航空宇宙博物館 パリ ル・ブルージェ 2008年夏
Musee de l'air et de l'espace (ミューゼ ド レール エ ド レスパス) - Le Bourget Paris


■その1
ルブルージェへの行き方 ・黎明期(1783 - 1914)第一次世界大戦(1914 - 1918)
■その2
戦間期 ゴールデンエイジ(1919-1939)第二次世界大戦(1939 - 1945)
その3(1946〜現在)
冷戦期のジェット研究機 実用ジェット戦闘機 屋外展示 コンコルドホール その他

フランスはアメリカに次ぎ世界で二番目に航空産業が盛んな国です。
世界ではじめて航空機(気球)が実用化されたのはフランスであり、ライト兄弟が飛行機を発明した後もフランスは世界の航空産業をリードしてきました。
第二次世界大戦時、ドイツの侵略を受け国土の半分を失った1940年 - 45年の間こそ一時的に脱落したものの、戦後見事に復活(何もやっていなのに戦勝国の仲間入り)し、冷戦中は自由主義陣営ながら米ソどちらにも組せぬ第三極として独自の航空機を開発しつづけ、現在でもエアバス、ユーロコプター、ダッソー、EADS…世界有数の航空機メーカーの数多がフランスに本拠を構えています。
その栄光有るフランス製航空機の歴史を綴る史料を多数展示する博物館こそが「ミューゼ・ド・レール・エ・ド・レスパス」です。
ミューゼ(Musee)は博物館、レール(l'air)は航空、レスパス(l'espace)は宇宙、すなわち「航空宇宙博物館」です。
ただそのまま「航空宇宙博物館」では分かりませんから、この博物館を指して呼ぶ場合はパリやル・ブルージェなどの地名をつけて呼ばれる事が多いようです。このページではル・ブルージェ航空宇宙博物館と呼ぶ事にします。
ル・ブルージェ航空宇宙博物館はル・ブルージェ空港の敷地内にあり、過去この空港が旅客機の定期便を扱っていた際に建設されたターミナルや格納庫が、そのまま博物館として利用されています。現在ル・ブルージェ空港は旅客機の定期便が有りません。
ル・ブルージェは世界最大のトレードエアショーとして有名なパリエアショーの開催地として、またリンドバーグが着陸した飛行場としても有名です。

ル・ブルージェ航空宇宙博物館は芸術の都パリに相応しい、航空機の文化を伝える素晴らしい博物館です。展示物が多い上に、ただ地上に飛行機を置いてあるだけではなく、見学者があらゆる角度から観察できるよう工夫して展示されているので、必然的に1機あたりに掛ける時間は長くなります。朝の10時ごろ到着し15時まで見学していましたが、次の目的地バーミンガムへの飛行機の時間が迫っていなければ閉館までゆっくり見て回りたかったです。
フランス機のファンは勿論のこと、そうでない人でも20世紀の航空史に触れる楽しみがこの博物館には有ります。美術の授業=50分が過ぎ去るのを待つ自由時間だった人はルーブル美術館行くより遥かに有意義でしょう(笑)「教養の無い大人ってやーねぇ」 「なぁに、航空機だって立派な機械工芸品であり、文化だ。」

朝10時より開館で入場料は無料。コンコルド+747の中に入る場合のみ併せて5ユーロです。エントランスで購入しましょう。
http://www.mae.org/ (公式サイトです。フランス語のページしか有りません。)

■行き方

ル・ブルージェ航空宇宙博物館はパリの郊外、ちょうどパリ市街とシャルル・ド・ゴール空港との中間点にあります。
メトロの7号線北行き終点のLa Courneuve 8 mai 1945駅(案内板によってはCourneuve(クルヌーヴ)としか書いてない場合も)を降り、地上に出たら円形交差点(中心がトラムの駅になっている)の対角側に有るバス停で152系統のバスに乗ります。日中は10分に1本くらいあるので、時間は気にしなくても大丈夫です。

地上に出た所すぐで撮影。バス停はトラムの駅の向こう側です。
バスは地下鉄と同じ切符が使えるので、10枚回数券のカルネなどあらかじめ纏め買いしておくと、バスの運ちゃんから買わずに済み便利です。


152系統のバスに乗ったら下図☆印の10番目のバス停「Musee de l'air et de l'espace」で降車します。いくつか前のバス停から馬鹿でかいアリアンロケットが左前方から見えてきますし、1個前のバス停からも博物館が見えるので、うっかり乗り越すと言う事は無いと思います。バス停から反対車線側にパトルイユ・ド・フランスのマジステールが見えますので、そちらの方に歩いていけばOKです。


La Courneuve 8 mai 1945バス停にあった152系統の路線図。 ☆印をつけたところが博物館前です。
バスの進行方向が図で表示されているので分かりやすいです。
メトロと連絡する駅(M)(7)と表示されているバス停はLa Courneuve 8 mai 1945だけではないので、その辺はご自由にどうぞ。

私たちの場合はシャルル・ド・ゴール・エトワール(凱旋門の直下の駅)から2号線でスターリングラード駅へ、そこから7号線に乗り換え、クルヌーヴ1945年5月8日駅へ、バスに乗りMusee de l'air et de l'espaceで降車という経路を使いました。所要時間は1時間15分程度でしたのでプランニングの参考にどうぞ。
しかしスターリングラード駅とか、1945年5月8日駅(第二次世界大戦ドイツ降伏の戦勝記念日)とか凄い名前の駅ばかりですね。
また、Musee de l'air et de l'espace停には350系統パリ北駅〜シャルル・ド・ゴール空港間のバスも停車するのでそちらを利用するのもいいかもしれません。

・治安について
パリは街並みの美しさとは裏腹に、衛生面のキレイさや社会的な治安の良さは感じられません。メトロ(地下鉄)は駅構内にイスラム系や障害者の物乞いであふれ(道のど真中で物乞いするなー)。駅と駅の間のトンネルの壁面はビッシリと落書きされています(どうやって描いたんだ)。実際、スリや置き引き強盗などの被害が多発しているようです。
またパリの郊外、ル・ブルージェやクルヌーヴは移民が多く治安があまりよくないので、十分に警戒しましょう。スリは警戒してる人間よりトロい奴を狙います。
と、書くとちょっと二の足を踏んでしまいそうですが、変なところに行かない限りそう危険な目には遭わないでしょう。

我が国でも一部に移民推進の動きが有るようですが、パリの現状を見るに全く賛同できませんね。治安悪化の第一歩に繋がりかねません。人口減少、少子化なんて産めよ増やせよ。これですよ。と、20代後半になっても独身で、国内に金を落とさず毎年海外で散財している非国民の私が言ってみる。だって、まだ行きたいエアショーや博物館がいっぱい有るんだもん。所帯持ったら行けなくなるんだもん。
(と、考えてる人が多いから少子化が進むんですね)

■黎明期〜第一次世界大戦前 1783年〜1914年
記録が残る限り最も早く実用的な航空への取り組みを始めたのはフランスです。飛行機が誕生する以前の1783年には有人気球が初飛行しています。エンジンの発展により自由に空を飛べるようになった1900年代初頭の、第一次世界大戦勃発前までの歴史を見ていきましょう。
この時期、フランスは名実ともに世界一の航空大国でした。世界一・史上初と言った単語が何度も登場します。どの飛行機も独創的な工夫が溢れた、まさに『素晴らしきヒコーキ野郎』の世界です。

写真はル・ブルージェ航空博物館において恐らく最も古いと思われる史料。プロペラに主翼らしきものを付けた仙人の乗り物。Ki-Kungというらしいですが、どういう漢字を書くのでしょう。
説明文にはチャイナとありますが、下の凧揚げはどう見てもジャポネーゼです。平仮名らしき文字が書いてあります(読めませんが)。Ki-Kungとは何の関係もなさそうです。
抗議しようかと思ったけどフランス語わっかんね。どなたか途仏予定のある方、間違いを指摘してやってください(ノ∀`)

