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F-15 EAGLE



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「地球上のあらゆる空で、どんな天候でも、どんな相手でも、どんな状況下でも、敵を空から追い落とすこと。」
F-15イーグルという戦闘機はこの一文で全てを表している。
1975年に実働態勢に入ったF-15イーグルはあらゆる点に於いて全ての戦闘機を遥かに凌駕していた。
従来、目視外射程空対空ミサイルを装備する戦闘機は大きく重いレーダーを搭載する必要から、機体は大きく鈍重になる傾向があった。逆に空中機動性を重視すると軽量化のため強力なレーダーを搭載することができず、目視外視程ミサイルの装備は難しかった。「ミサイル万能の時代」と呼ばれる世代の戦闘機は、機動性を犠牲にすることによって目視外交戦能力を達成していたのだ。
イーグルも巨大な戦闘機であり、同時に目視外交戦能力は大型機なら視程160nm(300km)で探知できるレーダーと、統合された戦術電子戦システムの機上搭載、F-15に搭載する事を目的として開発されたAIM-7Fを装備し、高い目視外交戦能力を持っている。
しかし、イーグルは大きな機体ながらテニスコートと揶揄される大きな主翼を持つことによって低い翼面過重を維持し、搭載された二発の強力なエンジンがそれを支える事で、高い旋回能力と速度が失われにくい強力な格闘戦闘能力を実現した。
強力なエンジンが実現する上昇力は凄まじく、1975年には3000mから30000mまでの7つの世界上昇速度記録の全てを塗り替え、現在でも20000mまでの上昇力記録を保持しつづけている。
イーグルは格闘戦闘から目視外視程戦闘まであらゆる状況で高い能力を発揮できる最初の戦闘機であった。
バブルキャノピーの広大な視野を持つこの戦闘機はパイロットからは「格闘戦闘機への回帰」と、大いに歓迎された。

離陸直後に急上昇するイーグル。広い主翼と大出力のエンジン、F-15の高機動性の象徴である。

だが、能力に比例しイーグルは高価だった。採用国はわずかにアメリカ空軍及び州兵、イスラエル、サウジアラビア、日本、韓国だけである。しかし21世紀に入ると既に1500機が生産されたイーグルの単価は下がったため、いくつかの国に売り込みが行われており、韓国はそうした国の一つだった。

イーグルの能力が実証されたのは1979年9月24日、この日の交戦でイスラエルのイーグルはMiG-21フィッシュベッドを5機血祭りに挙げた。以降1981年レバノン紛争では45機の航空機を撃墜、1991年湾岸戦争では39機を撃墜、その他平時の衝突も含め、イーグルに撃墜された航空機はMiG-21,MiG-23,MiG-25,MiG-29,Su-7,Su-17,Su-22,Su-25,F-4E,ミラージュF1,IL-76,PC-9,Mi-8,Mi-24,SA342等、現在に至るまで優に百を超える航空機がイーグルの前に敗北し、イーグル自身の空対空戦闘における損失は皆無であった。ライト兄弟が史上初の動力飛行を行ってから最初の100年の間にはついにイーグルを実戦で打ち負かす戦闘機は出現しなかったのだ。


また、強力なのは戦闘機としてだけではなかった。大幅な改装を受けイーグルとしての空対空戦闘能力を保持したままマルチロールファイター化したF-15Eストライクイーグルは世界初の全天候戦闘攻撃機となり、ペイロード、搭載可能兵装種、戦闘行動半径、強力な空対地レーダー等、他に比類なき世界で最も強力な戦闘攻撃機となった。1989年12月に実働体制に入り、ほぼ1年後の1991年1月には湾岸戦争において貴重な夜間攻撃機として高い戦果をあげた。

1976年にイーグルの配備が始まって以来30年が経過する。この30年間実戦で高い戦果をイーグルは文字通り無敵であったが、戦闘機の技術は進歩し、イーグルのアドバンテージは徐々に失われつつある。
特に最近、重要視されるステルス性などはイーグルにとって皆無に等しい概念である。航空機制御の技術も確実に発展し、格闘戦闘においてイーグルに幾つかの点で上回る戦闘機も多く就役している。
およそ200機が現役であるわが国の航空自衛隊を始め、500機以上が現役であるアメリカ空軍や、100機近いイーグルを調達したサウジアラビアやイスラエル、2005年から配備が始まったばかりの韓国空軍では、今後数十年間、イーグルは航空優勢確保の主役で有り続ける。
イーグル保有国にとって、イーグルの陳腐化を避ける搭載アビオニクスの向上などの近代化改修は必要不可欠である。幸い機体の大きなイーグルは改修の余地が残されており、こうした能力向上如何により最新鋭機と対等以上で有り続けることも可能だ。
しかしながら、先にも述べたとおり最早絶対的なアドバンテージは消え失せてしまっている。世界の憲兵を自認するアメリカ軍にとって「均衡」は許されない。こうした状況を打破すべく開発されたのがF/A-22ラプターである。

F/A-22ラプターの目的は1つ。「地球上のあらゆる空で、どんな天候でも、どんな相手でも、どんな状況下でも、敵を空から追い落とすこと。」つまりはF-15イーグルと同じである。
最大の欠点もF-15と同じく、あまりにも高価すぎであることだ。よって、全てのイーグルを代替する事はできなくなっている。
この事からもイーグルの重要性は今後もしばらく変わる事は無いであろう。

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F-15イーグル 大量報復戦略からの脱皮

大量報復戦略からの脱皮

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【空対空ミサイル現る。金門馬祖上空戦 】

1958年9月24日。金門馬祖周辺・台湾海峡において、共産党政府軍(中国)のMiG-15ファゴット及びMiG-17フレスコと、国民党政府軍(台湾)軍が保有するF-86Fセイバーによる大規模な空中戦が勃発した。
MiG-15/MiG-17は述べ100機あまりが投入され、F-86Fセイバーは32機が投入された(あくまで総数であり、当初は両軍合わせて20機程度で、入れ替わり交戦したため同時に100機対32が交戦した訳ではない)。
1958年当時、他国では既にマッハ2級戦闘機が就役しており、MiG-17もF-86Fも既に旧式化した機ではあったが、MiG-17は極めて優れた戦闘機であり、上昇力、加速力、最高速度、運動性能、他、航空機としての能力は殆ど全ての面でF-86Fに勝り、機体の性能差は歴然としていた。
しかしMiG-17がN-37 37mm機関砲1門、NR-23 23mm機関砲2門とマシンガンを主体とした武装が施されたのに対し、F-86Fは固定武装のブローニングM2 12.7mm機関銃6門と、一部の機にはAIM-9Bサイドワインダー(当時GAR-8)空対空ミサイルが搭載されていた。当時のAIM-9は後方のみからしか攻撃を行う事が出来なかったが、それでも機関銃に比べ圧倒的に射角が広く、重要な武装であった。
この日の空中戦に於いて、国民党軍のF-86Fは1機の被撃墜、1機の大破損傷の損害を受けたが、対してMiG-17を11機撃墜するという大戦果を挙げた。キルレシオは11:2、サイドワインダーの命中率は60%以上であった。

以上が史上初の空対空ミサイルを使用した空中戦の概要である。
現在では、やや過剰な数値ではないかとされている金門馬祖上空戦であるが、将来は空対空ミサイルの時代になるという事に異論を挟む余地は無かった。

【ミサイル戦闘機から戦闘爆撃機へ】

アメリカ空軍では将来、きたるべきミサイルの時代に対応すべく、多くの高速戦闘機が就役していた。世界初の超音速戦闘機ノースアメリカンF-100スーパーセイバー、超音速迎撃戦闘機コンベアF-102デルタダガー、世界初のマッハ2級戦闘機F-104スターファイター、核搭載高速爆撃機F-105サンダーチーフ、マッハ2級の迎撃機F-106デルタダート...等であり、大型化・重々量化し旋回性能等運動性能は旧来の戦闘機に比較し大きく劣るが、速度性能は一気に倍増した。また、運動性能などミサイル攻撃前提であらば必要ないように思われていた。
こうした戦闘機が就役する最中に勃発したのが金門馬祖上空戦である。最早ミサイル万能時代の到来は間近に思われた。


この趨勢はとどめることなく続いた。次の空軍の戦闘機はF-110スペクターであり、後にF-4CファントムIIと改称されたこの機はさらに大型化し、機関砲こそ装備していないが射程が長い目視外空対空ミサイルAIM-7スパローを装備し、爆撃コンピューターを搭載し、最大でMk82 500ポンド爆弾を18発も搭載できるという高い爆撃機としての能力をも持つまさに万能の最強戦闘機であった。上の写真のF-4CはMk82を4発搭載しつつAIM-7を2基装備している。
最新の可変後退翼を持つF-111アードバーク(アードバークが正式名称となったのは90年代である)は、空軍・海軍・海兵隊共通の次期戦術戦闘機(TFX)として開発された機で、巨大であったファントムIIよりもさらに3m近く全長が長く、運用重量は30t以上、最大離陸重量は40tを遥かに超える最大の戦闘爆撃機である。
アメリカ空軍の配備する戦闘機は核爆弾を搭載し飛来するソビエトの爆撃機に超音速でミサイルを発射し帰還する迎撃戦闘機と、超音速で爆弾(核)を搭載し地上攻撃を行い、場合によっては迎撃戦闘機と同等の任務を負う戦闘爆撃機に二分化され、大量報復を機軸とした戦略の中において戦闘機対戦闘機の格闘戦闘という概念は次第に忘れられつつあった。

【FXは可変翼27トン戦闘爆撃機】

1964年。未だ新型のF-111の生産すら始まっていなかったが、F-111は空軍・海軍・海兵隊三軍共通戦闘機であったが、三軍の互いの主張が交錯し機体はどんどん肥大化・高コストと化し、いくら戦闘爆撃機全盛の時代とはいえ、F-111は戦闘機と呼ぶにはあまりにも加速力、上昇力などの飛行特性が悪すぎ、許容できるものではなく、高い代償を払った失敗作に終わる事は誰でも予見できていた。
F-111に代わる戦闘機の開発の必要性が叫ばれ、1965年末次期戦闘機FX計画が始まった。F-15イーグルの誕生のきっかけである。
翌66年初頭にはFX研究による基本設計の概要が纏められた。
研究が進み、FXの具体的なイメージが確立するとF-111と全く変わらなかった。F-111の失敗を見越し開発研究が始まったにも関わらず、その研究結果はまさに「シェイプアップされたF-111」そのものであった。ミサイル万能思想の全盛期で、可変後退翼が過大評価されていた当時としては無難な設計であったがF-111の轍を再び繰り返す事は明らかであった。
FXの素案は白紙に戻され、再び一からFXの研究が進められた。

【ミサイル万能思想の終焉】

当時(現在でもだが)インド及びパキスタン間の国境付近は未確定領域であり、小競り合い規模の戦闘は日常的に起きていた。1965年に両国で大規模な紛争が勃発した。第二次インドパキスタン戦争(カシミール紛争)である。
インド空軍はイギリス製のフォーランドナット、ホーカーハンター、デハビラントバンパイア、フランス製のダッソーウーラガン、ダッソーミステール、そして最新鋭のミコヤンMiG-21を装備し、パキスタン空軍はF-86Fを主力とし最新機F-104を装備していた。
この航空戦における空対空ミサイル搭載機はF-86Fのみであった(サイドワインダー)。
結果は両国の損害発表比ベースで8:15と、空対空ミサイルを装備するパキスタンが優勢であったものの、サイドワインダーの命中率はおよそ30%(パキスタン側発表数)と、金門馬祖上空戦に比較し圧倒的に低い。しかもそのうちいくつかは機動の鈍い攻撃機に対してであり、戦闘機に対しては殆ど命中していなかった。

ほぼ同時期、1964年頃からはアメリカのベトナムへの介入が始まり、66年頃には一気にエスカレートしていった。
65年7月10日には空軍のファントムとしてはF-4Cが初めて戦闘機の撃墜(MiG-17)を記録したが、ベトナム戦争初期には目標を目視で確認する以前での発射を“政治的諸事情”で禁じられていた。主力のF-4は本来目視外射程での戦闘を前提とした戦闘機であり、搭載するミサイルも長い射程を持つのに、なんとも馬鹿げた話である(敵味方を正確に識別する等理由もあったのだが)。
よって1960年代のベトナムの空では中射程のAIM-7スパローを非理想的な環境下で発射するしかなかった。当然命中は殆ど期待できず、多くのAIM-7が命中する事無くタイムアウトで自爆していった。頼みの綱はAIM-9サイドワインダーであったが、そのサイドワインダーも標準で僅かに2発、最大で4発しか搭載できず、撃ち尽くしてしまえば丸腰になってしまった。F-4Cには機関砲を搭載していなかったのだ。
ミサイル万能時代の超音速戦闘機であるはずが、ミサイルの運用を制限され、ミサイルの理想的発射条件を満たす事が困難であったことから、真のミサイル万能の時代には程遠い幻想的な状況であることが認識された。ましてや想定されていた超音速以上での交戦など殆ど無いに等しかった。
現代では常識レベルのお話であり、一線級のパイロットの間では実はとっくの昔から認識されていたが、超音速戦闘機とミサイル万能思想は当時の常識であり「時代の流れ」が悪かった。

1960年代中ごろのカシミールやベトナムでの航空戦を総括するならば、大量報復戦略で通常戦は戦えない、そしてミサイルの性能は期待以下。である。この航空戦で明らかになったミサイル万能思想と大量報復戦略の結末はFX計画にも大きな影響を与える事となる。

※以下余談
後にF-4ファントムもガンポッドの搭載、最新型のF-4Eからは20mmバルカン砲を標準搭載、操縦士への格闘戦闘の再教育を施すなど目視内戦闘能力の向上が行われている。F-4ファントムは近年の戦闘機に比べれば確かに鈍重であったが、強力な双発エンジンを最大限に利用したエネルギー戦闘に持ち込むことにより、接近戦で軽快なミグを相手にしても優位に戦闘を進める事が出来た。そもそもソビエト流の訓練を受けた北ベトナムのミグのパイロットにもまともな格闘戦訓練が施されていなかったのだ。
1970年代、ラインバッカーI/II作戦などベトナム戦も後期に入ると、目視外射程での戦闘禁止が解除され、より強力なAIM-7Eの登場により、スパローによる撃墜数は桁違いに増えている。
アメリカ軍撤退まで空軍のファントムが発射したサイドワインダーによる撃墜は37機にも達するが、スパローでは、それを上回る44機のミグを撃墜している(米軍発表戦果)。
初期には軽快なミグにいくらか苦戦したむきもあり、スパローも信頼のおけるものではなかったが、ファントムは目視外戦闘においては完全に圧倒し(ミグはまともなレーダーを搭載していない)、目視内戦闘においても多くの戦闘で勝利を得た。F-4ファントムは文句なしにベトナム戦を通じて最高のミグキラーであった。

【FXは格闘戦戦闘機】

余談や背景説明が長くなったが、要約すれば「大量報復戦略に基づくミサイル万能」は幻想でしかなかったと言う事である。
ベトナムに介入する以前の1960年頃の比較的早い段階からミサイル万能論は誤りである。戦闘機は格闘戦闘を行う能力が必須であると説いたグループがペンタゴン内にあった。
目視外におけるミサイル戦闘こそが戦闘機の最もたるところであるという考え方が主流であった時代からしてみれば、最悪鉄屑のような戦闘機(つまり中射程ミサイルが発射できない)に成りかねないようなことを主張しているものだから、異端児扱いである。表立っての活動は殆ど行われなかった。
その様相から、裏で活動するマフィア― すなわち戦闘機マフィアと呼ばれるようになった。
1968年10月。ベトナムの戦訓でミサイル万能論が揺らぐ中、戦闘機マフィアの中心人物の一人Jon Boid少佐(ジョン・ボイド。後に大佐)にFX研究の監査を行うよう命令が下った。ボイド少佐は自身数千時間の飛行経験を持ち、かつ戦闘機操縦の教官であり、航空力学の学者でもあった。

