり、撃墜した数だけハンドメイドのグラスを作らせるなど、弁慶もびっくりな戦闘中毒者でした。
彼にしてみれば狩りと空中戦はさほど差のないものだったのでしょう。
リヒトホーフェンぐらいの中毒者で無ければ、空中で命を長らえることなどできなかったのかもしれません。(そんな彼も戦死し、戦争を生き延びることは出来ませんでした)
もちろん十人十色ですから「メビウス1」や「マーベリック」の全員が中毒者であった訳ではありません。中には不屈の精神力をもって克服した人も居ました。
しかし大多数のパイロットは戦争神経症を患い、日々怯えていたのです。
いえ、怯える前にみんな死んでゆきました。
近代の航空戦においても、射出座席やコンバットレスキュー体制が非常に充実しているとはいえ、他の軍種に比べ圧倒的に高い致死率は健在で、パイロットにかかる精神的負担は非常に大きく、覚醒剤などを処方することがよく有ります。
しかし、それでも「マーベリック」候補の数は全く不足していません。
昔も今もかわらず、パイロットという職種は若者の憧れの的であるからです。

(更新日:2009年11月05日)

自衛隊法 第百十五条の三
自衛隊の部隊又は補給処で政令で定めるものは、麻薬及び向精神薬取締法 (昭和二十八年法律第十四号)第二十六条第一項 及び第二十八条第一項 又は覚せい剤取締法 (昭和二十六年法律第二百五十二号)第三十条の九 及び第三十条の七 の規定にかかわらず、麻薬又は医薬品である覚せい剤原料を譲り受け、及び所持することができる。この場合においては、当該部隊の長又は補給処の処長は、麻薬及び向精神薬取締法 又は覚せい剤取締法 の適用については、麻薬管理者又は覚せい剤原料取扱者とみなす。

2  前項の部隊が第七十六条第一項の規定により出動を命ぜられた場合における麻薬及び向精神薬取締法 の規定の適用については、前項後段に規定するもののほか、当該部隊が撤収を命ぜられるまでの間は、当該部隊の医師又は歯科医師は、麻薬施用者とみなす。

(治療が不可能なほどの傷を負ったり、精神に負荷を掛けるのが日常的な軍隊において、麻薬の使用は特別なことではありません)


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