・モンゴルフィエ兄弟の気球

写真は1783年6月5日フランスのアノネイの市場にて実施された無人気球による公開実験の様子を縮小再現したものです。
直径11mの気球は高度1830mまで上昇しました。
モンゴルフィエ兄弟は焚き火から立ち上る煙をヒントとし熱気球を完成させました。当時熱気球の原理は分かっておらず、空気より軽い気体である煙の作用であると思われており、「モンゴルフィエのガス」と呼ばれました。
同年9月19日にはルイ16世やマリー・アントワネット立会いのもと動物実験が行われ、羊、アヒル、雄鶏が、気球にのって初めて浮揚した生き物となりました。この実験は、生き物が空を飛んでも窒息しないかどうかという目的のほかに、天上の神の怒りを買わないかという意味も有りました。
さらに同年11月21日には初の有人飛行が行われ、この日はじめて人類が鳥類の一種になりました。
この成功を皮切りに欧州各国で気球の開発がにわかに加熱する事になります。
そして1794年ついに気球はフランスにおいて軍事に利用されます。主に地上に係留し、偵察用として用いられました。
頭上から投石する”爆撃機”や、爆薬を搭載した”風船爆弾”としても運用されましたが、動力を持たず風任せの機動では、効果も薄かったようです。


・L'Albatros artificiel ラルバトロ・アルティフィシュ 1856

船乗りであったジャン・マリー・ル・ブリは、航海しながら海鳥を観察し、飛行するための研究を重ねていました。
そして鳥の姿を真似た「ラルバトロ・アルティフィシュ」すなわち人工アホウドリの名を持つグライダーを設計しました。

1856年12月、フランス北海岸の西端に近いサンタンヌ ラ・ポー海岸において、台車に置いたラルバトロ・アルティフィシュを馬車で曳航し、ある程度の助走した後に見事離陸に成功。高度100mまで上昇し、200mの距離を飛行しました。模型はその様子を再現したものです。
ル・ブリはこの実験により、前進する事による風を受ける翼の角度(迎え角)を変更させてやる事により、機体姿勢の制御が出来ることを発見しました。ル・ブリの発見はエルロン・エレベーター・ラダーへと姿を変え、150年後の現在においてもほぼ全ての飛行機の姿勢制御に用いられています。
風を制御する船乗りと言う職業上、本能的に理解していたのでしょう。


・14bis ”Oiseau de proie” / 14bis オワゾー ドゥ プロア(写真は模型です) 1906

フランス系ブラジル人のアルベルト・サントス・デュモンが設計・製造したヨーロッパ初の動力付き飛行機です。
写真の右が後方、左が前方です。
ライト兄弟より遅れる事3年、1906年9月13日パリ郊外において『飛行』というにはあまりに短い6mの欧州初の動力飛行に成功しました。
その後も改良型が様々な「欧州初」を達成し、デュモンはたくさんの賞金を得ています。
ライト兄弟のフライヤーと同じくプッシャー式推進を持ったカナード機ですが、ロール軸の制御機構を備えておらず、たわみ翼もエルロンも有りません。バンク角がついてしまった場合は強い上半角による安定性で自然に水平に回復するのを待つ事しかできませんでした。
三軸の操縦装置をもつライト・フライヤーは、離陸しやすい風の強い場所を選んで飛行を実施しましたが、14bisは復元力を超えた横風を受けると横転してしまうため、風のある日は飛行できません。


・Cornu helicopter コルニュのヘリコプター 1907

自転車屋のポール・コルニュが設計し、史上初の離陸に成功した回転翼機。ヘリコプターの祖。
1907年11月13日に僅か30cmの高さを20秒間のホバリングに成功しました。操縦は二本のレバーによって行いますが、非常に難しく、結局浮き上がった程度で、実用化はしませんでした。
とはいえ、本機より僅かに先に開発されていたブレゲー・リシェIヘリコプターは、不安定すぎて地上に立つ4人が支えなければ浮き上がれないという状態だったので、それに比べればたいしたものです。
24馬力V型8気筒アントワネットエンジンを単発備えます。ランディングギアといい、ローターといい自転車っぽいのがさすがです。
2007年に100周年を記念して製造されたレプリカです。

ちなみにこうやって乗ります。ほんとヘリコプターというより空飛ぶ自転車ですね。エンジンの熱と騒音がヤバそう。
なお、ポール・コルニュ氏はノルマンディー上陸作戦において米英軍の空爆により死亡しました。
この機はヘリコプター館のものなのですが、同世代機ということで、こちらに入れておきます。


・Demoiselle ドモワゼル 1908

サントス・デュモンが生涯最後に設計したプライベート機。ドモワゼルとはトンボもしくは少女の意。恐らく前者でしょうが、言われてみれば可愛らしいシルエットです。
24馬力のアントワネットから60馬力のノームまで、様々なエンジンを搭載し、100機あまりが生産されたベストセラーになりました。僅か半月で製造でき、値段は50,000フランでした。
一応たわみ翼によるロール軸制御も可能なようですが、安定を得るにはパイロットの体重移動による姿勢の制御が必要だったようです。上半角が結構強めに付いているのも関係があるかもしれません。
ちなみにスロットルも無いため、エンジンのON/OFFを繰り返す頻度を手動で変える事によって上昇・下降を制御します(第一次世界大戦まで殆どの飛行機も同様です)。


・BLERIOT XI ブレリオ11 (1909)

ルイ・ブレリオが設計し1909年7月25日に自らの手によって史上初めてドーバー海峡を横断した名機。
陸上におけるフライトでは08年には既にライト兄弟によりドーバー海峡を超える距離の飛行が実現していましたが、海上となれば話は別です。カレーを離陸し、途中25馬力”アンザニ”エンジンのオーバーヒートや、自らの機位を失い迷走状態になるも36分の飛行で見事にドーバー海峡の横断に成功しました。名声を上げたブレリオXIはスポーツ機として、または軍用偵察機として、多数製造されました。
この機が登場する以前までは、ライト兄弟曰く「ヨーロッパの飛行機は犬に追われたニワトリが跳んだ程度のもの(サントス・デュモンの事かー!)」でしか有りませんでした。しかし、兄弟の飛行機のたわみ翼によるロール軸制御が知られるようになると、ヨーロッパの飛行機もライト兄弟の機と同等なバンクをとった調和旋回の制御が可能なものが登場しました。ブレリオXIもそのうちの一つです。
ドーバー海峡の横断以降もブレリオXIは航空史に残る偉大な記録を数多く打ち立てました。
・史上初めてロンドンパリ間の無着陸飛行に成功したのもブレリオXIでした。
・史上初めて長距離の夜間飛行に成功したのもブレリオXIでした。
・史上初めてアルプス山脈越えに成功したのもブレリオXIでした(着陸寸前で空中分解!操縦士は数日後死亡)。
・史上初めて持続した背面飛行に成功したのもブレリオXIでした。
・史上初めて飛行機からのパラシュート降下に成功したのもブレリオXIでした。
・史上初めて戦争に投入(偵察任務)された飛行機もブレリオXIでした。(1911年イタリアトルコ戦争における。以下同。)
・史上初めて空爆(手投げ弾)を行った飛行機もブレリオXIでした。
・史上初めて地上掃射(ボルトアクションライフル...)した飛行機もブレリオXIでした。
・史上初めて撃墜(地上からの銃撃)された飛行機もブレリオXIでした。
他、史上初〜という記録はたくさんあります。第一次世界大戦までの飛行機の中で、歴史的記録に於いてもビジネスに於いても最も成功を収めた飛行機といっても過言では無いでしょう。軍用機としては三国協商、三国同盟両陣営において第一次世界大戦初期まで使用されました。