ボイド少佐は27トン可変翼万能戦闘機を捨て、新たに18トン級の格闘戦闘の出来る空対空専用戦闘機の方針を新たに打ち出し、FXの贅肉の殺ぎ落としにかかった。
対戦闘機戦における格闘戦闘で勝利するには、当たり前であるが急激な旋回を行わなければならない。しかし急旋回を行うとGの抗力により戦闘機が持つ速度は失われ、舵の効きは鈍り、旋回率は徐々に緩慢になってしまう。その速度を回復するためには降下して高度を速度に変換する必要がある。
速度と高度の総和を空戦のエネルギーと呼び、格闘戦闘中は相手機の後方に遷移するべく常に空戦エネルギーを減少させながら機動を行わなければならず、急旋回と空戦エネルギーの維持は両立不可能である。空戦エネルギーを消耗しきった側は急旋回を行う事が出来なくなってしまうため、原則的に敗北を喫してしまう。ならば、格闘戦闘における最強機の定義は「急旋回が可能」かつ「エネルギーの消耗が小さい」という二つの要素を高めた戦闘機である事になる。
当時、ベトナムで予想外のキルレシオ低下を目の当たりにしていたペンタゴン内部において、通常戦における空中戦で敗北しない戦闘機の理論と必要性は、次第に戦闘爆撃機という当時の常識を覆す方向に向かいつつあった。しかし「急旋回」と「空戦エネルギーの維持」は互いに相反する。 それを実現するには如何するべきか? FX研究は、ようやく1つ方向性が定められた。

「格闘戦闘機」構想のもと、最初に切り捨てられた「贅肉」が可変後退翼である。
1960年代は可変後退翼が世界の常識であり、アメリカならば前述のF-111アードバーク、空軍FXにやや先行して計画が進んでいたF-14トムキャット、ソビエトのSu-17フィッター、MiG-23フロッガー、計画中であった欧州のパナビアトーネード等、今後の戦闘機は全て可変後退翼になるかのごとく世界中で大流行していた。しかし、ボイド少佐は可変後退翼に懐疑的であり、比較検討の結果、通常格闘戦闘が行われる亜音速域では固定後退翼に比べ重量など機構上のデメリットが大きすぎ、エネルギーの損失が極めて大であると結論付けられた。また、急旋回を行うには低い翼面過重を必要とする。主翼を大きく出来ない可変後退翼ではその点においても不利であり、FXの主翼は広い面積をもつ固定翼である事が決まった。そして急旋回でもエネルギーの損失を防ぐ強力なエンジンが必要となった。
また、機体性能などに比べると一見地味であるがF-86以来のバブルキャノピーの復活も重要な要素の一つとされた。空中戦においてエネルギーの管理以上に重要なことは相手を先に発見する事である。先手を取れば相手が先に攻撃してくる可能性はなくなるし、仮にこちらが攻撃を仕掛ける以前に発見されても相手には防御を強いる事が出来る。当初は丁度このころSR-71と熾烈な速度記録樹立競争を争っていたソビエトのマッハ3級最新鋭機Ye-266、後にMiG-25と判明する謎の戦闘機に対抗する必要からFXにはマッハ2.7の速度が求められており、空力的に抵抗の大きいバブルキャノピーの採用には消極的であったが、ベトナムでの戦訓から相手が高速のMiG-25であろうと、マッハ2超の音速での交戦が可能性は少ないと判断され最終的には2.5に下げられている。

勿論、今更完全なドッグファイト専用機など作るつもりは無く、目視外戦闘を行うための長視程のレーダーに、AIM-7の運用能力が求められた。

FXの概要は決定した。以上のような概要を元に要求提案書が作成され、航空機製造各社にはFXへの仕様書の提出が求められ最終的に現在のF-15の原型となったマクダネルダグラス案が採用され開発契約が結ばれた。


上図はほぼ同時期にペンタゴンの要請によりNASAラングレーフライトリサーチセンターによって作られた素案である。
F-14に似たLFAX-4は27トン級可変後退翼機の条件から発したと思われる。LFAX-4を固定翼化したようなLFAX-8は現在のイーグルとよく似ており、マクダネルダグラスもLFAX-8を大きく参考にしている。
LFAX-9はF-4ファントムとB-58を掛け合わせたような形をしているが、黎明期のジェット戦闘機のようにエンジンポッドを搭載しているのがユニークだ。LFAX-10はMiG-25の影響を大きく受けているような形状をしている。

FXの方向性決定に多大な貢献を残したボイド少佐と戦闘機マフィアであるが、彼らの格闘戦闘機思想はF-15ですらまだまだ大きく、高価になりすぎるとしていた。彼らの思想は1971年以降、LWF(Low Weight Fighter:軽量戦闘機)計画へとつながった。
戦闘機マフィアはF-16ファイティングファルコン、F/A-18ホーネットの開発にも大きく携わった。

この項からするとまるでF-14が全く駄目な戦闘機のように聞こえかねないが、F-14は従来の戦闘機に比較し格闘戦闘能力も格段に高い。しかしF-14は基本的に艦隊防空を担う迎撃戦闘機であり、ましてや困難な離着艦を行わなければならない艦載機である。
よってF-15とは根本的に違うため、一概に否定出来る物ではない。迎撃を行うための高速域での飛行特性、着艦を行うための低速での飛行特性を両立させるためには可変後退翼は極めて有利である。


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F-15イーグル プロトタイプYF-15

プロトタイプ YF-15

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【YF-15初飛行】

“F-15”の契約においてフェアチャイルド、ロックウェルとの競合に勝利したマクダネルダグラスエアクラフトに単座型10機と複座型2機の試作機カテゴリー1の契約が与えられ、空軍評価用に8機のカテゴリー2の契約がさらに結ばれた。
1971年に試作1号機F-15A-1 71-0280は完成し、同年中に単座型10機と2機の複座機を完納し、単座機はYF-15A、複座機はTF-15Aと命名された。Fの前につけられたYはプロトタイプ(試作機)を意味し、Tはトレーナー(練習機)を意味する。

試作1号機YF-15A-1 71-0280は1972年6月26日にマクダネルダグラスのセントルイス工場においてロールアウトした。7月には主翼を分解されたF-15はC-5によってエドワーズ空軍基地へと空輸され、マクダネルダグラスのテストパイロットIrving Burrows (アービング・バローズ)氏の操縦により1972年7月27日に初飛行を行った。複座のTF-15A 71-0290は翌年73年7月7日同エドワーズ空軍基地で初飛行が行われ、73年10月29日迄にカテゴリー1の12機全てが初飛行をおこない、この時点で高度60,000ft速度マッハ2.3までの飛行試験が行われた。

上の写真はYF-15A 71-0280 試作1号機であるが、現在のF-15と幾つかの点で異なるのが見受けられる。試験飛行において発生したいくつかの問題を解決するため若干の設計変更が行われたためだ。
試作1号機が試験飛行開始からすぐに高速飛行時にスタビレーターがフラッターを起こす事が判明した。この対処のためドッグツースをスタビレーターに設けることとなったが、水平尾翼にドッグツースを設ける例はあまり無く珍しい。試作4号機以降ドッグツースを標準で備え、1〜3号機にも同等の改造を受けている。
さらに、高度30000ft以上、速度マッハ0.85〜0.95において6G以上の旋回を行うと激しいバフェットが発生することが判明した。バフェット自体は通常飛行機が失速する寸前に当たり前のように発生する無害な振動であるが、YF-15の場合それはあまりにも激しく機体が分解しかねない程であった。この問題はクリップトデルタの主翼両端を斜めに切り落とす事によって解決した。設計変更により主翼面積が片翼4ft2(0.37m2)合計で8ft2(0.74m2)減少した。最終的なF-15の主翼の翼型はNACA64Aで前縁にコニカルキャンバーを有す。厚弦比は主翼の付け根で6.6%で翼端部では3%。後退角は38度42分(1/4弦長)。それに下反角は1度と入射角は0度、主翼面積は56.4m2である。リブはチタンを多用した合金でフラップ・エルロンや翼端はアルミニウムハニカム構造である。外皮はトーションボックスは金属、その他の部分にはグラファイト・エポキシ系複合材を用いている。
チタンで構成されるエアブレーキも当初予測されていた以上のフラッターが発生する事が分かり、大幅にエアブレーキの面積が20ft2(1.86m2)から32ft2(2.93m2)と倍近く拡大された。小さい開度でも十分な減速が行えるようにし、フラッターを抑えるためであるが、現在のF-15の着陸時などはエアブレーキを100%開いている。推定であるがフラッターが問題であったのは高速時だけなのであろう。
 
上の写真はTF-15の1号機71-0290を改造した後のF-15 ACTIVEであるが、右写真の量産機と比べるとこの当時の名残でエアブレーキの面積が小さい事が分かる。
なお、エアブレーキに関連し発生する乱流が垂直安定版を直撃しフラッターを引き起こす。これを抑制するため両方の垂直尾翼上端に突起状のマスバランスを持っている。

米国以外のF-15はどちらの垂直尾翼も細い同じ形のマスバランスであるが、米国のF-15に限り左端のみジャミングポットが格納されたフェアリングを持ち、やや太くなっている。

YF-15から現行のF-15への大きな設計変更点をまとめると―
以上3点である。


写真はやや時間を遡り1969年の時点での風洞実験モデルと現在の形状のモデルを比べた物である。水平尾翼、主翼の相違点だけではなく、初期には垂直尾翼がやや低い代わりに尾部の下にベントラルフィンを持ち、マスバランスも両端にECMポッドを装備しているかのように太い事がわかり興味深い。
また、写真では分からないが1969年のモデルからYF-15への変更点で最大に重要な事は機首部の直径が太くなった事である。空力的には悪影響を及ぼすが、より大直径のレーダーアンテナを装備する事ができるようになった。アンテナの直径はレーダーの絶対的性能を左右し、目視外戦闘能力に大きな影響を及ぼす。

以上の3つの大きな設計変更を含め36の改善案があったが、YF-15の試験は大きな問題にはぶつからずに順調に進んだ。ただし、搭載しているF100ターボファンエンジンは極めて不安定であり度々問題を起こした。これについてはF100ターボファンエンジン項で取り上げる。
その他スピン時など予期せぬ高迎え角における研究究明のため3/8スケールの無人滑空機、F-15RPRV/SRVが製造され並行して試験が行われた。実験機のイーグル F-15RPRV/SRVを参照してほしい。
また、卓越した上昇力を「東側に見せつける」為、カテゴリー2として生産された試作19号機を大幅に改造し上昇力世界記録に挑戦し、殆ど全ての記録を更新した。詳細は世界最高の上昇力「ストリークイーグル」に載せている。

最終的にカテゴリーテストの終了したYF-15AはF-15Aとして、TF-15AはF-15Bと改名され、1976年1月9日に後の湾岸戦争で多大な戦果をあげることとなるラングレー基地第1戦術戦闘航空団に最初のF-15が配備され、イーグルは実働体制についた。

なお、F-15の火器管制装置には地上攻撃用のモードも予め組み込まれており、HUDに爆弾着弾予想地点を表示する命中点継続計算(CCIP)を標準で備え、運用試験においてF-4ファントムを凌ぐ半数必中界(CEP)を得られる事が分かった。

500ポンド爆弾であらばMER爆弾架を用い左右主翼下に6発ずつ、胴体側面にそれぞれ6発ずつの合計24発を搭載する事ができ、当初の設計では必ずしも空対空専用機として造られた訳ではなかった。しかしイーグルの究極の目的は万能戦闘機ではない。あくまで航空優勢を確保するための純たる戦闘機である。実際に運用が始まった後は限られたリソースを空対空に傾注する事が求められ、米空軍での攻撃機としての道を閉ざした。しかし、万能戦闘機としての潜在能力はF-15EストライクイーグルやイスラエルによるF-15の攻撃機化で発揮される事となる。
上写真はわが国のF-15JにMk82爆弾の装備が施された珍しい写真であるが、対地攻撃任務を負う状況はまず無い。


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F-15イーグル F100ターボファンエンジン

F100ターボファンエンジン

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【F100-PW-100】

次期戦闘機FX(F-15)は広大な主翼で高い旋回性能を実現するが、旋回時の大きなGの抗力に打ち勝つ強力なエンジンが必要不可欠であり、F100エンジンはF-15に搭載する事を目的とし、並行して開発が行われた。

F100は従来のスチールを多用した設計から、チタンや高ニッケル合金を多用した構成で3段のファン、10段のコンプレッサー、アニュラー型燃焼室、タービン入り口温度1400度に耐えうる一方向性凝固を用いたブレードを持つ2段の高圧タービンと、同じく2段の低圧タービンで構成されており、圧力比は24.8:1、バイパス比は0.72:1、空気流量は103kg/sで、肝心の静止推力はドライ65.2kN、アフターバーナー使用時105.9kN、重量は1370kg、推力エンジン重量比は7.8:1になる。機体重量との比であらば(燃料約7割+サイドワインダー4発装備でおよそ18トン)1.2:1に達し、これによりF-15は理論上垂直上昇中に加速する事が実用戦闘機としては初めて可能となった。
F100の優れた所は推力だけではない。戦闘機用エンジンとしてはオン・コンディションの先駆けであり基本的な整備は定期的な点検を行うだけ済み、常にエンジン運転状況を監視しBITに異常が発生した場合にのみ部品の換装等が行われ設計上定期的なオーバーホールを必要としない。不具合発生間隔は平均で1800フライトサイクルにも達しており維持に必用なコストの低減を実現している。


上のようにF100のエンジン排気口は推力(正確にはタービン回転数)によって断面積を無限段階的に変化させるバランスビームノズルを持つ。左写真は着陸滑走中で回転数はアイドルである。右写真は離陸上昇中のドライ推力での最大回転時である。

但し、さらに推力を上げるためアフターバーナー使用時する場合にはノズルは大きく開く。


装備する2基のエンジンはチタン製のキールで覆われている。どちらかが被弾して破損しても外部や片方のエンジンに二次的被害を及ぼさないための配慮である。
事実、1982年には空対空ミサイルにより被弾し片方のエンジンを破壊されたにも関わらず無事に帰還している。イスラエル国防軍空軍 - イーグル無敵神話は嘘か?を参照。
高熱になるエンジン周りの金属部は外気に剥き出しになっているが、さすがのチタンも嘉手納のような常に潮風に晒されるような場所では塩害も馬鹿にならず、小まめな洗浄が必要不可欠なようだ。

両エンジンの間にはアレスティングフックを持つ。緊急着陸時に滑走路に張られたいくつかのワイヤーに引っ掛ける事により確実に停止させる。無論空母への着艦を行う事はできない。

1972年にYF-15に搭載され初飛行が行われてから実用開始数年後にいたるまで、飛行中のあらゆるプロセスにおいてF100-PW-100は突然のストール・スタグネーションに悩まされ続けた。問題は急なスロットルの操作、アフターバーナー点火時、高迎角時に特に集中して発生した。ストール・スタグネーション時にはタービン温度が上昇し寿命の低下、最悪には火災にまで発展するなどきわめて深刻な問題で、ストール・スタグネーションを解消するには一度エンジンをカットし空中再始動を行わなければならなかった。
特に格闘戦闘中や高度が取れない離着陸において推力の急激な低下は文字通り命取りである。