こちらはブレリオXI-2。史上初めて持続した背面飛行に成功した機です。
初期型の倍以上の馬力を誇る”ノーム”7気筒ロータリーエンジン70馬力に換装されています。
カウリングが凝ってますね。この当時のカウリングは空気抵抗を減らすためのものではなく、シリンダーから噴出すオイルからパイロットを守る為のものであるため、下部はそのまま吹きさらしになっています。
後日訪れたダックスフォード フライングレジェンドにおいてブレリオXIが飛行展示を行いましたが、全可動式のラダーの効きが半端ではありませんでした。まるで近年の推力変更エンジン搭載のロシア製戦闘機にように強引に機首を振り回すような印象を受けました。
ちなみに、英仏海峡初横断で本命視されていたのはライト機でした。しかしライトは「欧州機はニワトリのジャンプ」などと広言を吐いたにも関わらず、失敗時の名声失墜を恐れ挑戦しませんでした。
もしもライト兄弟が挑戦し、成功していたとしたらブレリオの躍進は無かったかも(?)しれません。
なお、ブレリオXI-2は日本にも輸入されています。


・ANTOINETTE VII アントワネットVII (1909)

ブレリオの成功の影にアントワネットの失敗あり。
主翼はレプリカですが、磨かれたV型8気筒50馬力”アントワネット”エンジンと木製の機体はオリジナルのものです。舟のような細身の長い胴体と、非常にアスペクト比の大きなテーパー翼、まるで鳥のような尾翼と、とても美しい優雅なラインに、思わず魅了されてしまいました。V字胴体側面の皺のようなパイプのラインはラジエーターです。
英国デイリーメール紙の、「飛行機で初めてドーバー海峡を越えたものに1000ポンドの賞金を与える」という賞に対し、1909年7月19日操縦士ユベール・ラタムは本機でドーバー海峡越えに挑戦しましたが、カレーから11km飛行後エンジントラブルで不時着水し、失敗してしまいました。そして、僅か6日後。先述の通り、史上初の海峡横断の名誉と1000ポンドはブレリオが手にする事になります。
ブレリオが成功した二日後、ラタムは再びアントワネットで挑戦します。今度はイギリス側から飛び立ったものの、エンジントラブルでドーバーのホワイトクリフから僅か1km飛行したところで不時着水しました。
ドーバー海峡の横断こそ失敗してしまいましたが、同1909年8月には100km周回コースにおいて67km/hの世界新記録達成。翌1910年1月7日には史上初の高度1000m到達。歴史に名を残す名機となりました。
ちなみに操縦装置は操縦席側面にある二つのハンドルです。これで操縦しろとか...無理(><)


・FABRE HYDRAVION ”Cnard” ファーブル イドラビオン ”カナール” (1909)

イドラビオンとは水上機の意。カナールとは鴨の意。先尾翼を意味するカナードの語源です。
『カナール』の名のとおり、アンリ・ファーブルが設計した史上初の先尾翼水上飛行機で、1910年3月28日に南仏マルティグのラメド港において史上初の離水に成功。500m飛行を達成しました。
いかに水上からとは言え、既にドーバー海峡の横断すら成功している1910年に500m飛行したところで...。その後の不時着事故もあり、本機は史上初の水上機としての名誉こそ得ましたが商業的には失敗してしまいました。

この機、非常に大きいです。特に後部の主翼の長さが半端では有りません。それに引き換え、小さなロータリーエンジンはどこか頼りなさげに見えてしまいます。

これ1機ほしい!!(n‘∀‘)n 張り線の本数もここまで来ると芸術的とすら思えてきます。気に入ってしまいました。
オッサンの膝元に伸びている木製の枠のようなものは操縦装置で、先尾翼と直結しています。まるで手綱のようですね。
搭乗というよりも騎乗と言った感じです。


・Astra-Wright Biplane アストラ・ライト 複葉機 (Astra Wright Type BB) 1910

ライト兄弟機のようですが、よく分かりませんでしたヾ(;゜ー゜)ノ
動力結合にチェーンを使っている当たりが自転車屋さんらしいですよねえ。


・Deperdussin B ドゥペルデュサンB 1910

これもよく分かりませんでした。カッコいいのに><


・Nieuport II N ニューポール2N (1911)

流線型のキレイなシルエットを持つ機体がようやく出てきました。ニューポールII Nはレーサー機です。水平対向2気筒28馬力を搭載。
ノーム70馬力ロータリーエンジンに換装された型が1911年に、アメリカのシカゴで行われたゴードンベネットカップにおいて平均125.5km/hを記録し、優勝しました。張線の数が非常に少なく、見るからに速そうです。
本機を原型としたニューポールIV及びニューポールVIは第一次世界大戦において偵察任務に使用されており、さらには名機ニューポール11にまで発展しました。


・DONNET LEVEQUE ドネー・レベック 1912

よくわからん3号ヽ(´ー`)ノ
だって、看板フランス語しかないんだもん><


・Deperdussin Monocoque ドゥペルデュサン モノコック 1912

ブレリオXIから僅か3年しか経っていないとは思えないほど革新的なシルエットです。明らかに周りの飛行機から浮いています。(^^;
その名の通り木製の外皮とフレームで構成されたモノコック構造(セミモノコック)の単葉レーサー機で、枠組構造が剥き出しや、良くて布張りが主流だった当時の飛行機とは一線を画す滑らかな表面、完全にエンジン周りを覆ったカウリングに流線型のスピナーなど、速度向上のための工夫が一目瞭然です。
エンジンは7気筒2列合計14気筒の160馬力と強力なロータリーエンジンを搭載しています。
実績も素晴らしく、1912年シカゴで行われたゴードンベネットカップにて174.1km/hを記録し優勝、14年大会においては203.85km/hで優勝と、史上初めて時速200km/hを突破しました。かの名高いシュナイダートロフィーレースにおいては1913年第1回モナコ大会において降着装置をフロートに換装した水上機型が平均速度73.63km/hを記録し見事優勝。航空先進国フランスのスパッド『SPAD:ドゥペルデュサン航空機会社』の威名を世界に鳴り響かせました。
余談になりますが、今回の欧州旅行ではシュナイダートロフィー永久保持を勝ち取ったスーパーマリンS6Bも見る事ができました。かのレースの最初と最後をこの目で見比べられるという幸運に恵まれました。まあ、狙ってたんですけどね(´ー`)


・Morane Saulnier type H / モラーヌ・ソルニエH 1912

モラーヌ・ソルニエGの単座仕様機。フランスの航空機会社モラーヌ・ソルニエの名を冠しているにも関わらず、なぜかイギリスのグラハムホワイトファクトリーにおいてG型およびH型合わせて110機あまりがライセンス生産され、フランス軍の航空隊に納入されました。
単座機の本H型は、1912年にイギリス系フランス人のパイロット、ローラン・ギャロの操縦により当時フランス領であった現チュニジアのチュニスにおいて5610mの上昇高度世界記録を達成、翌13年には同じくローラン・ギャロにより南仏のイタリアに近いサン・ラファエル(Saint raphael)から現チュニジアのビゼルタ(Bizerte)まで、約730kmを7時間53分の無着陸で飛行し、史上初の地中海縦断に成功しました。
09年にはドーバー海峡、10年には1000mまでの上昇がやっとだった飛行機が、わずか数十ヶ月の間に数倍も性能が向上したのですから、この時代の航空技術の進歩は目覚しいものがあります。
大戦初期にはすぐに性能不足となり、実任務からははずれ主に訓練用として運用されました。また、史上最初の戦闘機モラーヌ・ソルニエL型及びN型や、史上初の量産実用戦闘機フォッカーE.Iの原型ともなりました。
パイロットのローラン・ギャロの名前は覚えておきましょう。後に彼は戦闘機の誕生に大きく関わります。
史料によってはローランド・ギャロスと表記される場合がありますが、こちらは英語読みです。
(Wikipedia日本語版ではなぜかローラン・ギャロスと英仏混合になってる)