F-15の設計は亜音速以下でのドッグファイトが重要視されていた、しかし本機の開発当初の主要目標の一つはマッハ3という超高速飛行が可能なMiG-25である。F-15にはマッハ2.5の速度が要求されており、これに答える為に胴体側面にユニークな長方形の可変エアインテークを持つ形状を採用している。エンジンの回転数や飛行速度に応じコンプレッサーに対し最適な空気流量を流入させるためのものである。
大まかにアイドルやタキシングのような空気流量を必要としない場合は左写真のようにインテークは下がり、離陸上昇中など高回転時には大量の空気流量を必要とするため右写真のようにインテークが上がり開放される。さらに低速時には相対的に空気流量が少ないためやや大きく開き、高速時には大量の空気が流入するためインテークは下がり減速圧縮を行う。高AOA飛行時にはインテークは下がりダクトに誘導するような形になる。
無論こうした調整はパイロットが行うものではなく、ハミルトンスタンダード社製コントローラーとナショナルウォーターリフト社製アクチュエーターにより完全自動的に稼働する。

機体に沿って流れてきた速度の遅い境界層の空気はラム圧低下の原因となるため、エアインテークの入り口付近の内壁にあけられた無数の小さな穴からこの空気を吸い出している。吸い出された空気は可変エアインテーク上部、側部、そしてダクト上部の穴から排出されることになる。
なお、コックピット後方はアビオニクスの放熱口で、左翼付け根にあるシルバーの蓋は空中給油口である。

どうやらストール・スタグネーションは可変インテークが原因の一つだったようである。改良されたものではあるがF100エンジンを搭載したF-16ではストール・スタグネーションは殆ど起きていなかった。
ただ、今日ではこうした問題は解決されており、プラットアンドホイットニー社は「F100系列のエンジンは6,900基以上が生産され、総計1600万飛行時間もの実績がある世界で最も安全で最も信頼できるエンジンである。」と宣伝している。
F-15の生産数がおよそ1500であるから、予備も含めおよそF100系の生産数の半数がF-15用であり、ほぼ同数が単発のF-16向けとなる。


【PW-220/220E PW-229 PW-232 F110】

F100系は幾つかの改良型が生産・装備されている。
F100-PW-220は現在最も広くF-15に用いられているエンジンで、推力は殆ど変わらないがF100の問題はほぼ解決し信頼性は桁違いに上昇した。

写真はF-15J/DJ向けのF100-IHI-220E(F100-PW-220E)で、DEECが採用された。スロットル操作をセントラルコンピューターを介しデジタル制御する、エンジンのフライバイワイヤとも言うべきDEECの採用により、F100-PW-220とF100-PW-220Eはカタログスペック上のエンジンの推力は殆ど変わらないが(むしろやや低下している)、自動的に最適な燃料供給・エンジン運転が可能になったため、事実上の推力は向上している。燃費も大幅に改善されている。無論信頼性・耐久性は更に向上した。

F100-PW-229は主にF-15Eストライクイーグルに装備される、F-15用エンジンとしては抜群に強力なエンジンである。ドライ推力は79.2kN、アフターバーナー推力は129.5kNと、F100-PW-100のドライ時65.2kN、アフターバーナー時105.9kNと比較しおよそ30%の性能向上を達成している。また、実用機ではないがF-15ACTIVE/IFCSにはF100-PW-229を原型としバランスビームノズルを可変型にした推力変更エンジンが搭載されている。

F100-PW-232は現在搭載している実用機は無いが、最高のF100系エンジンでF/A-22が装備するF119-PW-100エンジンで培われた技術をフィードバックしている。
静止推力はドライ時96kN、アフターバーナー時144.5kNと、F100-PW-100から40%もの性能向上を実現する。
F-15C/Dが同エンジンを搭載した場合はアフターバーナーを使用しないで超音速飛行が可能となり、いわゆるスーパークルーズ能力を得る。但し、F-15はF/A-22のように兵装を完全に内部に収容するわけではないため、恐らく兵装は制限されるであろう。なお、クリーン状態に限りF100-PW-100搭載機でもアフターバーナーを使用せず超音速飛行が可能であった。
F100-PW-232は現在シンガポールに売込み中のF-15Tに最初に搭載する事が見込まれている。

F-15にはF100系列ではない、コンパッチブルなF110系列エンジンを搭載することも可能である。
但し、F110系を搭載したF-15は僅かにF110-GE-129をサムスンテックウィンがライセンス生産したF110-STW-129だけであり、韓国向けF-15Kの40機(予定)に過ぎない。わが国のF-2が搭載するF110-IHI-129と全く同じエンジンである。


【各エンジンスペック一覧】

名称 PW-100 PW-220/E PW-229 PW-232
製造 プラットアンドホイットニー
石川島播磨重工(ライセンス)
プラットアンドホイットニー
静止推力 ドライ時 65.2kN 64.9kN 79.2kN 96kN
静止推力 A/B時 105.9kN 105.7kN 129.5kN 144.5kN
バイパス比 0.72 0.6 0.36 0.34
圧縮比 24.8 24.8 32 35
重量 1370kg 1467kg 1621kg 1860kg
主な装備機 A/B/C/D A/B/C/D/E C/D/E 搭載機無し

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f100pw2291.jpg - USAF
F-15イーグル 世界最高の上昇力 ストリークイーグル

世界最高の上昇力 ストリークイーグル


1975年。Cクラス(陸上機)の上昇力絶対世界記録はF-4ファントム及びMiG-25(Ye-266)フォックスバットが席巻していたが、イーグルはその記録を全て塗り替えた。

記録挑戦に用いられたF-15A(72-0119)は飛行に悪影響を及ぼす機器類を徹底的に排除された。塗装からレーダーやFCS類、アレスティングフック、M61A1バルカン砲、一部の汎用油圧システム、ジェネレーター1基、必用限度以外のアクチュエーター、等である。これらを撤去した記録挑戦機は実に1,270kgもの軽減化を達成した。
素地が露出したこのF-15は全裸で街や店内など衆人監視の中を走り回るストリーキングにちなみ STREAK EAGLE (ストリークイーグル)と呼ばれた。すなわち「全裸のイーグル」である。

ストリークイーグル最初の記録挑戦飛行は1975年1月16日に行われた。パイロットRoger J. SMITH少佐の操縦により3000mの27.571秒の上昇記録を立て、世界記録を更新した。続いて同日2回目のフライトでWilliam R. MacFARLANE少佐の操縦により6000mまで39.335秒 , 9000mまで48.663秒 , 12000mまで59.683秒と、一度のフライトで全てを更新した。
ストリークイーグルはブレーキと制動ワイヤーにより拘束された状態で推力をアフターバーナー位置にまで上げてから制動ワイヤーを爆破してリリースし離陸滑走を開始する。(この時点でタイムカウントを開始)ストリークイーグルは僅か120mの滑走で離陸速度に達する。エアボーン後は即座にギアアップしなければならず、一瞬でも遅れれば格納が完了する合間にギア展開時の制限速度をオーバーしてしまう程であり、実際に何度もそういう事態になった。ストリークイーグルは極めて低高度のままおよそマッハ0.6-0.7まで加速し、5Gで機首上げに入りピッチ角およそおよそ80度ハイレートクライムに入る。ストリークイーグルはブレーキリリースから僅か23秒で超音速を突破する。
そして15000mの記録に挑戦した3回目の飛行では高高度与圧服を装備(以降全て着用)したDavid W. PETERSON少佐によって行われ、4Gで機首上げし55度のハイレートクライムを維持する飛行プロセスにより77.042秒で達した。
続き1月19日にはRoger J. SMITH少佐の操縦による20000mへの挑戦が行われた。
20000mへの飛行プロセスは15000mやや異なり、離陸しマッハ0.65まで加速後は2.5Gの緩やかで極めて大きな超音速インメルマンターンに入り、9750mまで上昇する。背面状態から水平状態にリカバリーし、この時点で加速開始から56秒。速度はマッハ1.1である。ここからマッハ1.55まで緩やかに上昇しつつ加速、4Gでピッチ角55度までピッチアップ、2度目の上昇に入りそのまま20000mまで上昇する。122.94秒で到達。当然世界記録更新である。
続き1月26日、David W. PETERSON少佐により25000mへの挑戦が行われた。殆ど20000mの飛行プロセスと同じであるが、2度目の上昇の前にマッハ1.8まで加速し、同じく4Gでピッチ角55度までピッチアップし上昇する。記録は161.025秒。
2月1日にはRoger J. SMITH少佐により30000m挑戦が行われ、再び殆ど同じプロセスで飛行、2度目の上昇の前にマッハ2.2まで加速し、4Gの引き起こしで55度のピッチ角で上昇した。207.799秒で到達し最後の上昇記録を更新した。またこの飛行で31200mまで上昇しF-15の上昇限度記録となっている。

以下の表にF-15Aストリークイーグルが達成した記録と、その前の記録、そして現在のレコードホルダーを記載する。
20000m以上の記録で急にペースが落ちているのは2回の上昇と加速を必用としたためである。
高度 前記録 F-15Aの記録 日付/パイロット 現在の世界記録
3000m 34.52s (F4H-1 PhantomII) 27.571s 1975/01/16 Roger J. SMITH 25.37s (Su-27/P-42)
6000m 48.79s (F4H-1 PhantomII) 39.335s 1975/01/16 William R. MacFARLANE 37.05s (Su-27/P-42)
9000m 61.68s (F4H-1 PhantomII) 48.863s 1975/01/16 William R. MacFARLANE 44.18s (Su-27/P-42)
12000m 77.14s (F4H-1 PhantomII) 59.383s 1975/01/16 William R. MacFARLANE 55.54s (Su-27/P-42)
15000m 114.50s (F4H-1 PhantomII) 77.042s 1975/01/16 David W. PETERSON 70.00s (Su-27/P-42)
20000m 169.80s (MiG-25/Ye-266) 122.94s 1975/01/19 Roger J. SMITH 122.94s(F-15)
25000m 192.60s (MiG-25/Ye-266) 161.025s 1975/01/26 David W. PETERSON 154.2s(MiG-25/Ye-266M)
30000m 243.86s (MiG-25/Ye-266) 207.799s 1975/02/01 Roger J. SMITH 190s (MiG-25/Ye-266M)
(F4H-1は後にF-4Aと改称。P-42(П-42)はSu-27フランカーの記録挑戦用機、Ye-266(Е-266)はMiG-25フォックスバットの記録挑戦用機、Ye-266M(Е-266М)はYe-266のエンジン性能向上型。)

ストリークイーグルは後に作戦機に復旧させる予定であったが徹底的の軽量化が施されたストリークイーグルを本来のイーグルに戻すには多額の費用が必要であった。そのため本機は作戦機に戻る事無く試験機として運用を受けるため腐食防止のため塗装が施され、1980年12月に除籍、エアフォースミュージアムへと寄贈された。

上表のようにストリークイーグルの立てた8つの新記録のうち7つがP-42やYe-266M既に更新されてしまったが、F/A-22やSu-30MKのような最新の高性能機であれば、更なる記録更新は余裕であろう。しかし、こうした記録を打ち立てたところで多額の費用が掛かるほどの「効果」は無い。恐らく唯一F-15が保持している20000mの記録は今後しばらくも更新される事は無いであろう。
互いの戦力を誇示しあった東西冷戦期とはいえなんとも贅沢な余興である。


強力な上昇力は迎撃戦闘機としての優秀性を物語っている。

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streakeagle01.jpg - USAF
streakeagle02.jpg - USAF
F-15イーグル AN/APG-63レーダー・電子戦装置

AN/APG-63レーダー

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【AN/APG-63】

写真は米空軍F-15Dである。最近では眼鏡をかけたパイロットも少なくないようだ。一昔前にMk1アイボールセンサーが衰えてしまっていたら不適格として戦闘機を降りる運命に有っただろう。
空中戦における索敵手段がいかにレーダーに依存しているかを表している。

空中戦の原則は見敵必殺・先手必勝。目の役割を担うレーダーは心臓たるエンジンに次ぎ戦闘機における最重要機器である。



イーグルの目となるレーダーはヒューズエアクラフトAN/APG-63である。
91.4cmの直径を持つ大型のAS2717プレナーアレイアンテナを備えたXバンド(8〜12GHz)のセンチ波を使用するコヒーレント型パルスドップラーレーダーである。
操縦士一人でレーダー操作が可能なように反射波は全てセントラルコンピューターIBM CP-1075 24k(MSIP改修で96kに拡張)を介し処理され、兵装管理システムAN/AWG-20の情報と合わせコックピット正面パネルのハニーウェル社製のCRTモニターであるVSD(垂直状況状況ディスプレイ)とAN/AVQ-20 HUD(ヘッドアップディスプレイ)に2次処理されたシンボルIDとして表示される。前世代のF-4のようなレーダー手がクラッター・ノイズだらけの「生の反射波」から職人技(ファントムライダー曰く)で標的機を探し出す必用は無くなった。F-15を単座戦闘機とする上で最重要の課題であった。

ヘイゼルタイン社製AN/APX-76IFFインタロゲーター(敵味方識別装置送信機)を装備しており、レーダー走査と同期しIFF質問波を出力することにより、リットン社製のIFF用リプライエバリュエーター(応答評価装置)を介して自動的に友軍機か不明機かの識別されたシンボルが表示される。
IFF送信波を出力するか否かは操縦士が任意に決定することができる。ただしIFFは応答があった場合は友軍機と判断するものであって、正確に「敵」と識別する装置ではない。実戦での湾岸戦争項でIFFの問題点は後述する。
(AN/APX-76)
イーグルはノースロップグラマンAN/APX-101IFFトランスポンダーを装備しIFF質問波に対する応答波を自動的に送信する。さらにATC(航空交通管制)の二次監視レーダーへの応答も行い、自機の高度をATCに知らせる役割も担う。AN/APX-101はF-16,E-3,F-5,KC-10,P-3,A-10など米空軍の多くの航空機に装備されている。IFFアンテナはプレナーアレイ上の10個の突起である。
(AN/APX-101IFFトランスポンダー)

パルスドップラー式レーダーは送信電波を一定の時間で区切った短い送信波(瞬間波動:パルス)として送信し、何らかの物体(地形や航空機)に当たり反射して戻ってきた時間を計測し、距離を割り出す。パルスは高指向性のビームであるためアンテナの俯角・仰角・方角により高度と方位を探知することができる。
また、動体に当たりパルスが反射した場合におこる周波数の変化、ドップラー効果を利用した周波数の差異により物体の相対速度(接近率)を知ることができる。この効果を利用し地面からの反射波をカットすることにより高いルックダウン性能を持つ。
PRF(パルス反復周波数)を状況に応じて変更する事で様々な目標に対応できるのもパルスドップラーレーダーの強みである。高PRF(つまり短時間で多くのパルスを発するおよそ100〜300KHz)では高高度を高速度で飛行する航空機の探知に適し、長大なレーダー視程を得る事ができる。
中PRF(10〜20KHz)では低速で飛行する目標の探知に適するが高速目標の探知が難しくなり、グラウンドクラッターやノイズが多くなる事により、二次処理されたVSDにはノイズは表示されないがレーダー視程は短くなってしまう。PRFは操縦士が任意に切り替える事ができるが、通常は自動的に高PRF,中PRF,低PRFを交互に繰り返す事により、幅広い標的に対応する事ができる。

レーダーレンジは左サイドコンソールパネルのツマミをまわすか、スロットルレバーの4方向スイッチを上下に動かすことによりVSDの距離軸値を 10nm / 20nm / 40nm / 80nm / 160nm に切り替えることができる。気象状況もクリアで、かつ大型機のような目標に限るであろうがレーダー視程は最大160nm(およそ300km)に達する。160nmという視程はこの当時の戦闘機では群をぬいて長大であり、現在のマルチロールファイターと比しても大変優れている。
走査範囲はアジマス幅 20 / 40 / 60 / 120 度のいずれかで、エレベーションは 1 / 2 / 4 / 6 / 8 スキャン(上・下4段階合計およそ20度幅)を任意に設定することができる。捜査範囲が狭ければ高速に走査することができ、アジマスとエレベーションをあまり広くしすぎると1回の走査を完了するのに10秒もの時間を要してしまう。
目視内における格闘戦に於いてはスーパーサーチ(ACM)モードを使用する。アジマス幅を狭めエレベーションを上下20度(40度)と重視し、最初に捜査範囲に飛び込んだ目標を自動的にロックオン(STTモード)する。視程は10nmである。
なお、APG-63はNCTR(Non Cooperative Target Recognition)能力を持ち、目標機をロックオンする事によりその航空機の機種を判別しVSD上に表示する事が可能である。判別には目標機のエアインテークやエンジンのファンブレードの反射波によって行われ高い指向性を必要とし、判別には近距離であるほどより高い確率で認識できる。脅威データから参照し行われるため、脅威の情報を事前に取得し、かつ目標機の前方を捕捉している場合に限る。

空対地マッピングも可能であるが、基本的に本機の任務の外である。

大変ひどい写真で申し訳ないが(こんな写真でも無いよりかはマシですので…。(撃墜されたF-15イーグルを参照)
RANGEと書かれた10〜160のツマミ、EL SCANと書かれた1〜8のツマミ、AZ SCANと書かれた20〜120のツマミが確認できると思う。F-15はHOTASを採用している。これらのスイッチ類を触ることなくスロットルレバーで同等の操作を行うことができる。
MODE SELのツマミがマルチモードレーダーとしての機能を示している。
(左側のツマミの機能については残念ながら不明)


戦闘機が巨大化しつつあったのは強力なレーダーを搭載し射程の長いミサイルを発射するためである。上の写真はそれを如実に示している。右の小さいものからF-86F,F-104J,F-4EJ,F-1,F-4EJ改(初期のF-16と同等),そしてF-15である。
レーダーの出力とアンテナ径はレーダーの絶対性能を左右する。ジャミングをバーンスルー(接近する事による無効化)するにも、長視程やレーダー反射断面積(RCS)の小さい機を探知するにも有利である。
最新のマルチロールファイターの装備するレーダーは総じて小型で出力が小さい。物理的に巨大なレーダーを搭載できる事は現代の目視距離外(BVR)戦闘において大きな有利となる。

1979年AN/APG-63にプログラマブルシグナルプロセッサー(PSP)が組み込まれた。これによりハードウェアを一々再構築する事無くソフトウェアのプログラミングで迅速かつ低コストにシステムをカスタマイズすることが可能となった。加えて様々な改良を受けている。
等であり、既に生産され装備されていたAN/APG-63にも同等の改良が施された。
プログラマブルなレーダー火器管制装置はAN/APG-63が世界ではじめてであった。しかしメモリー不足により新たな脅威に対応する事が不可能になってしまいPSPによる発展の余地は全て埋め尽くされてしまった。そのためコンピューターを換装した新たなタイプのレーダーが必要とされた。
また、AN/APG-63は性能的には世界に比類なきレベルであったが初期にF-15の稼働率の足を常に引っ張りつづけた。平均故障間隔は15時間という極めて悪い数字であった。F-15に限った話ではないが戦闘機を配備するのには如何に大変であるかがうかがい知れる。なお、現在では60時間以上を実現している。



【AN/APG-70】

AN/APG-70はF-15Eストライクイーグルへの搭載を目的とした、主に空対地能力の強化を目的としたレーダーである。空対空レーダーモードにおいてはAN/APG-63と同等の性能を持つ。
AN/APG-70における対地レーダーモードの最大の特徴は合成開口レーダー(SAR)能力を持つ事である。対地における最大視程は80nmで、極めて優れた地上マッピング能力を発揮する。
機首を中心とした8度は死角となるが、ある任意のレーダー走査範囲内を選択し、3-5秒間走査しその間機体が移動した分の位相差があるデータを保存し、位相差を重ね合わせる事により高分解能な写真画質の地形図を作成する事ができる。その解像度は80nmで13mであり、40nmで5.2m、20nmでは数十センチ単位である。
合成開口レーダーを実現するためAN/APG-70ではCPUの処理速度は3倍になり、メモリーは96Kbから1Mに拡張され
ハードウェア・ソフトウェア共に大幅に強化された。

よって、空対地任務を負わない、「ストライクイーグルではないF-15」にもMSIPによりAN/APG-70を搭載しており、ソフトウェアの対応による性能向上余地は向上した。
但しレーダー自体に合成開口レーダーモードの機能は備えているが基本的に使用できない。


【AN/APG-63(V)1】

AN/APG-63(v)1は、先述したAN/APG-63の陳腐化(特にソフトウェア面)および低信頼性を改善する目的で米空軍向けに161基、韓国空軍向けに40基AN/APG-63(v)1が生産された。送信機、受信機、コンピューター、低電圧電源(アンテナの駆動)、信号データコンバータ等、BIT(自動故障診断装置)、殆どが一新されている。
名前こそAN/APG-63であるが、新たに設計された新型のレーダーである。空対空能力に限ればAN/APG-70を上回っている。
AN/APG-63の問題点であった処理能力の向上、ソフトウェアのメモリーといった大きな問題点が解決し性能向上余地は増大した。また平均故障間隔は15時間から120時間へと信頼性は文字通り桁違いに向上した。
また、ゲイン(出力波)が増大しており、最大視程は160nmと変わりないが(これ以上延長する意味も無いので探知できても表示されない)、戦闘機などRCSが小さい反射源の探知距離が延長されている。
2001年3月にラングレー空軍基地の27FSのF-15Cに初めて装備され、韓国空軍向けのF-15Kにも装備されている。
AN/APG-63(v)1は2005年で生産が終了するが、新たに航空自衛隊向けに100基程度の生産が見込まれている。


【AN/APG-63(v)2】


現在F-15が装備するレーダーで最も強力なものがAN/APG-63(v)2 フェイズドアレイアンテナを搭載したアクティブ電子走査アレイレーダー(AESA)レーダーである。1999年アラスカ州エルメンドルフ空軍基地に所属する第3WING12FSのF-15Cはこの種のレーダーを戦闘機としては世界ではじめて搭載した。2000年には実働体制に就いている。※1

平面状に並べられた多数の位相変換素子(フェイズドアレイ)にそれぞれ電波送受信機が附属し、位相変換量を個別に変えていくことにより機械的な首振り動作を無しにビームの方向を指向し広範囲を極めてすばやく走査する。従来のプレナーアレイアンテナでは広範囲を走査するのに10秒以上の時間を要する事は先述したが、これにより時間差の無いリアルタイムで追跡・走査(TWS)が行えるようになった。特に、エレベーション角の走査範囲は相当拡張されていると容易に推定できる。
また、この高いTWS能力を活かしAIM-120を最大8発をリアルタイムで各個別の目標に中間アップデートを行う事ができるため、複数目標に対する命中率が向上している。
また、稼動部がなくなったため平均故障間隔は格段に向上が見込めるという(数値は定かではないが)。
2004年現在同レーダーを装備した機はアラスカ州エルメンドルフ空軍基地所属の18機のみであり、現在AN/APG-63(v)2の生産はストップしており、殆ど試験的に運用が行われているに過ぎない。この先の生産は不透明である。どうやら、所定の信頼性を発揮できなかった事と重々量化したことが原因であるらしい。わが国のF-2のレーダーにも見られたように所定の性能を発揮しないなどソフトウェア・ハードウェアの整合性に苦しむ例は日米だけではなく、AESAの開発にはどの国でも苦しめられているようである。
なお、アンテナがプレナーアレイからフェイズドアレイに変わった事により、ややRCSが低減しているという不確定情報もある。

現状から察するにAN/APG-63(v)2は殆どたたき台で、その運用成果はAN/APG-63(v)3にフィードバックされると思われるが、おそらくF/A-22を除けばAN/APG-63(v)2を搭載したイーグルに目視外戦闘において対等以上に戦える戦闘機は無いであろう。

※1 世界ではじめてフェイズドアレイレーダーを搭載した戦闘機はMiG-31フォックスハウンドであったが、パッシブ式である。
また「世界で最初に搭載した戦闘機」というフレーズにはややトリックがあり、実用ではない機であればF-22AやXF-2の方が先であった。


【AN/APG-63(v)3】

AN/APG-63(v)2 AESAレーダーはほとんど試験的な運用が行われている。その経緯やF/A-18E/Fが装備するAN/APG-79 AESAの技術をフィードバックしたものがAN/APG-63(v)3である。信頼性・安定性の向上、ECCMの更なる向上、コンピューターのハードウェア・ソフトウェアの拡張に加え、軽量化が図られている。現在開発中で実用化には至っていない。
シンガポール向けに現在売込みが行われているF-15Tへの装備が予定されているが、この先どうなるかは未定である。
なお、正確には頭につく「AN」は正式装備された機材につけられるものでるため、現段階では名称に用いない。(将来的にはAN/APG-63(v)3となるであろう。)


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f15mg.jpg - USAF
anapx7601.jpg - BAE systems
apx101.jpg - Northrop Grumman
F-15イーグル 整備性

整備性

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【考え抜かれた整備性】

F-4とF-15の整備資格をもった機付け整備員はこう言う。
 「F-4は技術と時間そして強引さを要求され、設計に整備のことは全く考えられていない。
 それに比すとF-15はバカでも整備できる。
同じマクダネルダグラスF-4の血を受け継ぐF-15は列線での整備を最大限に考慮し、高い稼働率を実現するように設計されており、代表的な要素の一つに自己診断装置(BIT)の装備が挙げられる。フレームのゆがみを検知するX線走査など特殊な場合を除けばエンジンやアビオニクス等F-15の搭載機器の不具合を発見するにはBITプログラムを走らせるだけでよい。
エラーが発生している機器が存在する場合は自動的にBITが検出し、コックピット正面パネルの一番右下に位置する警告灯を点灯させる。地上に降りればノーズギア格納部のBIT警告灯を確認することができる。
(F-15Eのノーズギア格納部のBIT)
機付け整備員はエラーを起こしている機器が収容されているエクスターナルアクセスドア(外部点検扉)をオープンし、列線交換ユニット(LRU)と呼ばれる、ある1つの機器が納められたブラックボックスを引き抜き、あらたな正常に動作するLRUを取り付けるだけで良く、異常を発しているLRUはそのままアビオニクスショップ等に送ればよかった。「バカでも出来る―」というイーグルキーパーを侮辱してると受け取られかねない表現はファントムの整備の難しさを表現するため誇張された揶揄であるとしても、Maintainability、Supportability.すなわち整備性及び整備支援性は旧来機に比べれば圧倒的に向上し、列線での機体整備は簡易になった。

なお、F-15の機体には点検用、装備用・燃料口など300近いエクスターナルアクセスドアを持ち、ドアの総面積は53m2と、テニスコートと揶揄される主翼面積(56.5m2)に匹敵する広さである。

上写真をクリックして拡大写真を見ていただきたい。177Rや175Rなど番号が大量にふられているが、これらは全て点検口のナンバーである。左翼側には177L、175Lという番号の点検口がある。

こうした新機軸の採用によりF-15の稼働率は既存機に比べ大幅に向上が見込め、カタログスペック上における1飛行時間あたりの作業量は僅か8マンアワーで、維持費は極限にまで低減されるように設計された。列線整備の範疇外であるがF100ターボファンエンジンを機体から取り外す作業はわずか30分で完了する。
他の戦闘機の実測値を記すとF-4で34マンアワー、F-111で55マンアワーであり、「貧者の戦闘機」F-5ですら16マンアワーとF-15の設計仕様の倍の数値である。8マンアワーという作業量はP-51マスタングと殆ど同程度という極めて低い数値であり、F-15がいかに整備性に考慮が施されたかが知る事が出来る。


【実働下での整備性】

マッハ2級の戦闘機がP-51マスタング並みの整備時間を掛ければ良いという、実用面において理想的とも言える整備性を持って設計されたのは上記の通りである。しかし、カタログスペック通りに行かないのが兵器の常である。
当初設計では1飛行時間あたりの整備は8マンアワーで足りたはずだったが、YF-15の試験運用に於いては倍以上の19マンアワーを必要とした。それだけではない、F-15が実用化され、運用開始からしばらくが経過した1979年の時点では、さらに倍のF-4と同等である35マンアワーを投入しなければならなかった。
F-15に搭載される多くのユニットの中で整備の足を常に引っ張りつづけたのはAN/APG-63レーダーとF100-PW-100エンジンであった。こうした問題は新型戦闘機が就役するとよくありがちな例である。
APG-63は平均故障間隔が15時間という信頼性の低さで頻繁にLRUの交換を必要とし、ついにはLRUの予備が不足するという想定外の事態に陥ってしまった。F100エンジンも同様であり、何度も故障を発し最悪破損し使用不可能になる事も多々有った。
そのため他のイーグルを部品取りに使用し稼働率を保つしかなく、1979年の時点では共食いにより目(レーダー)や心臓(パワープラント)の無い殻だけのイーグルが数多く放置され、稼働率が50%を切り、まともに動くイーグルのほうが少ないという大きな問題を抱えていた。この次期少数がイスラエルに輸出されているが、すぐにでも実戦に投入する必要があるイスラエルではさらに深刻であっただろう。
こうした問題は1980年頃から徐々に改善され、一飛行時間マンアワーも低減(具体的な数値は不明)し、稼働率の問題も1990年頃には平時85%にまで上昇、1991年の湾岸戦争では砂漠の盾作戦から砂漠の嵐作戦の期間を通じF-15C/Dの稼働率は93.7%、F-15Eは95.5%にも達した。
F-15は30年間の間航空優勢を確保する主力戦闘機で有り続けたノウハウの蓄積や、ネックであったエンジンやレーダーも、より最新のものに多くがアップグレードされているため、初期の問題多くは改善済みであると思っても間違いではないだろう。

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f15jeadb.jpg - USAF
F-15イーグル 外部灯火

外部灯火

F-15の外部灯火を載せる。なお写真はすべて高解像度版にリンクしている。


2枚の垂直尾翼には左に白色で周期的に発光する尾灯(ストロボライト)、右に赤で点滅するアンチコリジョンライト(衝突防止灯)


アンチコリジョンライトは左右の主翼付け根部にも付いており、同様に赤色に点滅する。


右翼端には青色ナビゲーションライト(航行灯・翼端灯)が灯る。なお、白い突起はジャミング発信装置。


左翼端には赤色ナビゲーションライト(航行灯・翼端灯)が灯る。他の航行機の青色ナビゲーションライトが左に見え、赤色ナビゲーションライトが右に見えた場合はその機はこちらに接近しているという事で注意をしなければならない。
機首の051の下の矩形はフォーメーションライト。同様にナビゲーションライトのやや後方翼端、垂直尾翼の下の矩形もフォーメーションライトである。作戦飛行中でも遠方(つまり敵)からは視認し難い淡い緑色に点灯し悪天候や夜間での編隊飛行時に用いる。