・Farman MF7 モーリス・ファルマンMF7 1913

プッシャー式、前方のエレベーター、後方のラダーと、エルロンが無ければまるで初期のライトフライヤーのようなスタイルで、1つ上のモラーヌ・ソルニエHはもとより、アントワネットやブレリオXIよりも後の世代とはとても思えません。軍用機として欧州諸国や日本で広く使用されましたが、実際にブレリオなどよりも先にリタイアしています。
エレベーターを支える湾曲した突き出た木製の支柱(竹の支柱ではない下部のもの)から、ロングホーンと愛称が付けられていました。一方日本では馬鹿ガラスとか、ちょんまげなどと形容されています。
「ベルギーは道では無く国だっ!」と、徹底抗戦を叫んだ事で有名なベルギー国王アルベール1世は第一次世界大戦初期に本機を操縦したそうです。まだ戦闘機と呼ばれる機種が存在しなかった事もありますが、戦争中国のトップが操縦桿を握るって、それなんてインディペンデンスデイ?
一方極東では日本による青島のドイツ租界攻略戦に投入され、偵察・観測・爆撃に投入されました。少数が稼動状態にあったドイツ軍のエトリッヒ・タウベを撃墜すべく機銃を搭載しましたが、タウベのほうが遥かに優れていた事、青島がすぐに陥落してしまったため日本史上初の空中戦は戦果無しに終わりました。

この写真は日本が史上初めて国産した会式一号。所沢航空発祥記念館より。
ファルマン機(MF-7ではない)を真似て製造されただけに、随所にその共通点を見る事ができます。


・Farman HF20 アンリ・ファルマンHF20 1913

上記モーリス・ファルマンの兄であるアンリ・ファルマンが設計した機。全体的にMF7にそっくりですが、水平尾翼と垂直尾翼が後ろにまとめられ、”ロングホーン”が無くなりました。
エンジンの出力不足が深刻な問題(MF7も含む)でしたが、まだ戦争に飛行機が使用された実績が薄かったためHF20(MF7)は広く、欧州各国の軍隊や日本にも輸出・運用され、第一次世界大戦勃発初期には偵察機として活躍しました。
大戦中、より強力なエンジンを搭載した型も生産されましたが、血の洗礼を浴びていない00年代の技術で設計されていた本機に活躍の余地はあまり残されておりませんでした。第二線級機や、小国においては貴重な航空機として大戦を最後まで戦い抜きました。


■第一次世界大戦 1914- 1918
フランスには第一次世界大戦時の連合国盟主であったという自負があります。ル・ブルージェ航空宇宙博物館は、その自負に相応しい数多くの第一次大戦機を保有しています。
暗く、湿度が高く、不潔で、死臭漂い、死体を喰らうネズミが発生し、病気が蔓延する塹壕で戦線は延々と膠着。ひたすら人命と弾薬を消耗し、強烈なストレスで精神を病む者が多発した第一次世界大戦。
「飛行機」は、無限の空を高く速く飛行し、新兵器である「戦闘機」は終わりなき塹壕戦とは無縁のクリーンな航空戦というイメージを生み出しました。そしてエースパイロットは、地上戦からは既に消滅してしまった騎士と称えられ、敵味方無く賛美するヒロイズムが盛んに宣伝されました。果たして、そのようなクリーンな航空戦というものは存在したのでしょうか。
(偵察写真を評価する将校)
第一次世界大戦時、航空隊の主要な任務は、砲撃を行うため敵国の塹壕を正確に把握するための写真偵察と、砲兵が効率よく間接射撃を行うのに必要な観測でした。偵察機・観測機は何十人もが正確に消し飛ぶ砲兵支援を、より正確なものにしました。塹壕戦による死者の三分の一は、前線における戦闘ではなく砲撃を受けたものです。
そもそも戦闘機という機種は、敵の偵察及び観測を阻害する目的から誕生しました。英仏独は各国戦闘機だけで1万機以上を生産し、その殆どを北海からスイスまで伸びる塹壕の上空に送り込みました。飛行機同士の航空優勢を掛けた戦いは地上と同じく数対数の果てしない無限の消耗戦となり、結局のところ、塹壕の中から上を見上げる将兵がイメージする『クリーンな航空戦』は、地獄の地上戦の延長上に過ぎなかったのです。
まして、当時の戦闘機はパイロットが外気に剥き出しに晒されており、何の防弾もなければパラシュートによる脱出システムすらもなく、撃墜とは死を意味しました。

第一次世界大戦は参戦国の内部紛争で終結したのであって、結局地上戦も空中戦も、ただ無駄に人命を散らすだけの虚しい戦争でしか有りませんでした。

・モラーヌ・ソルニエN プロペラ防護板 1915

プロペラ回転圏内から発射された機銃弾を弾き飛ばす防弾板。
第一次世界大戦初期、飛行機に搭載した回転機銃では敵国の飛行機を撃ち落すのは非常に困難である事が判明しました。
効率よく敵の飛行機を撃ち落すには、敵機の後ろに遷移し前方に固定した機銃で射撃する。という、現代戦闘機の基本とも言える考え方が知られるようになりますが、一つの大きな障害がありました。プロペラです。
前方への射撃を研究していたモラーヌ・ソルニエ社の技師レイモン・ソルニエとテストパイロットながらフランス軍に志願したローラン・ギャロは、プロペラの隙間から発射する、機銃のプロペラ同調装置の研究をしていましたが、開発は難航していました。結局導き出した答えは「それならば、プロペラに防護板を取り付け、弾き飛ばしてしまえばいい。」という、乱暴な発想でした。
あまりに突飛な発想に、仲間内にさえ白い目で見られていたようですが、ローラン・ギャロは愛機のモラーヌ・ソルニエL機に防弾板付きのプロペラと、機首同軸のホチキス機関銃を装備し、ここに”プロペラの回転圏内からの射撃”が可能な”史上初の戦闘機”が誕生し、自らの操縦により実戦に投入されました。
単座機で、しかも座ったままのギャロにドイツ軍のパイロットは攻撃されるなど思っても居らず、1915年の3月、わずか2週間で3機のドイツ機を撃墜しました。”戦闘機”の前ではカメラと旋回機銃を取り付けただけのスポーツ機など無力同然でした。
しかし、翌4月に彼はドイツ領内に不時着。ギャロは機体に火をつけるも肝心の機首周りだけが焼け残り、前方への射撃の秘密は流出し、完成された機銃・プロペラ同調装置を装備したフォッカーE.Iシリーズ”アインデッカー”により数十倍にも仕返しされる事となります。ニューポール11が登場するまで、フォッカーE.Iに対抗する手段は何一つありませんでした。(フォッカーの懲罰)
ギャロの成功の後、写真の防弾板付きプロペラをもったモラーヌ・ソルニエNが生産されましたが、「プロペラを撃ち抜いてしまう事も有った」ため49機の生産に終わりました。

ちなみにフォッカーは未完の同調装置とプロペラを見て、とりあえずプロペラを真似た方が早く実用化できると踏んだのか、当初プロペラ防弾板を真似するも、MG08機関銃はホチキスよりも初速が200m/s速く、銃口エネルギーも3300Jに対し4100Jと20%以上も高かったため、どうしても防弾板を打ち抜いてしまい成功しませんでした。
結局、同調装置の開発に乗り出しますが、戦前から既に特許が取得されていましたが、重要性が理解されずに埋もれていた『シュナイダー式プロペラ同調装置』を発見。それを無許可で真似てフォッカーE.Iの実用化にこぎつけました。
戦後、フォッカーは発明者のフランツ・シュナイダーにより特許の侵害で訴えられるも、フォッカーはオランダへ逃亡。裁判はうやむやになってしまいました。