オレオショックアブソーバーの下部にあるランディング・タクシーライト。ギアダウン時に点灯。


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F-15イーグル 空対空兵装

空対空兵装

【幻の兵装 GAU-7/AIM-82/AIM-95】

GAU-7はF-15に装備する事を目的として設計された25mm6砲身機関砲(ガトリングガン)である。
米国製戦闘機の標準的機関砲であるM61A1 20mm6砲身機関砲は欧州やソビエトの機関砲に比較すると口径が小さく、連射速度こそ速いがやや威力不足であった。そのためM61A1に代わりF-15に搭載する事を目的とし1960年代後半に開発が開始された。
GAU-7の最大の特徴は薬莢を持たず、弾そのものに発射薬を持つケースレス(無薬莢化)弾を発射する事であり、発射精度の向上、弾丸の軽量化を狙った野心的新技術が投入された。
しかし、ケースレス化の利点と逆方向の問題が多発し弾装ドラムやベルト給弾など機構上の問題やケースレス弾そのものの開発に失敗。
GAU-7の開発には1億ドルの予算が投入されていたが、試作型が辛うじてF-15に搭載されたのみで、1974年技術的に困難であると結論付けられGAU-7の開発は中止、F-15はM61A1バルカンを装備する事が決定された。

AIM-82もF-15に装備する事を目的として設計された短射程オールアスペクト・オフボアサイト赤外線誘導空対空ミサイルである。
「ミサイル戦から格闘戦戦闘機への回帰」に従い設計されたF-15はドッグファイトに勝つために必要なものは急旋回を可能とする広大な主翼、急旋回のエネルギーロスを防ぐ強力なエンジンを持つに至った。
ミサイル戦から格闘戦戦闘機への回帰とは言ってもベトナムの空でも空中戦の主力はサイドワインダーであった。すなわち、旋回を可能とする広大な主翼、急旋回のエネルギーロスを防ぐ強力なエンジンに加え、サイドワインダーを凌駕する高命中率・高信頼性の新たな短射程空対空ミサイルを搭載する事によりリスクは最小限に抑え、MiG-21に対するキルレシオは955:1に達するであろうと試算された。
1970年にAIM-82の仕様がまとめられヒューズ、フィルコ、ジェネラルダイナミクスに対し提案書の納品を命じた。
しかしF-14に搭載するために海軍により発注・開発されていた類似した性能要求を持つヒューズAIM-95が先行して開発が進んでいたため、AIM-82の計画は破棄され空軍も同ミサイル開発に参加する事となった。
AIM-95A Agileと正式名称が付与され、発射試験まで行われたが開発費およびユニットコストの高騰により最終的に1975年には計画は破棄された。

955:1のキルレシオが試算された当時は、楽観過ぎるその数値に「極東、欧州、本国に3機あれば十分だ」と皮肉を込めた批判が行われたが、さらに皮肉な事に同種のAIM-9L/Mを装備するF-15は100:0以上というキルレシオを実現しており、比率に於いてそれを上回っている。

【AIM-9/AIM-7/AIM-120/M61A1】

AIM-9サイドワインダー、AIM-7スパロー、AIM-120アムラーム、M61A1バルカン、これらの兵装はF-15Eストライクウイング-兵装-において記述済みであるので概要は省く。F-15とF-15Eによる差異は殆ど無い。
F-15は右翼の付け根にM61A1の砲口を持ち、ドラム弾倉およびベルトに最大940発のPGU-28弾丸を装備可能である。F-15Eは512発に減数している。



機関砲口は右翼付け根付近にあいている。機関砲口後方に発射ガス放出および放熱口が見られる。なお、コックピットやや後ろの上面の四角形の穴と、キャノピー後端下の丸い穴はアビオニクス室の放熱口。円形の穴は右舷側のみ開いている。F-15J改ではこの冷却口はなくなる。

空対空ミサイルは胴体側面に最大4発のAIM-7及びAIM-120を装備し、翼下に最大4発のAIM-9及びAIM-120を装備する事ができる。

写真は左翼からAIM-9×2 AIM-7×4 AIM-120×2の8発の空対空ミサイルに加え3本の610ガロン(2309リットル)増槽を装備するフル装備が施されている。


F-15は胴体下、主翼下に最大3本の610ガロン増槽を装備する事ができる。多くの戦闘機が増槽を装備した場合、空対空ミサイルの搭載数に干渉を及ぼすのに対し、F-15にはそのような心配は必要無く、小さいながら利点である。

F-15Eストライクウイングを含むサイト情報や書籍などではAIM-7やAIM-120の射程距離はおよそ50km前後であるが、実戦におけるこれら中射程ミサイルの射距離は10-20km程度であり、これ以上の距離での交戦はきわめて稀であり、発射しても命中は殆ど期待できない。

【ASM-135 攻撃衛星を落とせ!】

本ASM-135を空対空ミサイルの範疇に含むのは疑問であるが、ソビエトの対人工衛星用攻撃衛星を破壊するために開発された対衛星ミサイルである。対衛星兵器Anti-SATellite weapon.を略したASATと呼ばれる。2段のロケットを持ち、頂点部のMHVと呼ばれる弾頭部で構成される。MHVは赤外線シーカーと姿勢制御スラスターを持つ。なお弾頭はエネルギー衝突式であり炸薬は持たない。
F-15イーグルはASM-135の発射母機として選定された。あらかじめ空中待機した爆撃機から発射する方式や、地上固定式、攻撃人工衛星発射式も検討されたが、およそ2万メートルの発射高度まで2分少々で上昇できる極めて高い上昇力が買われ、F-15に装備、運用することがもっとも高効率である事が決め手となった。
ASM-135を搭載したF-15Aは指令を受け指定の空域まで飛行し、空軍宇宙コマンド(AFSPC)からのデータリンクによるHUDへの表示及び音声での指示を受け、標的衛星に正対する形にハイレートクライムを実施し高度2万-2万5000mまでズーム上昇。そのままの姿勢でミサイルを分離しF-15は帰投する。後はASM-135自身で自律誘導が行われる。
1985年9月13日、ASATを装備するF-15A(77-0084)により初の実弾試射が行われ高度555kmの軌道上にあった標的衛星を破壊した。戦闘機がミサイルにより人工衛星を破壊した史上唯一の例である。実験は成功し、射高800kmにも達するとされたが、本ミサイルが実用されることは無かった。

詳しくはWeapons Free! ASM-135 ASAT項を参照されたい。

【搭載兵装一覧】

パイロン 1 2 3 4 5 6 7 8 9
AIM-9
シャフリル2
パイソン3
パイソン4
パイソン5
AAM-3
90式空対空誘導弾
AAM-5
04式空対空誘導弾
AIM-7

AIM-120

ダービ−

AAM-4
90式空対空誘導弾


500ポンド級爆弾



○○

○○

○○
○○



610ガロンタンク
AN/ALQ-131等ECM
F-15 兵装搭載例
CAP AIM9
AIM9
AIM7

AIM7

AIM9
AIM9
CAP2 AIM120
タンク
AIM9
AIM120

タンク
AIM120

AIM9
タンク
AIM120
F-15B/D
(機内ECM無し)
AIM9
AIM9
AIM120

ALQ131
AIM120

AIM9
AIM9


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fullloding.jpg - USAF
asat01.jpg - USAF
F-15C/D/J/DJ

F-15C/D

単座のF-15C及び複座のF-15Dは従来のF-15A及びBを改良したイーグルである。
しかし、改良とは言ってもF-15AとCが空中戦に於いて決定的に性能差が有るという訳ではない。AとCの相違点は僅かである。
当初F-15A/BはF100エンジンのトラブルと低燃費に悩まされ、滞空性能は予想外に低くなってしまった。F-15Cはその問題を解決する事を主眼において若干の変更点が加えられた。
具体的には性能向上余地として残されていたスペースを潰し燃料タンクに当てられている。左右主翼のインテグラルタンクを前縁にまで拡張し、インテーク部に近い胴体に左右計4箇所のタンクが増設された。これにより燃料搭載量はF-15Aの6572リットルからF-15Cの7836リットルと約20%向上した。

また、燃料に関連してもう一つ重要であったことはコンフォーマルタンク(FASTパック)の搭載が可能となった事である。この胴体側部に密着させるタイプの増槽は空中投棄こそ不可能であるが通常の落下式増槽に比べ格段に抗力が少なく、むしろコンフォーマルタンクを装備することにより抗力が低減するとさえ言う向きも有る。このタンクの中には2839リットルの燃料を搭載可能で、左右あわせて5678リットルの燃料を搭載する事ができる。空中に於ける燃料の1滴は血の1滴に等しい。ミッションによっては重量増以上の恩恵を得る事ができる。


(写真はコンフォーマルタンクを装備したF-15D“グラマラスグレニス”。前席に乗るのはX-1で初めて音速を超えた男、チャックイェーガーである。)

しかし、空中投棄が不可能なコンフォーマルタンクの装備は航空優勢を確保する任務では万が一のドッグファイトで不利になりうる。コンフォーマルタンクを装備しなくともF-15Cには十分な燃料を機内に搭載でき、必要であるならば610ガロン(2309リットル)外部増槽を3本装備可能なため、あまり使われる事は無い。
なお、機内燃料、増槽×3、コンフォーマルタンクを装備することにより20441リットルの燃料を搭載可能。

写真は米国に接近したTu-95ベアSIGINT機を監視する海軍のF-4。帰還のためコンフォーマルタンクを装備したF-15Cに任務を引き継ぐ様子。このようにコンフォーマルタンクを装備した機が「実戦」に投入される事もしばしばあった。
F-15C/Dが装備するコンフォーマルタンクにはF-15Eストライクイーグルのような対地攻撃用のハードポイントはもっていない。
三菱重工がライセンス生産したF-15J/DJは機体的にF-15C/Dに準じており、コンフォーマルタンクの装備も可能である。最も航空自衛隊がコンフォーマルタンクを保有していないため装備される事は有り得ないだろう。

燃料増以外にはPSP対応した改良型のAN/APG-63レーダーの装備するなど、F-15Aに対し施された改良を標準で装備している事があげられるが、単純にF-15AやF-15Cとひとくくりにしてもそれぞれのバリエーションの中で装備するエンジンやアビオニクスは異なっているため、AIM-120を発射可能なF-15Aもあれば、不可能なF-15Cもあり一概に言う事はできない。
よって、全体から見たF-15AとF-15Cの違いは燃料タンクの差であると言える。
F-15CとD違いは前者が単座であり、後者が複座の練習機である事で、F-15Dでは後部座席を設けるために戦術電子戦システム(TEWS)を撤去しているため電子戦能力に劣る。F-15AとBの差異も同様である。
(拡大)
(単座機コックピット後部アビオニクス室。性能向上余地の大きさにも注目。)

F-15Aの生産は77年で終了し1978年よりF-15Cの生産が開始され、1979年に最初のF-15C飛行隊が嘉手納基地18TFW 67FS“SHOGUNS”で実働体制についた。

(シリアルナンバー78-0472 F-15Cの5号機 MSIP適用済)
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(シリアルナンバー76-0093 F-15A MSIP適用済 F-15AながらAMRAAMを装備している)

1985年よりF-15に対し多段階改良プログラム(MSIP Multi-Stage Improvement Program)が順次適用されている。
MSIPとは、急激な進化を遂げる電子工学の分野に対し、F-15の旧式化したアビオニクスを排除し、新型の機器に換装する計画である。1985年よりF-15A/B及びF-15C/Dを対象に行われた。F-15Aに対してはMSIP1 F-15Cに対してはMSIP2と、若干内容が異なるがほぼ同等の近代化改修が施されている。
ここでいうMSIPとはF-15A/B/C/Dに対する改修であり、航空自衛隊F-15J/DJに対するJ-MSIPとはやや異なる。

主な改修点は以下の通り。
この中でもAN/APG-70レーダーへの換装は最重要であり、AN/APG-63はメモリー不足により新たな脅威に対抗する事が難しくなっていた。AIM-120AMRAAM発射能力の付与も重要な点である。が、1991年湾岸戦争ではミサイルの配備の遅れから実戦で発射される事はなかった。1985年以降生産機についてはあらかじめMSIP改修機同等のアビオニクスを搭載している。
MSIP改修は90年代中ごろに終了したがF-15Cに対しては現在も継続して近代化対応改修が続いている。

(拡大)
MSIP対応機と非MSIP機を見比べる上での最大の相違はコックピットに有る。上記写真左はF-15J非MSIP機。右はF-15J MSIP機。F-15CではなくF-15Jのものであるが、コックピット正面パネルの兵装関連パネルがをMFDになっている変更点は同様である。

F-15Cの生産は1992年で終了し、以降F-15E/I/Sストライクイーグル系の生産のみとなった。
.(拡大)
非MSIP機の兵装関連パネル部拡大。アナログ的で拡張性に欠ける。

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f15yeager.jpg - USAF
f15cwithtu95.jpg - USN
F-15の欠点と将来性

F-15の欠点と将来性

【レーダー反射断面積 RCS】

1970年〜80年代はF-15に匹敵する戦闘機は皆無に等しかった。
唯一匹敵しうる戦闘機と言えば同じ米国のF-14ぐらいのものであっただろう。それだけF-14とF-15は遥かに抜きん出ており、登場から30年近くもの間、性能の面においても実績においても最高級の戦闘機であることに疑いの余地は無かった。
しかし90年代後半から2000年代に入ると、その性能アドバンテージは大きく詰められてきている。
欧州のタイフーンや、フランスのラファール、米国のF/A-18Eスーパーホーネット、日本のF-2はF-15にくらべ遥かに進んだ設計思想の元製造されており、運動性の面でも優れ、さらに初期の段階からF-15を多くの面で上回るアビオニクスを搭載している。かつF-15が開発された当時には全く考慮されていなかったレーダー反射断面積(RCS)の低減、すなわちステルス性にきわめて優れている。

RCSはF-15の場合、平均15〜25平方メートルで、ほぼ同クラスのF-14やMiG-25、Su-27系も同程度である。先にあげた最新の小型マルチロールファイターはおよそ1平方メートル程度であると言われている(ただし、レーダー反射面積は状況によって大きく変動するので参考程度に)。
F-15は真正面の極めて小さい角度であるが、RCSは400平方メートルにも達する(らしい)。どうやら、大きなレーダーと、エアインテークから剥き出しの大口径ターボファンが原因だと言われている。
「F-15の真正面の極めて小さい角度」を捉える事が出来るということは、F-15がこちらに機首を真っ直ぐに向けている場合であり、これは「自分が捕捉されている」事を意味する。すなわちF-15に先手を取られている状況である。レシプロ戦闘機の時代から、現代でも変わらない空中戦の大原則は「先に発見する事」である。自分が捕捉されている状況で、相手を探知する確率が増える事を期待しては本末転倒であり、対F-15戦闘において、この極めて小さい角度を相手が意図的に利用することは事実上不可能であろう。
どちらにしろ、最新機に比べてレーダー反射面積が大きいことに変わりは無く、単純に言えばRCSの差が16倍であるなら被探知距離は2倍に跳ね上がる。

こうした弱点を解決した戦闘機がF/A-22ラプターである。

【高コスト化】

戦闘機の開発および生産コストは第1次世界大戦当時から現在に至るまで文字通り右肩上がりで上昇し続けた。
F-15イーグルは性能こそ飛びぬけていたが、やはりユニットコストもまた飛びぬけていた。およそ3000万ドルという数字はF-14の4000万ドルと並び、コストも最高級の戦闘機であった。
よってF-15はその自身の高価さ故に、当初予定されていたF-4ファントムを全機代替することは不可能となってしまった。空軍の数の上での主力は数千機単位で配備されているF-16ファイティングファルコンに奪われてしまっている。が、しかし湾岸戦争以降の米空軍のF-15及びF-16の撃墜数比率は10倍近い差があり、F-16はどこまでもマルチロールファイターであり、F-15は常に航空優勢の確保を行う主力戦闘機であった事は紛れも無い事実である。

米国以外でF-15を運用している国は僅かにイスラエルとサウジアラビアと日本と韓国のみである。しかしながら、それでもF-15の総生産数は1500機にもおよび、量産効果の現れも有り、やはり他国でも高コスト化が進んでいた最新鋭のマルチロールファイターと、相対比において価格的は同程度まで低下している。そのため2000年代以降、F-15を製造するボーイング社の売り込みも有り、幾つかの国でF-15の採用を検討する国も現れ始めた。
その代表例が韓国空軍であり40機のF-15K(F-15E)の採用を決定し2005年から引渡しが始まった。現在シンガポールでも最新鋭のアビオニクスやエンジンを投入したF-15Tが最終選考に残っている。
採用こそされなかったがギリシャ(F-15E)や、あまり現実的ではないが米空軍および州兵空軍において余剰となったF-15A/Bをリストアし東欧諸国に対し売却する計画も有った。現在に於いてF-15は特別高価である戦闘機では無くなっている。

F-15の後継機F/A-22は「軍事的均衡は許されず」という思想の元に設計され、コストを度外視してすべての航空機の頂点に立つ文字通り最強の戦闘機となるべく設計された戦闘機である。F-15の理念をそのまま受け継いでいると言える。
しかし、F-15が高価になりすぎてF-4などの戦闘機をすべて代替できなかったように、F/A-22もまた高価になりすぎてF-15のすべてを代替することは不可能となってしまった事まで引き継いでしまったのは皮肉であろう。
当初750機生産の予定が、現在では100機代にまで減数されてしまっている。よって、F-15の代替機は今のところ存在せず、F/A-22が配備されたことによりF-15の退役が始まっているが、少なくとも2030年ごろまで米空軍の主力制空戦闘機として配備され続けられる。

【近代化改修・マルチロール化】

米国ならずともイーグル使用国で行われている標準的なレーダー、電子戦システム(TEWS)、ヘルメットマウンテッドサイト(HMS)、赤外線捜索追尾装置(IRST)、統合戦術情報分配システム(JTIDS)端末装備、セントラルコンピューター(CC)といった機器の換装でアビオニクスの面では一線級を維持しつづける事は可能であり、幸い巨大な機体には性能向上余地が残されている。
わが国の航空自衛隊に於いても最新鋭のアビオニクスを搭載する事により性能向上を見込んでいる。
レーダーなどは物理的な大きさが関わってくるので、機首が大きなF-15は最新鋭のマルチロールファイターよりも2倍近い視程を持つなど、イーグルにしか出来ないアドバンテージも少なからず存在する。
運動性能の面も、エネルギー戦闘に持ち込むことにより対抗は十分可能であろう (そもそも、格闘戦自体が殆ど行われなくなっているが)。

(インド空軍のSu-30K,ミラージュ2000と編隊飛行するF-15C。Su-30もMr2000も新型の強力な戦闘機だ)

米空軍ではF-15Eストライクイーグルは別であるが、F-15を一切空対地ミッションに投入することは無かったが、最近では空対地ミッションに投入するための改修を行うといった声が上がっている。F-15は設計段階から空対地攻撃を想定していたし、イスラエルでは旧来からF-15を空対空戦闘のみならず航空攻撃にも多用してきた。飛行距離4000kmを超えるチュニス空爆にも投入されるなど、特に長距離飛行能力の面でF-16に比較し極めて高い。
ただ、こうした計画はパイロットを空対空戦闘訓練に集中させた場合に比べ空対空における練度は低下する弊害を招く。空対空を疎かにしたベトナムの悪夢の再来とまで言わないにしろ、反対派の活動により今まで何度か立ち消えになっている。よって将来マルチロールファイターとして使用されるかは現時点で予測は難しい。

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withsu30mr2000.jpg - USAF
F-15E ストライクイーグル

F-15E ストライクイーグル

F-111アードバーク戦闘爆撃機を代替する強化型戦術戦闘機「ETF」。後に複合任務戦闘機「DRF」として開発されたF-15イーグルの攻撃機型(マルチロールファイター)である。通称「ストライクイーグル」と呼ばれる。
F-15B/DにFASTパックを装備し爆装を行った機で試験が行われた。1984年に量産型のF-15Eの生産が開始され、1986年12月に初飛行。1989年12月29日初期作戦能力(IOC)を獲得した。
F-15Eは外見こそ従来のF-15と同じであるが、低空を高速での侵攻かつ重爆装に耐えるため機体構造は大幅に再設計され60%以上が相違し、許容飛行時間は16000時間にも達し、極めて頑丈である。兵装搭載パイロンを持つFASTパック、LANTIRNを標準装備し、すべてが複座機であり、たいていの場合この点に注目することによりで従来のイーグルと見分けることが出来る。
コックピットはカイザー広視野HUDおよび3台のMFD、後席には4台のMFDを備え、グラスコックピット化している。またF-15Eに搭載するために開発されたAN/APG-70レーダーを装備し、合成開口レーダーモードのサポートにより高い空対地マッピング能力を持つ。電子戦関連装備は従来のF-15と殆ど同じである。
搭載可能兵装は空軍が保有する戦術戦闘機用空対地兵装のすべてであり、この種のマルチロールファイターとしては桁違いに強力な攻撃能力を持っており貴重な長距離攻撃機としておよそ200機が配備されている。なお、F-15イーグルとしての空対空能力も変わらず保持しており、戦闘空中哨戒任務を行った記録も有る。
また米国のF-15Eの他にいくつかの国に輸出されており、イスラエルのF-15I、サウジアラビアのF-15S、韓国のF-15K等のバリエーションがある。
IOC獲得からおよそ1年後の1991年1月には湾岸戦争には当時としてはF-111と並び、数少ない全天候攻撃機として主に夜間のスカッドハンティングや建造物攻撃、機甲師団への攻撃などを主任務として投入された。
2機のストライクイーグルの編隊が装備する合計16発のGBU-12レーザー誘導500ポンド爆弾で16両の戦車を破壊するような戦果は1度や2度では無かった。
またGBU-10レーザー誘導2000ポンド爆弾でイラク軍のヒューズ500(Mi-24ハインドとも)ヘリコプターに直撃させ撃墜するという稀な戦果を挙げている。1月18日に地対空ミサイルにより、1月20日にAAAにより2機が撃墜された。
ユーゴコソボ紛争ではイタリアに展開し、アドリア海を超えユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)への攻撃を実施し、アフガニスタン紛争では隣国パキスタンは米軍の展開を拒否し上空通過のみ許可した。そのためクウェートからF-15Eが出撃している。イラン上空を避けパキスタン上空を通過しアフガニスタンまでの片道約2000kmを空中給油を繰り返し攻撃を実施した。空軍の戦術戦闘機の参加はF-15Eのみであった。航続距離の小さいF-16ではF-15E以上に給油を頻繁に行う必要があり無理な話である。
ストライクイーグルの搭載力・航続距離等空対地攻撃能力は他のマルチロールファイターに比較し桁違いである。

本F-15Eについての詳細は姉妹ページF-15Eストライクウイングを参照されたい。


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■PICTURE

f15e001.jpg - USAF
F-15B STOL/MTD(S/MTD) ACTIVE IFCS

カナード/TVC装備型 F-15B

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【NF-15B STOL/MTD】

F-15S/MTD(STOL/MTD)
NF-15B STOL/MTDはShort Take-Off and Landing / Maneuvering Technology Demonstratorの略称で、すなわち短距離離着陸及び機動テクノロジー研究機である。
1984年に空軍によって計画が開始され「アジャイルイーグル」プロジェクトと命名された。STOL/MTDをさらに略してF-15S/MTDと呼ばれる場合も多い。本機の最終的な目的はワルシャワ条約機構軍の航空攻撃により破壊された滑走路から、非破壊部のみを利用し離着陸する事を目的とした短距離離着陸実験である。
V/STOL機を使えば滑走路の破壊など気にする必要はなくなるが、アメリカは肝心のV/STOL機の開発に失敗しており、西側唯一のV/STOL機である英国ホーカーシドレーハリアーは速度も亜音速までであり、ペイロードも戦闘行動半径も既存機に比べ著しく低かった。こうした背景がF-15STOL/MTDを要した理由である。

本計画はF-15の試作段階で製造された8号機、最初の複座型のF-15B 71-290(F-15試作機参照)を改造することによって開始された。
やはり、一番目に付くのはコックピットやや後方に装着された20度の大きな上反角を持ったカナードであろう。このカナードは面白い事にマクダネルダグラスF/A-18ホーネットのスタビレーターを流用しており、デルタの主翼とあわせたクロースカップルトデルタ形式に近いスリーサーフェス(三面翼)となっている。クロースカップルトデルタの最大の利点はカナードが生み出した渦流が主翼上面に当たり通過することにより低速飛行時でも高い揚力を発生させ、高AOAにおいて失速を遅らせる効果である。空中給油を行う場合にはカナードが極めて邪魔のように見えるが、大きな問題ではないようだ。
F-15IFCS(F-15 IFCS)
なお上写真のように、機関砲口を持たず固定武装の機関砲は弾倉ドラムごと装備されていない。
これはカナード装備によるものではなく、本F-15B 71-290が複座F-15の試作機であった頃から装備していない。仮に機関砲を装備していてもカナードを撃ち抜きかねない。
F-15ACTIVE(F-15 ACTIVE)
同様に量産機に比べエアブレーキの面積もおよそ半分程度である。

プラット&ホイットニーF100-PW-220エンジンに極めて特異な形状をした矩形の二次元TVC(推力偏向コントローラー)を装着した事も大きな特徴である。可動範囲は上下20度で、低速域において舵の効き難くなったピッチング・ローリングを補助した。さらに、スラストリバーサーを備えている。ノズル部の増設によりエンジン重量はやや増えている。
操縦装置は統従来のCASから合飛行推進力制御(Integrated Flight Propulsion Control:IFPC)を介す4重系統のバックアップの完全なデジタルフライバイワイヤとなった。IFPCのモードを離陸及び着陸進入・着陸・巡航・そして戦闘の4つからクルーが適宜切り替えることにより制御が行われる。エンジンノズルもデュアルチャンネルノズルコントローラを介し、最適な状況を自動的に判別し可動される。

本STOL/MTD F-15B 71-290は、アジャイルイーグルプロジェクトが開始される前にF-15Eストライクイーグルのアビオニクステストベッドとして使用されていたため、多くの機器が一新されている。操縦席はグラスコックピット化し、カイザー製の広視野HUDに3つのカラーMPDを搭載。後席には2つのカラーMPD及び2つのモノクロMPDの計4個を備えF-15Eと同様のレイアウトを持つ。レーダーもF-15EやMSIP適用F-15Cと同様のAN/APG-70に換装されている。AN/APG-70レーダーの最大の特徴である合成開口レーダーモードを使用し、遠方から飛行場を探し出すとともに、早期に滑走路の破損状況を確認できる利点を持つ。さらにはLANTIRNを装備することにより夜間においてもMFDやHUDに滑走路の破損状況を投影することができる。
レーダーやLANTIRNなどを持ち、システム面でF-15Bのストライクイーグル化されているSTOL/MTDであるが、けっして戦闘用のためのものではなく、あくまでも正確に非破壊部にタッチダウンする事を目的とした装備である。なお、レーダーは後に撤去され、機首部には大きなピトー管を装備した。

F-15S/MTD(STOL/MTD)
STOL/MTDの初飛行は1989年5月16日に行われ、翌1990年3月23日にはじめて二次元TVCの試験が行われた。アジャイルイーグルプロジェクトは1991年8月15日にSTOL/MTDによる最後のフライトを行った事により幕を閉じた。TVCは取り外されプラット&ホイットニーに返却された。以降の研究はドライデンフライトリサーチセンターで行われる事になる。
達成された成果は必要滑走路長460mで、通常のイーグルの必要滑走路は最短で1067m、テイクオフアボートを考えおよそ2000mであるから、半分以下に短縮された。素晴らしい数値である。
さらに、高い臨界迎え角性能を実現し、かつIFPCに戦闘モードがあるように、副次的ではあるが空中戦闘機動(ACM)の面での試験も行われ、通常のイーグルに比べ高い機動性能を見せた。
しかし、スリーサーフェスやTVCによる機動は比較的低い速度であるほど効果は増大し、通常のACMが行われる400kt付近では既存機に比べあまり高い効果は望めない。また、極めて大きなエネルギーを損失する。“SPEED is LIFE!!”すなわち ―速度こそ命― これはACMの基本中の基本であり、戦闘機乗りの合言葉である。過剰な旋回は速度エネルギーを無駄に殺しかねず、速度の低下は死に直結する。確かに機動性の向上(特に低速度域)は実現したが、それが100%全てのACMで通用するかどうかはまた別の問題である。F/A-22ラプターもSTOL/MTDによく似た二次元TVCを装備しているが、ラプターは速度エネルギーの損失を莫大な推力で、ある程度補う事ができる。
ACMにおいて速度以上に重要な事は先手発見・先手必勝である。カナードによる視界の制限というリスクもけっして無視できるものではない。また超音速以上でのロールレートは向上したが、亜音速以下でのロールレートは低下している。

【NF-15B ACTIVE】

NASAのドライデンフライトリサーチセンターは、1993年にNF-15B STOL/MTD(F-15S/MTD)を空軍から委託され、受領した。以降、空軍、マクダネルダグラス、プラットアンドホイットニーに加えドライデンフライトリサーチセンターが主体となってSTOL/MTDに三次元推力偏向装置を搭載した研究が行われることとなる。
ドライデンフライトリサーチセンターはロジャーレイク乾湖に隣接するエドワーズ空軍基地内に同居している。YF-15が初飛行を行った地でもある。

模様のように方角や滑走場所が示された広大な乾湖は関東の三浦半島とほぼ同等の面積を持つ。飛行機からしてみればほとんど無限の「滑走路」を備えているといっても過言ではなくX-1やX-15、さらに世界で最も高速で接地するスペースシャトルの着陸地としても使用されていた。

STOL/MTDはACTIVEと改名された。ACTIVEとは、いわゆる能動的なという意味のアクティブと掛けているのであろうが、正しくはAdvanced Control Technology for Integrated Vehicles、すなわち統合航空機先進制御テクノロジーの略称である。
STOL/MTDはF-15をはじめとする戦闘機の短距離離着陸の研究機であったのに対し、ACTIVEは軍民問わず、将来の航空機の操縦性技術の向上を目的とした。
F-15ACTIVE(ACTIVE)
STOL/MTDとF-15ACTIVEの最も大きな違いはエンジンであり、A/B時推力がおよそ30%増加しストライクイーグルに装備されているプラット&ホイットニーF100-PW-229に換装された。上写真でも分かるとおり同社によりPW-229のバランスビームノズルにTVC改造が施されており、STOL/MTDの特徴的なそれとは大きく異なっているので、簡単に見分けることができる。このノズルはPitch/Yaw Balance Beam Nozzle(P/YBBN)と呼ばれ、ピッチ方向(上下)だけではなくヨー方向(左右)へも可動する。
エンジンの制御はドライデンフライトリサーチセンターで研究されていたF-15HiDECの技術を流用したImproved Digital Electronic Engine Controllers(IDEEC)が用いられ、ソフトウェアは一新された。TVCは機体中心線からあらゆる方向に20度の推力偏向が可能で、ノズルの速度は最高で120度/秒以上である。
舵を用いない航空機の操縦研究が行われた。舵を用いずにピッチング・ローリング・ヨーイングを行い、IFPCのソフトウェアがトリムを最適の位置に自動的に設定されれば、舵面に発生する抗力を最大限に抑える事ができ燃費の向上につながる。こうした技術を将来的に民間機や軍用機(戦闘機に限らない)に適用すれば大きな経済的節約につながる。
1996年4月24日には最初の超音速ヨーイング方向のP/YBBN推力偏向試験が行われ、続いて後日にピッチ軸とヨー軸の試験が行われた。臨界AOAは最大30ユニットに達したと言う。1年間の飛行試験の間にマッハ2.0、荷重6.5GでのP/YBBNを用いた飛行制御にも成功している。
1996年のACTIVE最後の飛行では、高度30,000ftで水平飛行状態においてエンジンの推力を一切動かさずにマッハ1.3からマッハ1.4への加速を行う事に成功し、ソフトウェアが有効に作用する事が実証された。
F-15ACTIVE(ACTIVE)