・Nieuport XI ニューポール11 1915

フォッカーの懲罰を終わらせたフランス製戦闘機。1914年のゴードンベネットカップを目指し設計されており、11年の勝者ニューポール2N(上で既出)の面影が胴体に見る事ができます。戦争によりレースが中止されてしまったため、戦闘機として再設計されました。
下の翼幅が小さい一葉半と呼ばれる複葉を持ち、V字の支柱が特徴的です。その小さな形状からベベ(赤ちゃん)とあだ名されています。
エンジンは80馬力のノームロータリーエンジンを装備。フォッカーEシリーズも、ノームをコピーしたエンジンを搭載していましたが、所詮はエルロンすら持たない戦前のモラーヌ・ソルニエHにプロペラ同調装置付き機銃をつけたに過ぎないアインデッカーに対し、ニューポール11は軽量小型で、速度も旋回性能も殆ど全ての面で勝っており、1915年後半期に実戦に投入されるとすぐにフォッカーの天下は終わりを告げ、ドイツの圧倒的航空優勢を崩壊させました。


ニューポール11はプロペラ同調装置の開発前であったため、ルイスもしくはホチキス機関銃が1挺主翼の上に取り付けられました。写真の機はルイス機関銃です。
この機関銃の装備がニューポール最大の弱点でした。ルイスの約50発の弾丸カートリッジを撃ち尽くすと、パイロットはベルトを外し立ち上がりって再装填する必要がありました。ホチキスの場合は僅かに24発です。翼についている取っ手はそのときに操縦を行うためものです。
また、弾詰まりを起こしやすく、度々金槌で叩いて詰まりを直さなくては成りませんでした(勿論立ち上がってです)。とてもドッグファイト中に出来るような事ではなく、一度離脱する必要が有りました。今から考えてみると笑ってしまいそうな欠陥ですね。
写真の機には装備されていませんが、機関銃を曲線のガイドレールに沿ってパイロットの手元にまで降ろすフォスター銃架が取り付けられましたが、普通に水平飛行している時でもカートリッジの交換は難しかったようです。この弱点は連合国軍初のアルカン式プロペラ同調装置付きのビッカース機関銃を搭載したニューポール17で、ようやく解消される事となります(弾詰まりは健在)。
フォッカーEシリーズには圧倒的な能力を発揮したニューポール11も、軽量なのが災いして強度が弱く、急降下して逃げる敵を追いかける事はできませんでした。1917年の頭には殆どドイツ軍の戦闘機には対抗できなくなってしまい、より高速なスパッドS7に主力の座を譲る事となります。
日本にも発展型のニューポール24が輸出され、軽戦嗜好のパイロットたちに大変好まれたようです。


・SPAD S.VII スパッドS7 1916

第一次世界大戦の戦闘機をあまり深く知らない人でも、スパッドの名ぐらいは聞いた事があるでしょう。3200機が生産された、第一次大戦中期から終戦まで活躍したフランスを代表する、ルイ・ベシュロー技師傑作の名戦闘機です。敵より味方を恐怖に陥れた問題作、スパッドA2を原型に設計されました。
ニューポール11及び17を代替する事が期待されていましたが、軽量なニューポール11/17と比べると重く機動性に劣り、当初パイロットたちには好まれていませんでした。中にはニューポールに戻るパイロットも居たそうです。
しかし、スパッドS7は最高速度が200km/hと、ニューポール11よりも50km/h近く高速であり、特に頑丈な機体は急降下時に400km/hに達しても破壊される事はありませんでした。速度の優勢は空中戦におけるイニシアチブをもたらし、パイロットたちはすぐに一撃離脱の戦い方の可能性を見出しました。特に一度急降下に入ると、スパッドS7に追いつける戦闘機は無かったのです。
フランスのトップエース、ルネ・フォンクは「スパッドS7は空中戦の様相を完全に変えた」と、後に記しています。戦闘機が速度の限界に達する60年代まで、実に50年間もの間戦闘機は速度を重視し設計された事を考えると、フォンクの言葉の重みとスパッドS7の先見性が理解できます。
実戦部隊への配備は1916年の暮れから始まっていましたが、生産・戦力化に遅れ、1917年4月のドイツ軍攻勢「血の4月」においてはアルバトロスDシリーズに対抗できる数少ない戦闘機の一つでしたが、その時点ではまだ十分な数が揃っていませんでした。17年の後半期になり、多くの機が就役すると「血の4月」で奪われた航空優勢を奪回する主戦力となりました。

非常に長い排気管が特徴的な150馬力V型8気筒水冷、イスパノスイザ8Aエンジンがオーバーヒートしやすかった事、また同世代のドイツ軍アルバトロスDシリーズが二挺の機銃を搭載していた事に対し、プロペラ同調装置付きビッカース機関銃1門だけといった弱点もありました。
200馬力のイスパノスイザ8Bエンジンにビッカース機関銃2門とした、弱点を改良したスパッドS13はフランス軍最良戦闘機として知られています。

写真の機”Vieux Charles(年老いたシャルル)”は、フランス軍ナンバー2のエースパイロット、ジョルジュ・ギンヌメールの搭乗機です。ギンヌメールは誇り高く、敵機の機銃が故障したと見るや、あえて見逃したりと、騎士道精神を持ったパイロットでした。
RIATのページにも書きましたが、ギンヌメールとエルンスト・ウーデットとの戦いは、第一次大戦におけるエースパイロット同士の名高い一騎打ちの中でも、最も心を打つ名場面だと思います。(航空軍事用語辞典・エルンスト・ウーデット項参照)
客観的に見れば、ここでウーデットを逃した事により、後にウーデットが撃墜する事になる40人のフランス人同胞パイロットを死に至らしめた。ともいえなくも有りませんが…。当時22歳の彼の心中は如何に。
ちなみに、ギンヌメールと同じような騎士道精神を発揮したが故に、その瞬間別の敵機に撃墜されて死亡しまったという笑えない例もあったようです。やっぱ戦争に騎士道精神だの偽善は身を滅ぼしますね。
ギンヌメールは防弾板もなければパラシュートも無い飛行機で7回も撃墜されながら生き残る(勿論不時着で)というタフなパイロットでしたが、1917年9月11日に8度目の被撃墜を受け、ついに戦死してしまいました。撃墜数54機はこの時点で連合国軍トップの記録でした。
またギンヌメールと同じコウノトリ飛行隊(機体にマーキングが施されてますね)において、滋野清武という日本人もスパッドS7を駆り6機撃墜を記録し、エースパイロットとして活躍しました。
日本もスパッドS7及びS13を輸入しましたが、帝国陸軍には「ニューポールに比べ重くて使い物に成らない」と、全く好まれませんでした。そりゃ、当たり前です。一対一の巴戦で評価してるのですから。
欧州から遠く離れた青島のド田舎で、ファルマン複葉機を飛ばして終わってしまったのですから、仕方ないといえば仕方無いのですが、第一次大戦の経験の無さが、そのまま第二次大戦における軽戦主義にまで繋がっているのです。
これが「血の教科書」の差なんでしょうね。

余談ですが、ギンヌメールはスパッドS7に37mm砲を搭載させたギンヌメール専用スパッドS12として空対空用として使ってました。彼は一発で敵機が吹っ飛ぶのが良いというので、フランス軍は300機も発注。しかし普通のパイロットには、初速が遅く、12発しか装備していない37mm砲を扱う事は出来ませんでした。
また、重かったため飛行性能も落ちるなど、非常に扱い難く、技量の高いパイロットしかその真価を発揮する事が出来ず、以降はエース専用機として使われました。まるでガンダムの世界みたいですね(^^;