このほかにも現在計画されている第二世代超音速旅客機のエンジン騒音を抑える高速音響学研究という、面白い試験も行われており、ノズルを完全に開いた状態で排気熱を冷気と混合する事によりノズル排気口から発生する騒音が減少する事を、ロジャーレイクの北東に30個のマイクを1マイルにも渡り展開し、上空をACTIVEを飛ばすことにより確認している。この研究により将来の航空機の騒音レベルを相当低下させる事ができるという。

ACTIVEは素晴らしい曲技を見せるスーパーフランカーのような見た目から、まるでF-15の最高進化系のように思われているが、STOL/MTDで得られた結果からACTIVEもエンジンの推力向上・P/YBBN三次元推力偏向装置、そして飛行制御ソフトウェアの改良により実際にいくらかは向上しているであろうが、そもそもACM能力の向上を目的としていない。ACMではないがフランカーのコブラようなポストストール機動などは実施したという記録は無いし、仮に機動自体は可能であってもエンジンフレームアウトのような事態も十分ありえる。事実上不可能、且つお門違いである。そのようなACMに繋がる研究はF/A-18HARVやロッキードが保有するF-16MATV(VISTA)のような機で行われており、臨界AOAは70ユニット近く、コブラ機動も実際に行っている。究極にはヘルプスト機動が可能なX-31であろう。
ACTIVEの目的はあくまでもは将来的な民間及び軍用の航空機に投入されるソフトウェアを中心とした次世代技術の開発支援を行う事である。

【NF-15B IFCS】

F-15IFCS(IFCS)
F-15IFCSはIntelligent Flight Control System、知的飛行制御システムの略称であり、機体が正常な状態でも、戦闘における被弾等によりなんらかの故障が生じた状況でも、搭載する自己学習ニューラルネットワークシステムにより安全な飛行制御を維持するための研究を目的としたテストベッド機である。
ニューラルネットワークとは直訳すると神経細胞網で、脳の神経細胞網をソフトウェア上で模擬したもので、従来の1つ1つの個別処理を行う事無く、脳の神経細胞網のように情報を並列・分散処理し記憶、学習するものである。
F-15IFCSでは、自己学習ニューラルネットワークシステムを活用し、万が一機体が損傷した場合など飛行特性が著しく変化しても、新たに変異した飛行特性をリアルタイムで自動的に「学習」しつつ「判断」し、パイロットへ変化の無いマンマシンインターフェース特性(操縦性)を提供しつづける事を研究する。

1999年にACTIVEの研究飛行が終了しIFCSと改名され、2003年から第一世代ニューラルネットワークソフトウェアを搭載した試験が開始され、2004年からはより即応性が改善された第一世代ニューラルネットワークソフトウェアが搭載され、現在も試験が継続中である。
ニューラルネットワークが航空機に広く適用されれば、何らかの損傷を受けた場合でも無事に着陸する事ができ、重大な事故を未然に防げるものと大きく期待されている。


STOL/MTDから発したF-15B 71-290のスタイルはとても特徴的で面白い。
ドライデンフライトリサーチセンターのサイトでACTIVEおよびIFCSの高解像度の写真を多く公開している。興味があればぜひ見ていただきたい。
NASA DFRC F-15 ACTIVE
NASA DFRC F-15 IFCS

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■PICTURE

f15smtd01.jpg - USAF
f15smtd02.jpg - NASA
f15active01.jpg - NASA
f15active02.jpg - NASA
f15active03.jpg - NASA
f15ifcs01.jpg - NASA
f15ifcs02.jpg - NASA
F-15 実験機

F-15 実験機

【F-15RPRV/SRV】

F-15A RPRV/SRVはRemotely Piloted Research Vehicle/Spin Research Vehicle すなわち遠隔操縦研究機/スピン研究機の略称であり、その名称の通りF-15の失速およびスピンに起因する墜落事故を解明するためのドライデンフライトリサーチセンターの試験機である。エドワーズ空軍基地で試験飛行が行われた。

実際に通常のイーグルでスピンの試験を行うには極めて危険であるため、遠隔操縦機で行われる事となり、ほとんどをFRPで構成された動力を持たない3/8スケールの無人機として開発された。開発費は25万ドルで、フルスケールサイズの試験機を開発した場合の680万ドルに比べおよそ1/30で済んだという。
地上飛行研究制御室(FRC)はF-15 RPRV格納庫に併設され、初の遠隔操縦を実用したHYPER-IIIリフティングボディ研究機の技術ノウハウを流用し、さらに高いレベルへの無人飛行制御システムが構築され、その研究も兼ね、テレビモニター、地上コンピューター、デジタルアップリンク(RPRVへのリアルタイム情報送信)、テレメンタリーシステム(RPRVからのリアルタイム測定情報受信)を備える。
F-15RPRV/SRV
エンジンは搭載されていないためB-52に懸架され、空中発進を行う。

RPRVは降着装置をもたない。当初、リサーチフライト終了後はテールシュート(尾部のパラシュート)を展開し、ヘリコプターの下部に装備された回収装置で引っ掛けるようにして空中で回収されるが、16回のフライトのうち3回は回収に失敗してハードランディングしRPRVはダメージを負っている。
F-15RPRV/SRV
そこでRPRVにノーズとメイン2つの、計3つの格納式スキー降着装置が取り付けられ、エドワーズ基地の東に広がる乾湖、ロジャーレイクに滑走着陸する形に改められた。写真を見ると実機のF-15イーグルが滑走スキーで着陸しているようで実にユニークだ。これ以降パラシュートを使用したハードランディングは事故による2回しか行われなかった。

RPRVは1973年10月12日に初飛行し、26回目の試験飛行からは機種部に大きなピトー管とノーズシュート(全部パラシュート)が装着され、名称がRPRVから現在の呼称であるRPRV/SRVに改称された。
1981年7月15日に52回目の飛行が行われ、RPRV/SRVの試験飛行は全て終了した。−70〜88度までの迎え角特性や、数値データを得る事が出来、高迎え角やスピンに対する研究は大きく前進した。また、スピン時のリカバリーにはパラシュートが極めて有効である事が判明した。

任務を終えた同機は現在では翼を休めドライデンフライトリサーチセンターに展示されている。


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■PICTURE

rprvsrv01.jpg - NASA
rprvsrv02.jpg - NASA
イスラエル国防軍空軍(IDF/AF)

イスラエル国防軍空軍(IDF/AF)

■イスラエル国防軍空軍(IDF/AF) 

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【戦いの続くイスラエル ヨムキプール戦争戦争】

1973年10月6日、年間を通じイスラエルの警戒が最も緩む贖罪の日(ヨムキプール)にあわせ、約250機のエジプト軍戦闘機・攻撃機が突如としてイスラエルに対し奇襲攻撃を行った。陸軍はスエズ運河を渡河しシナイ半島へ侵攻を開始。同時に北からはシリアが侵攻する挟撃を受け、第三次中東戦争とは全く逆の先制攻撃により、無敵と思われていたイスラエル空軍・イスラエル機甲部隊は多大な損害を受けた。イスラエル側ではヨムキプール戦争戦争、アラブ側ではラマダン戦争と呼称される第四次中東戦争の勃発である。

アラブ側は第四次中東戦争に至るまでイスラエル空軍の苛烈な航空攻撃により度重なる敗北を重ねていた。特に第三次中東戦争のエジプトではイスラエルの先制奇襲により一日で空軍が壊滅する惨劇を受けており、その戦訓からソビエトから固定式のSA-2ガイドライン及びSA-3ゴア、移動式のSA-6ゲインフル、携帯式のSA-7グレイル、ZSU-23-4シルカ対空機関砲車両といった地対空ミサイルを多数取得し、イスラエルに対する防空網を大幅に強化していた。
特にエジプト・シリア両国に配備された最新のSA-6ゲインフル(ソビエト名2K12Eクヴァドラート)とZSU-23-4シルカは極めて強力で、SA-6の1S91"ストレートフラッシュ"レーダーは、イスラエルの軍用機のレーダー警戒受信機に探知不可能なCW波の警戒レーダーを使用し、有効なECM戦闘を行う事ができずに、低高度から高高度までカバーする同ミサイルは開戦から停戦に至るまで常にイスラエル空軍にとって最大の脅威でありつづけた。また、目視内低高度ではレーダー及び光学照準のZSU-23-4シルカが待ち受けていた。
第四次中東戦争も10日も経過した後にはイスラエル軍が反撃に転じ徐々に優勢になりつつあり、イスラエル軍機の強力なECMによりエジプトの地対空ミサイルは殆ど「打ち上げ花火」と化していたにも関わらず、ゲインフルとシルカは有効であり続けた。SA-6のミサイルとイスラエル軍戦闘機における交換率は55:1であったと伝えられている。

開戦から19日目の10月24日、イスラエルは奇襲により失った領地を奪回。午後5時にはアラブ側との停戦が発効し、4回目の中東戦争もイスラエルの勝利で幕を閉じたが、19日間の戦闘におけるイスラエル側の発表した損失は、空中戦においては4機、誤射で1機、地対空ミサイルにより48機、対空砲により52機、事故により10機と、合計115機にも達しており、イスラエルの損害の殆どがSA-6及びZSU-23-4の二種類の防空火器によるものであった。空対空による損失は実際には10機に達するという説も有るが、どちらにしろSAM/AAAがほとんどの原因であろう。第四次中東戦争中にイスラエルは米国から80機ものA-4スカイホークと48機のF-4ファントム、12機のC-130、他ミサイル類を緊急輸入し、損害の穴埋めに当てた。ただし、これら兵器の殆どが終戦後に到着した。

空中戦におけるキルレシオは20:1で20人を超えるエースパイロットを輩出したイスラエル空軍が圧倒したが、第4次中東戦争前後を通じ度々高度8万フィートの高空をマッハ2.5以上、ある日にはマッハ3.2の速度でシナイ半島を通過する、ソビエトのYe-155/Ye-266(後にMiG-25)と思われる正体不明の高速偵察機には既存の戦闘機では全く用を成さなかった。アラブ側にMiG-23や高速戦闘機MiG-25などが大量に配備されれば(そして実際に配備された)この優位が続くという保証は無い。
対抗するにはF-15イーグルしかなかった。イスラエルは次世代の主力戦闘機としてF-15を当初から有望視しており、1974年には他のイーグル使用国よりも早期の段階からパイロットの派遣を行うなど、F-15の取得に向けて積極的な活動を行っている。

【ピースフォックス イスラエルのイーグル】


1975年、イスラエルへのF-15の輸出契約が結ばれ、FMSを介した輸出計画はF-15Peace Fox(ピースフォックス)と命名された。

Peace Fox Iにて1976年12月10日金曜日に最初の4機のF-15が引き渡され、米国以外で最初のイーグル保有国となった。いずれも1972年にシリアルナンバーを受けた72-0116/72-0117/72-0118/72-0120以上4機のF-15A試作機である。面白い事に複座のF-15Bを輸入していない。
余談になるが金曜日はユダヤ教の安息日、戒律により働いてはいけない休日でありイスラエル首相ラビンには翌日その報告が行われたという。
つづき1977年から1978年にかけてはPeace Fox IIとして新造の19機のF-15A及び2機のF-15B合計21機がイスラエルに順次引き渡され、最初の4機を加えた臨時飛行隊として実戦配備を受けた。1979年には最初の撃墜を記録するが、これについては後に記載する。そして同79年末に133スコードロンで初のイーグル実用部隊として実働編成を受け、F-15A及びBにバズ(Baz:鷲の意)というニックネームが付けられた。
参考までに、後に調達されたF-15C/Dをアケフ(Akef:ノスリ)、F-15Iをラーム(Raam:稲妻)と呼び、他にもF-4Eクルナス(ハンマー)、A-4Nアヒト(ハゲタカ)、F-16A/Bネッツ(隼)、F-16Cバラク(雷光)、F-16Dバラキート(雷電)、F-16Iスーファ(嵐)など、イスラエル独自のヘブライ語のニックネームが付けられている。
なお、ノスリはハゲタカの一種であるが、鷲も鷹も生物学上明確な区分は無くやや大きめのワシタカ類を鷲、小さめのものを鷹と分類している程度であるため、バズもノスリもどちらも「イーグル」であることに違いはない。

マクダネルダグラスでのF-15A/Bの生産は1977年に終了し、1978年より米国での生産はF-15C/D(アケフ)に切り替わっていた。よってPeace Fox IIIではF-15Cを18機、F-15Dを8機の合計26機を1981-82年にかけて順次取得し、1990年にはPeace Fox IVとして5機のF-15Dを取得した。
さらに90〜91年には、湾岸戦争においてイスラエルに撃ち込まれるであろうイラクのスカッドミサイルに対する報復攻撃を行わないという米国との取り決めの見返りとして、米空軍で余剰となったF-15A/Bを25機、F-15C/D相当のアビオニクスにのせかえた上で取得し、AIM-120の運用能力も得ているという。

1994年にはPeace Fox VとしてF-15Eストライクイーグルのイスラエル仕様F-15I(ラーム)の輸出が決定された。F-15Eは極めて強力な対地攻撃能力を持つため、当初輸出には慎重であった。Peace Fox Vでは21機のF-15Iを輸入。さらにPeace Fox VIで4機のF-15Iを輸入し25機のF-15Iを1998年までに取得した。
以上。イスラエルが取得したF-15の総数はバズ及びアケフの76機とラーム25機の合わせて101機である。

これらイスラエルのイーグルの特徴は、まず日本やサウジアラビアと同様、戦術電子戦システム(TEWS)の輸出が認められていない事があげられる。AN/ALQ-119(V)ジャミングポッド、エルタAL/L-8202ジャミングポッド、及びAN/ALQ-132フレアポッドを装備し、F-15IではエリスラSPS-2110IEWSが組み込まれ、機内ジャミング発生装置を装備した。
またF-15A/B系にもFASTパックの搭載が可能なように改修を受けているのもイスラエル独自である。
さらにイーグル標準である最新のACES II射出座席ではなく旧来型であるが信頼性の高いダグラスIG-7射出座席を装備している。

【兵装&近代化改修 バズ2000】

イスラエルは兵器の生産が盛んな国である。バズ及びアケフの空対空兵装は標準のAIM-9、AIM-7、AIM-120に加え、イスラエル国産の短射程の赤外線誘導ミサイルシャフリル2(Shafrir-2)と、その後継で射程が延長しオールアスペクト発射能力を得たパイソン3(Python-3)の装備が可能だ。旧式化したシャフリル2は現在では装備されていない。