・Fokker D.VII フォッカーD7 1918

ドイツ軍の誇る第一次世界大戦最優秀戦闘機の一つ。
性能面ではキャメルのように鋭い旋回が出来るわけでもなく、かといってスパッドのような速度を誇るわけでも有りません。しかし、この戦闘機には従来の飛行機には無い革新的な技術が投入されました。
従来は主翼は可能な限り薄いほうが良いという考え方で作られた薄翼が主流でしたが、それに反して分厚い厚翼の主翼を持ちます
厚翼は、薄翼と比し揚抗比に優れているほか、機動中における急激な気流の剥離(失速)が発生しなくなり、優れた操縦性と機動性を実現。新米パイロットでもエースパイロットの如く機体の性能を発揮できました。ロータリーエンジンの悪癖に悩まされ、墓標、赤十字(病院送り)、ビクトリアクロスの3つの十字を与えると揶揄された、ライバル機のキャメルとは対称的です。

また、分厚い主翼はそれそのものが強度を持つため、支柱を除く一切の張線が取り払われた片持ち式の主翼は抗力が大きく減少しました。本来、片持ち構造のみで支える事ができ、支柱の必要は有りませんでしたが、「心理的不安」を取り除くためにあえて支柱を設けています。
しかし、200km/h程度の最高速度では片持ち式の恩恵は少なかったようで、大戦後もバリバリ張線だらけの飛行機がたくさん設計されています。
本機に関して第一次世界大戦 休戦協定 第4条に以下のような文が有ります。
Surrender in good condition by the German Armies of the following equipment:
1,700 aeroplanes (fighters, bombers - firstly all D.7's and night-bombing machines).

・ドイツ軍の装備で稼動状態にある以下の兵器を引き渡す事。
(中略)1700機の航空機。戦闘機と爆撃機、全てのフォッカーD.VIIと夜間爆撃機を優先する事。
その他多くのUボートや野戦砲、機関銃なども引渡しの対象となりましたが、兵器名を指定し全ての引渡しを求めてきたのはフォッカーD.VIIだけでした。それだけ高く評価されていたのです。登場が遅すぎたため、1700機が生産され、これからという時に戦争が終わってしまいました。
後にヒトラーが言うところの「背後の一撃」がもっと遅かったならば、フォッカーD7はどのような評価を受けていたでしょう。


・Phalz D.XII ファルツD12 1918

フォッカーD7と同世代のドイツ軍の戦闘機。
前面の特徴的な大型チューブラジエーターと、モノコック構造の滑らかな胴体をもつファルツD12は、スパッドS7を参考に設計されており、非常に頑丈で急降下速度に優れ、キャメルやスパッドS13とも対等に戦える非常に高い性能を持った戦闘機でした。しかし、登場した時期が遅すぎ、フォッカーD7が非常に優れていた事もあり、大した活躍もできずに終戦を迎えました。
ロールが非常に遅い上に、失速・スピンに陥りやすく、誰もがフォッカーD7を好みファルツD12に乗りたがるパイロットは居なかったといわれています。
しかし、スパッドS7でギンヌメールとの戦いについて触れたウーデットだけが、速度に優れるファルツD12を好みました。彼はドイツ軍のトップエースに成長していたため(レッドバロンは戦死しましたから)、その意見は重く受け止められ、800機あまりが生産されています。
エースパイロットだけが性能を発揮できる戦闘機(ファルツD12)が良いか、技量が低いその他大勢のパイロットでも最大限性能を発揮できる戦闘機(フォッカーD7)が良いか、この二つの機種には対照の妙が見て取れます。


・Junkers D.I ユンカースD1 (J9) 1918

いかにもユンカース的なジェラルミンの鋼管と波板外板の組み合わせをもった、就役した史上初の全金属製の単葉戦闘機です。
木製フレームに布張り複葉が主流であったこの時代に相応しくない(?)シルエットを持ちます。ル・ブルージェにあるユンカースD1は現存する唯一のオリジナル機です。
しかし速度は180km/h程度と、遅くは有りませんが、あまり速いとも言えません。機動性が戦闘機の資質に欠けていると判断されるほど悪く、僅か41機ばかりが生産され、実戦の使用は気球への攻撃程度で、重用される事無く終戦を迎えました。
全金属製の片持ち単葉翼の戦闘機が主流と成るのは30年代後半でしたから、言うなれば革新的すぎてあまりに早く登場しすぎてしまった。と言えるかもしれません。もっと強力な400〜500馬力級エンジンが有れば、評価は変わっていたことでしょう。


・Aces エースパイロット

戦闘機は以上で終了です。展示の写真はドイツ軍の第一次大戦のエースパイロットです。他にもフランスは勿論英国、アメリカなどのパイロット達の展示もありました。
このページを読んでる方で、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン知らないなんて人はまさか居ませんよね?
そのリヒトホーフェンよりなぜか大きい写真で紹介されているのは44機撃墜のルドルフ・ベルトールド。フランスでは人気が有るんでしょうか。
ベルトールドは被弾により頭蓋骨、鼻骨、骨盤、大腿骨を骨折しながらも戦い続け、さらには右腕に被弾し麻痺の障害を負ってもなお弾丸の摘出すらせず、慢性的にモルヒネを打ちつづけながらも第一次世界大戦を戦い抜きました。一旦現役を退いて療養したほうが良いと薦められると、
「オカマとして生きるくらいなら男として死んだほうがマシだ!」
と、叫んだといわれています。とんでもない自尊心と愛国心の持ち主だったようです。


・Flechettes フレシェット

大戦初期に使用された航空支援用の兵器。フレシェットとはダーツの矢の意で、その名の通り自由落下で加速し、人体を貫通するためのもので、頭に直撃すれば即死するだけの威力がありました。炸薬が装填されていたものも有ったようです。通称”BALLES BON”直訳すると「良い弾丸」ですが、どういう意味なんでしょう??
500本入りを1つのパッケージとして搭載し、偵察ついでに後部座席の偵察員が投下していたのが、そこそこ(嫌がらせに)効果をあげたのか、ドイツ軍によってすぐに模倣され、フランス軍の陣地にも投下されるようになります。
ああ、「空を飛ぶという」人類の夢が、ついにエアストライクへと変わってしまいました。果てしなき航空戦の始まりです。


・Bombe larguee manuellement. 手投げ爆弾

こちらも第一次世界大戦で使用された航空支援用兵器。その名も手投げ爆弾(そのままです)。偵察員により手動で投下しました。
当初はただの手榴弾でありましたが、投げる必要が無いため次第に重く、かつフィンが付けられるなどの工夫が施されるようになりました。
フレシェットより遥かに殺傷力・破壊力に優れ、1911年イタリア・トルコ戦争でブレリオやタウベから手榴弾が投下されて以来、50kg 100kg 200kgと、ついには手で投下することが不可能なまでに大型化した爆弾は、大戦中ついには1トン爆弾までもが登場し、航空攻撃の主力武器となりました。
一番左の武装はロケット弾のようです。

・Lweis ルイス機関銃

以降、当時の戦闘機に使用されていた機関銃の展示になります。
初期〜中期に多用されていたルイス機関銃。二連装になっています。恐らくブレゲー14の後部銃座のものです。

・ルイス?

座熊心眼これも多分ルイス機関銃。


・Hotchkiss オチキス機関銃

同じく初期〜中期に多用されていたオチキス機関銃。
マガジンの装弾数が少なかったため、頻繁に交換を迫られたようです。


・Vickers Machinegunビッカース機関銃

7.92mm 0.303in口径 600発/分 アメリカのマキシム機関銃を原型にビッカース社が改良したもの。
オチキスやルイスと違い、ベルト給弾式であったためマガジンの交換が必要無く、プロペラとの同調により中期以降英仏の戦闘機の標準装備となっています。しかし、ベルト給弾が詰りやすいこと、当時の非力なエンジンでは、オチキスやルイスに比べて重いため非常に負荷が掛かる事など、欠点もありました。
本銃は本来水冷式ですが、航空機搭載時は空冷で十分であったため、冷却水はありませんが、発射時の銃身の後退(バレルリコイル)を利用しているため、機構はそのまま残されています。上の方のビッカース機関銃は空気孔が空けられています。
下のものは同調装置付き。かなかな?


・Maschinengewehr 08 (MG08 シュパンダウ)

7.92mm 0.303in口径 400発/分
ドイツ製。ビッカースと同じくマキシム機関銃を原型にしているため、よく似ています。やはり水冷機構を排除したため、飾りだけの孔だらけになっています。初期から終戦までのドイツ戦闘機に広く使用されています。


・Parabellum Maschinengewehr 14 パラベラムMG14

こちらも同じくマキシム機関銃系の7.92mmで700発/分
ツェッペリンや偵察機の旋回機銃に装備されました。


・Colt-Browning M1895 コルト・ブローニングM1895機関銃

口径6mm 480発/分
旧型で、偵察機の旋回機銃として使われました。

・?????????

恐らく偵察員が射撃に使用したもの。


・CAUDRON G.3 コードロンG3 1913

ちょっと時代を遡ります。ここからは第一次世界大戦で活躍した戦闘機以外の飛行機です。
複座のキャビン部以外は剥き出し布張りなしの枠組み構造のみというシンプルなつくりで、第一次世界大戦中はパイロット育成のための練習機として2400機もが生産され、非常に大きな貢献を残しました。
戦後は日本をはじめ、多くの国で試験的爆撃飛行隊の結成や練習機として採用されています。。
大戦が終結した後の1921年4月1日。戦時量産した大量のコードロンG3の余剰機を販売するためのデモンストレーションとして、コードロンのテストパイロットでもあり、フランス人の女性航空冒険家のアドリーエン・ボランが、女性としての史上初のアンデス山脈越えに挑戦しました。
アルゼンチンのメンドーサから、チリの首都サンティアゴまで直線距離にすると200km足らず、コードロンG.3最高速度の最高速度は112km/hですから、単純計算すれば2時間もあれば十分に到達できますが、その間には6000m級の嶺々が連なっています。コードロンG.3にはそこまで上昇する性能はありません。
与圧も酸素ボンベも無く、勿論ヒーターも無ければ吹き曝しのコードロンG.3を、酸素欠乏症と強烈な寒さに襲われながらも彼女は4500mまで上昇させ、なんとか嶺を回り込んで越えようと周囲を探索を試みますが、ついには迷走状態になっていました。
もうだめかと諦め掛けたその時、彼女は牡蠣の形をした湖を発見しました。彼女は出発の前に受けたアドバイスを思い出します。
「牡蠣の形をした湖を通過すると、右に谷間が見えてきます。しかし、谷間に向ってはなりません。左に見える岩山へ向って旋回しなさい。」
彼女はアドバイスに従い、機を岩山に向けました。すると、これ以上上昇しないかに思えたコードロンG.3が見る見る高度を上げて行き、ついには岩山を越える事に成功しました。岩壁に沿って上昇気流が流れていたのです。
そして、アドリーエン・ボランはサンティアゴに無事着陸。実に10時間もの長時間にわたる大冒険飛行を成功させ、市民の熱烈な歓迎を受けました。
うおおおお、カッコよすぎる!我慢できない。ちょっとスカイオデッセイやってくる!

しかし、これにはオチが有り、フランス大使は「今日は4月1日だろ」と、偉業達成の歓迎イベントには参加しませんでした。エイプリルフールを疑い、歴史的なイベントに参加しないとか、本物の「4月バカ」ですね(^^;)


・Voisin L.A.S. ヴォアザンLAS 1914

フランスの爆撃機。大戦勃発前から就役していたヴォアザン3を改良したヴォアザンLAをまた改良した派生型です。
ヴォアザンLASは大戦初期には珍しく、最初から爆撃を主任務とした設計された飛行機で、金属製の枠組み構造を持ち、プッシャー式で前方に機銃が発射可能という、変わった特徴をもちます。
見てのとおり機銃掃射に大変適しており、最大50kgの爆弾を投下(手投げ弾5発程度)した後は機銃掃射機に変身しました。頭越しに射撃されるパイロットは、あまり気持ちの良いものでは無さそうです。
1914年10月5日、ヴォアザンに搭乗していたフランツ軍曹とクェノー伍長は、ホチキス機関銃を使用しアヴィアティックBのパイロットを狙撃、史上初の航空機による撃墜を記録しました。やはり、前方に発射可能という利点は大きかったようです。急速にエスカレートしてゆく空中戦の始まりとも言える出来事ですね。
しかし、15年夏頃からは逆に後方が射手の死角になった事が災いし、戦闘機たるフォッカーアインデッカーから自衛する事が不可能となり、夜間偵察・爆撃任務に従事しましたが、レーダーもろくな照準器も無い飛行機で、夜間の爆撃・偵察には難があり、西部戦線からはほどなくして姿を消しました。しかしロシアでは終戦まで運用していたようです。

発展型のVoisin 10 ヴォアザン10のゴンドラ部。強力な300馬力のエンジンに空対地用の37mm砲を搭載したガンシップです。
37mm砲は機関砲なのでしょうか?手動装填かもしれません。航空搭載用機関銃はせいぜい7.92mmだった時代に37mm砲を装備していたのですから驚きです。
真中には後ろ向きのオチキス機関銃を装備していますが、胴体が延長されているため、多少は射界が確保できますが、相変わらず胴体や主翼にさえぎられ、真後ろは死角のままのような。
そして一番後ろは操縦士席です。

・CAUDRON G.4 コードロンG4 1915

ようやく双発機の登場です。西武線において爆撃任務を目的として設計された最初の双発爆撃機で、358機が生産されました。
ペイロードはフレシェットや手投げ爆弾を100kg。
コードロンG3を原型に80馬力のル・ローン ロータリーエンジンを双発化、かつ主翼を延長し、垂直安定板を4枚に増やしています。
前部の銃座にはルイス(もしくはオチキス)が一挺取り付けられており、主翼中央部に大きな開閉式マンホールが空けられているのがとても特徴的です。
例によって「フォッカーのエサ」となってしまったため、以降は夜間での爆撃・偵察がメインとなりました。
戦後の1919年には、パリからイギリスの植民地であったビルマのラングーン、現ミャンマーのヤンゴンまでの10,000kmを24個所を経由し到達しています。
また、G.3同様、日本をはじめ、多くの国で試験的爆撃飛行隊の結成や練習機として採用されました。

・Sopwith 1A2 Strutter  ソッピース1A2ストラッター 1915

ソッピース ストラッターはイギリスで初めてプロペラ同調装置付きビッカース機関銃を搭載した戦闘機です。本機1A2は同軸機銃を搭載していないフランス仕様の複座偵察型。
クラシカルなファルマンMF7やHF20の後継として採用され、フランス陸軍航空隊の拡充にあわせ、戦闘機型、偵察機型、爆撃機型各機合計4500機がライセンス生産されました。イギリス本国での生産分1500機を大きく上回っています。平凡な設計ですが、マルチロールに活躍し、後述するブレゲー14へ代替されながらも終戦まで使用されつづけました。
ストラッターは日本にも輸出されています。


・Breguet 14A2 ブレゲー14A2 1917
 
大戦中期〜後期のフランス製偵察・爆撃機の最高傑作機
本機A2は偵察型です。一見戦闘機に似ていますがサイズは一回り違います。ジオラマは偵察任務の出撃準備を再現したものです。あの巨大な筒はカメラなのでしょうか?
この時代の機にしては珍しくジェラルミンの構造を持ちます。ジェラルミンは同じ重さの木材よりも強度を上げる事が出来、第一次大戦後は航空機の構造体の標準的な物質となりました。金属の使用により頑丈、かつ防弾に優れていた上、耐久性も高く、多少の被弾はものともしませんでした。
速度も184km/hと、重戦闘機並みに速く、ルイス機関銃2門という強力な自衛用武器を持つため生存性が非常に高かったようです。主翼にはゆるい後退角が付いていますが、ロール軸の安定効果を狙ったものなのでしょうか。

また、偵察機(爆撃機)のくせにプロペラ同調装置付きの機首同軸ビッカース機銃を一門備えており、地上への機銃掃射の他、高速性能を活かした空中戦も可能でした。積極的に空中戦を仕掛ける事は有りませんでしたが、戦闘機を返り討ちにした事も少なからずあったようです。

巨大な水冷V型12気筒のルノー12Feエンジンは、破格の300馬力を誇りました。1909年のブレリオXIは僅かに30馬力、15年のニューポール11でも80馬力から110馬力でした。それがロータリーではない水冷V型になっただけで一気に300馬力なのですから、いかにシリンダーをぶん回す空冷ロータリーが支障になっていたかが分かります。
日本ではあまり有名では有りませんが(というかWW1機自体がマイナー)、堅牢さを買われフランス軍による偵察・爆撃の主力として活躍しました。量産は1917年から始まり、戦後の26年(28年とも)まで生産され、なんと8000機が製造さる大ベストセラーとなり、爆撃機型のブレゲー14B2も含めて第一次世界大戦で最も成功した飛行機の一つとして数えられています。
戦後は軍用偵察機・爆撃機としてだけではなく、貨物・旅客輸送機としても民間でも広く用いられ、日本では中島飛行機が少数をライセンス生産しました。
サン・テグジュペリの『星の王子様』や、『南方郵便機』、『夜間飛行』等は、氏がブレゲー14を操縦していた頃の経験に基づき執筆されています。

フランスの旧通貨50フラン紙幣の裏面には星の王子様の「王子」と、作品を髣髴とさせる、砂漠を飛行するブレゲー14が描かれています。
表面には、サン・テグジュペリの肖像。なんとも、航空大国フランスらしいデザインではありませんか。


・Airco DH.9 エアコー DH9 1917

エアコーDH.4の発展型で、こちらもジェラルミンを多様した、半金属製の大戦中期〜後期のイギリス製偵察・爆撃機で、英国陸軍航空隊の拡充にあわせて4091機が生産されました。
カウリングから突き出た剥き出しのエンジンも酷いですが、それよりも下部にあるラジエーターがおかしい。これじゃあスポイラーではないですか。もうちょっと何とかならなかったのか…。
DH9は、この240馬力のシドレー ピューマエンジンの出力不足とトラブルに悩まされ続けました。エンジンの不調による損耗が戦闘による損耗を上回り、1918年5月から11時の間には54機が撃墜され、その約2倍の94機が事故により失われました。代替前のDH4の方が良かった。とさえ言われています。西武戦線では殆ど役に立たなかったため、主にUボート狩りに投入されました。
米パッカード社の400馬力リバティエンジンを搭載した後期のタイプではエンジンのトラブルも解消され、不恰好なラジエーターは機首先端に移りましたが、戦争は既に終わっていました。
多数の余剰機が各国や民間に払い下げさられ、英国では同国初の定期旅客機として活躍しました。

全然関係ないですが、原型機DH.4は私の愛読書ゴルゴ13において、F-16とドッグファイトを繰り広げます。
KGBの依頼によりエリア51でF-19ステルス機を爆破(笑)したゴルゴは、WW1のエースパイロットの爺さんが操縦するDH.4の後席に乗り、ネヴァダの砂漠を離脱します。この爺さんが好漢で「わははははバカめーー!速度は話にならんが運動性能なら負けやしない!」とか叫びつつ、バルカンの掃射は避けるわ、サイドワインダー(旧タイプのため恐らくロックしてない+なぜか近接信管故障)も避けるわ大活躍でした。
気になる方はゴルゴ13 74巻をチェック!

ZEPPELIN LZ113 ツェッペリンLZ113 1918

ツェッペリンLZ113硬式飛行船の最後尾のゴンドラに設けられた操縦室です。全長196.5m、容積55,206m2、重さ64.5t、航続距離7,400kmの化け物なので、全体からするとほんの一部にすぎません。輪切りにされた間に通路が通っており、中を見学する事が出来ます。
写真のLZ113は戦争には投入されず、1920年に戦後賠償としてイギリスに引き渡されましたが、格納庫が損傷を受けており、そのまま廃棄されてしまいました。

剥き出しのジェラルミン構造に、無骨でアナログチックな指示器、船のような操舵輪。日本人の多数が宮崎駿監督の作品をを思い浮かべそうなメカニズムですね。エンジンは水冷240馬力6気筒マイバッハが3基(背後にもう1基)搭載されており、飛行船全体では6基を備えています。

独和辞書を引いて、一部の意味を調べてみました。
Zruck:後進、Voraus:前進、Abstand:停止、Leer:空転、Halb:半速、Voll:全速 A.Kってなんじゃろ?
Steuerbord:右舷、Backbord:左舷…指示器の見方がよく分かりませんヽ(´ー`)ノ

ハニカム構造のラジエーターがそのまま機外に設置されています。防御用のシュパンダウ機関銃は穴があいてません。どうやら空冷の航空用のものでは無く水冷式の地上用を用いているようです(冷却液の管が見当たりませんが)。
最高上昇高度は約4100m。吹き曝しで寒さが堪えそうです。それともエンジンが剥き出しになっていますから暑かったのでしょうか?

航空宇宙博物館 パリ ル・ブルージェ 2008年夏 その1
Musee de l'air et de l'espace (ミューゼ ド レール エ ド レスパス) - Le Bourget Paris

■その1
ルブルージェへの行き方 ・黎明期(1783 - 1914)第一次世界大戦(1914 - 1918)
■その2
戦間期 ゴールデンエイジ(1919-1939)第二次世界大戦(1939 - 1945)
その3(1946〜現在)
冷戦期のジェット研究機 実用ジェット戦闘機 屋外展示 コンコルドホール その他

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主な参考資料
 ・Musee de l'air et de l'espace
 ・大空への挑戦 プロペラ機編・ジェット機編
 ・飛べヒコーキ
 ・偵察機入門
 ・航空機名鑑1903〜1939
 ・戦闘機年鑑2001〜2002
 ・旅客機年鑑2000〜2001
 ・航空機メカニカルガイド 1903‐1945
 ・世界の軍用機史1/2
 ・世界航空機文化図鑑
 ・飛行機メカニズム図鑑
 ・戦闘機メカニズム図鑑
 ・爆撃機メカニズム図鑑
 ・航空ギネスブック日本語版
 ・ソビエト航空戦
 ・現代の航空戦
 ・イスラエル空軍
 ・中東戦争全史
 ・戦闘機対戦闘機
 ・CONCEPT AIRCRAFT
 ・MILITARY AIRCRAFT OF THE COLD WAR
 ・THE JET FIGHTERS OF THE WORLD
 ・Air Warfare
 ・コンデジ雑記 - 博物館のページ (行き方のアドバイスをくださいました。感謝。)
 ・第二次世界大戦フランス空軍史
 ・Federation Aeronautique Internationale
 ・グーグル先生
 ・ウィキペたん英語版/仏語版/日本語版
その他いろいろ。


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