(手前の機はパイソン4とAIM-7を装備、奥の機はパイソン3とパイソン4、AIM-7を装備)
アメリカでは「1ドルたりとも空対地能力に投資するな。」と叫ばれ空対地攻撃機としての道を閉ざしたイーグルであるが、イスラエルのイーグルは空対地ミッションへの投入が想定されている。元来ファントムより優れた空対地能力を付与されている事を考えれば、さほど驚くべき事では無いが、イーグルにしては珍しい運用思想には違いない。
搭載可能兵装はMk82およびMk84の無誘導爆弾類に加え、特にアケフ(F-15C/D)は主翼下のハードポイントにMER-10N爆弾架を装備し、胴体下にデータリンクポッド(AN/AXQ-14?)を搭載することにより2000ポンドのGBU-15 TV誘導爆弾の運用が可能である。
こうした空対地へのF-15の投入は一度の敗北が国の滅亡に直結するイスラエルが独自に効率的な運用を追求した結果であろう。実際にバズやアケフがこうした兵装を装備し空対地ミッションに投入された事例も少なくない。その最も足る例がチュニス空爆であろう。後述するチュニス空爆 地中海横断2000kmを参照されたい。
が、あくまでも主任務は航空優勢の確保であり空対地攻撃は副次的である。空対地の主力はネッツ(F-16A/B)、バラク(F-16C)、バラキート(F-16D)やラーム(F-15I)のようなマルチロールファイターであり、バズやアケフが優先的に空対地任務を行う事は少ないようだ。
しかし、こうした概念はバズ2000改修の実施により意味を持たなくなってきている。

(バズ2000)
1995年にはF-15近代化改修プログラムBaz-2000(バズ2000)が開始され大幅に空対空・空対地能力が向上した。
バズ2000はバズメショパー(バズ改)とも呼ばれ、INS/GPS航法装置や機内ジャミング発生装置の装備、セントラルコンピューターの換装、アクティブレーダー誘導のAIM-120AMRAAMへの対応、広いオフボアサイトレンジを持つパイソン4(Python-4)の装備や開発中であったパイソン5(2003年ロールアウト)への対応と、それに伴うDASHヘルメットキューイングシステムの装備、また、最新の中射程AAMダービー(Derby)の装備が可能となった。ダービーはホームオンジャム(HOJ)等高いECCM能力を持つ、およそ50kmの射程を持つ最新のアクティブレーダー誘導中射程ミサイルである。機動性が極めて高く、ヘルメット照準と連動したシーカーによる発射前ロックオン(LOBL)が可能であり、オフボアサイトへの攻撃能力を持ち、目視外視程ではAIM-120AMRAAMと同様の中間アップデート誘導を用いた発射後ロックオン(LOAL)を活用することにより短〜中距離のさまざまな敵に対応することができる。AMRAAMに比較しシーカーの視程が長く、より高いスタンドオフ性を実現しているというが、2005年現在保有数はあまり多くないと見られる。なおインドへの輸出が行われておりハリアーに装備が施される。
さらにコックピットが大幅に改修され、F-15E/F-15Iストライクイーグルと殆ど同様のレイアウトを持つグラスコックピット化が行われている。

(ECMポッドとポパイを装備したバズ2000)
空対地能力に於いては大型のポパイ空対地ミサイルの装備が可能となった。ポパイは3000ポンドの重量と750ポンドの弾頭を供え、通常爆弾に換算すれば2000ポンド級爆弾にほぼ匹敵する炸薬量を誇る。射程は45km、誘導はデータリンク及びTV/IIRのスタンドオフ巡航ミサイルである。米国ではAGM-142として輸入されておりB-52に搭載されている。その他GBU-15等誘導爆弾の運用とあわせ、名実ともにマルチロールファイターと呼ぶにふさわしい作戦遂行能力を得ている。

バズ2000は1998年にロールアウトし、現在順次バズ2000適用が行われており、F-15C/Dアケフにもバズ2000改修が適用されている。イスラエルのバズやアケフは米国やわが国の航空自衛隊のようなイーグル=空対空専用という固定概念に当てはめて考えるのは相応しくないであろう。理想としては空対空・空対地専門とする戦闘機を保有できたほうが戦力面では有利であるが、イスラエルのような小国では限られた予算内で最良のコストパフォーマンスを発揮しなければならない。どちらが優れているかとは一概には言えないであろう。
なおバズ2000の写真はCFTを装着しているがF-15E/Iのような標準装備ではなく必要に応じて着脱する。

【鷲は舞い降りた。最初の交戦】

1979年6月27日、依然として中東での衝突は絶える事無く続いており、この日F-15イーグルは初めて実戦の洗礼を浴びることとなる。
レバノン南部にあるシリア軍のゲリラの拠点を攻撃するため爆装を施されたA-4及びF-4を護衛するためF-15A/Bバズとクフィルが任務についてた。これを阻止すべくシリア軍は4機編隊2グループの8機からなるMiG-21を迎撃に当たらせた。

イスラエル側は新型の早期警戒機E-2Cを保有していた。ホークアイは地中海海上で空域を監視中であり、A-4、F-4を中核としたストライクパッケージにミグが接近中である情報を与えた。
イーグルのレーダーは接近するMiG-21を捉えていたが、目視を行わない戦闘は交戦規定により禁止されており、イーグルのパイロットの一人がMiG-21である事を“ビジュアルID”で確認した。即座にバズ及びクフィルはこれを迎撃し、目視確認から僅か数秒後にはMoshe Melnik氏のバズがシャフリル2を発射。MiG-21を餌食にし、F-15は最初の撃墜を記録した。
続き4機のMiG-21がバズにより撃墜され、最後はバズの攻撃により損傷を受けた1機のMiG-21が、クフィルの発射したシャフリル2によりとどめをさされた。戦闘は僅か1-2分で6機のMiGを撃墜し終結した。いずれもシャフリル2およびAIM-9、1機はAIM-7による戦果であった。
以上が後20年に渡り100まで続くF-15イーグル最初の勝利である。なお、余談までにクフィルや間接的ではあるがE-2C最初の「交戦」でもあった。クフィルにとっても最初の勝利であり、また最後の勝利でもあった。

1979年9月24日。この日はレバノン上空を偵察飛行中であったイスラエルのRF-4E偵察機数機を攻撃すべく、シリア軍の4機編隊3グループ計12機のMiG-21が接近しつつあった(8機説も有)。
しかし、この行動はイスラエルのE-2Cホークアイ早期警戒機により全て監視されており、即座に戦闘空中哨戒(CAP)中であったF-15バズに迎撃管制が下された。増槽を投下しアフターバーナー出力で迎撃にあたり、MiG-21とF-15による二度目の交戦が行われたが、シャフリル2とAIM-9により5機のMiG-21が撃墜され、戦闘は1-2分で終結した。
シリア側は4機のMiG-21の損失があったが、2機のF-15を撃墜したと主張している。しかしこの日交戦したバズに損害は無かった。

1980年には8月24日にMiG-21を1機撃墜し、12月31日にはレバノン南部への爆撃任務を行ったA-4/F-4に対し攻撃を仕掛けてきた4機のMiG-21を迎撃。バズにより3機を撃墜、F-4Eクルナスにより1機を撃墜し編隊を全滅させた。

1981年2月13日、RF-4に対し攻撃を行おうと接近したMiG-25フォックスバットは、山陰に隠れていたバズの奇襲を受けた。バズはAIM-7スパローを発射。MiG-25はこの時になってようやくバズの存在に気がついたが有効な回避手段を実施するには遅すぎた。バズはこれを撃墜し、F-15のAIM-7による初の撃墜であり、MiG-25にとっては最初の被撃墜を記録した。
1981年7月29日には再びRF-4を攻撃しようとしたMiG-25をAIM-7で撃墜した。なお、この交戦には異説がある。撃墜されたF-15イーグルにて解説する。

元来F-15最大の仮想敵であったのはMiG-25である。狐蝙蝠を撃墜した事により鷲の存在意義は大きく向上した。

【レバノン戦争 ベッカー高原SAM撃滅作戦】

1948年イスラエル独立戦争(第一次中東戦争)と同時に2000年間居住していた土地を奪われたパレスチナ人の組織、パレスチナ解放機構(PLO)はイスラエルの隣国レバノンの首都ベイルートに本拠をもち、1970年代後半からイスラエルに対し度々ゲリラ活動を展開していた。時にイスラエルに決死隊を送り込み100人あまりを殺傷するような苛烈なものや、イスラエルと国境を接するレバノン南部から、ソ連製カチューシャロケットを国境を越えて撃ち込む等大規模な攻撃に至るまで散発的に繰り返していた。そのたびにベイルートや南レバノンのパレスチナゲリラ根拠地に対し爆撃が行われるなど日常茶飯事であった。おそらくF-15の空対地初任務はこうした報復爆撃の1回であったであろう。

1982年、イスラエルの国防相アリエル・シャロン(後首相)は、PLOゲリラが即時にテロ行為を止めなければレバノンに侵攻し、武力によるPLOゲリラの一掃を行うと宣言する。
そして同1982年の6月4日、駐英イスラエル大使がパレスチナ人に狙撃され重症を負うテロ事件が発生した。PLOは関与を否定し、イスラエル側もモサドの調査によりパレスチナ人の単独犯でありPLOは関知していない事を知るが、この事件を口実にしない理由は無く、加熱する世論も味方であった。
かくして1982年6月6日、イスラエルの機甲師団はレバノンに侵攻し“ガリラヤの平和作戦”が開始された。
イスラエルの戦略目的は3つ、内戦で無政府状態であるレバノンに駐留するシリア軍を蹴散らし、親イスラエルのマロン派キリスト教政権を樹立させる事。PLO議長アラファトを含む主要人物の抹殺。PLOの残党から本土を守るためレバノン南部に緩衝地帯を設ける事である。レバノンの面積は10,452km2で岐阜県程度の国土である。レバノンを踏み潰すことなどイスラエルにとって造作も無い事であった。

まず、F-15の空対空戦闘に入る前に、F-15も投入されレバノン侵攻で大きな成果をあげたベッカー高原におけるSAM狩りについて触れておこう。
シリアはヨムキプール戦争後からレバノンと国境を接する西部のベッカー高原の平野部に多数の地対空ミサイル陣地を構築していた。具体的にSA-2 2個高射隊、SA-3 2個高射隊、そしてヨムキプール戦争でイスラエルが多大な損害を受けたSA-6、および最新のSA-8を装備する15個高射隊の合計19個高射隊、それぞれの高射隊の近接防御を行うZSU-23-4対空機関砲等により、即時にミサイル200発が発射可能という完全な防空体制を整えつつあった。ベッカー高原など濃尾平野の広さほども無い高地である。その火力の濃密さは半端ではなかった。

イスラエルはレバノン侵攻の1年以上前からベッカー高原に無人偵察機を頻繁に飛ばし、シリア側のSAMのレーダーを起動させる事により、SAMサイトの位置や使用周波数を調査し(SIGINT)、効率的な攻撃と妨害を行う戦術を研究しつづけていた。
その結果、シリア軍のSAMサイトは開戦前から位置を暴露されていた。イスラエル軍は陸空戦力を有機的に活用し、地上軍の間接砲撃と、F-4Eが搭載するAGM-45シュライク対レーダーミサイルやF-16が搭載するAGM-65マベリック等誘導兵器で損害を与え、さらにA-4やF-15が搭載するクラスター/通常無誘導爆弾などを使用した徹底した航空攻撃により各個SAMサイトを潰していった。
完全なはずの地対空ミサイル防空網は囮ドローンやEC-707電子戦機のジャミング、チャフ・フレアといった手段によって妨害され、地位対空ミサイルはただの「打ち上げ花火」に過ぎなくなっていた。結果、たったの1日で19個高射隊は完膚なきまでに破壊され、イスラエルの発表では空軍機の損害はゼロであった(実際は攻撃に参加したF-4,F-15,F-16,A-4の数機が撃墜されているのではないかという説があるが、定かではない)。
このSAM撃滅作戦に於いて最も仰天したのはイスラエルでもシリアでもなくソビエト連邦であった。最新の防空火器が全く役に立たなかったのだから、イスラエルがどのような戦術を採用したのか、やっきになって調査が行われた。
ベッカー高原はなだらかな山こそあるが遮蔽物の極めて少ない荒れた土地である。安易に情報を垂れ流し自らの情報を暴露し情報戦に敗れた者の末路であった。

【レバノン戦争 ベッカー高原航空戦】

続き、レバノン侵攻におけるイスラエル軍の航空優勢確保であるが、クフィル、F-4Eクルナスといった従来の旧式機に加え、最新戦闘機F-15ABCDバズ/アケフ及びF-16ABネッツが投入され、E-2C早期警戒機とあわせ大規模航空戦における真価が問われることとなる。
また、限定的に使用されていたオールアスペクト発射能力を持つ短射程ミサイルAIM-9Lサイドワインダー、同様にイスラエル国産のラファエル社製のオールアスペクト発射能力を持つパイソン3新型短射程ミサイルが実戦投入された。まさに最新兵器の実験の場である。
対するシリアはF-15と同世代のMiG-25は偵察や一部戦闘など限定的な使用に留まる温存策を図り、主力はMiG-23やMiG-21であった。また、攻撃機としてSu-7/17/22等のフィッター系が使われた…と言いたいところだが、結果を先に言ってしまえば航空優勢が完全に奪われた状況の中フィッターの活躍の場所などありもしなかった。ともかくシリアは自慢の地対空ミサイルは完全に破壊されてしまった今、戦闘機において劣り、警戒管制において劣り、イスラエルに対しアドバンテージを持てるものは何一つなかったのだ。

最大規模の空中戦は開戦から二日後の6月8〜11日の間に行われた。この4日間で1000ソーティーもの航空機が出撃した。空中戦の殆どはレバノンに侵攻するイスラエル軍を攻撃するためシリアから発進した戦闘機や攻撃機をイスラエル軍機がベッカー高原上空で迎撃するといったパターンが殆どであった。
特に9日の空中戦は最大規模のものであり、航空優勢戦闘機だけで両軍合わせて150ソーティーもの戦闘機が出撃し、朝から夕方まで戦闘が絶える事が無かった。結果はF-15及びF-16がそれぞれ11機/10機のMiG-21,23を撃墜し、レバノン戦争最大の撃墜数を記録している。なおイスラエル軍機による損害は無かった。
翌10日にはF-15Dアケフのクルーが一回の交戦でAIM-7Fを使用し2機のMiG-23を、さらに短射程AAMでMiG-21の合計3機を落とすという大戦果を挙げた。

戦後すぐにはイスラエル軍は100機のシリア機を撃墜し空対空での損害は無かったと発表していたが、より最新のデータではF-16ネッツが44機を撃墜し、F-15バズ・アケフは40機を撃墜、F-4Eクルナスにより1機の合計でMiG-21,23,25,Su-7/17/22,ガゼルを85機撃墜し、イスラエル側の損害は6月11日に事故により失われたとされていたF-4Eが被撃墜による可能性があると認めた。
ヨムキプール戦争終結から9年。F-15、F-16、E-2Cと新型の戦闘機や警戒機配備した結果、キルレシオは20:1から85:1へ、実に4倍以上にも跳ね上がり、完全な勝利を収めることによりF-15及びF-16、E-2Cは圧倒的に高い評価を得た。
離陸と同時に存在を探知する圧倒的情報格差と最新戦闘機の性能差の前ではイスラエルが負ける理由などどこにも無かったのである。

機体に記された撃墜マークははったりの類ではない。

なお本紛争は最終的にイスラエル軍は南レバノンを占拠、首都ベイルートに到達した。PLOのアラファト議長ら幹部はチュニジアに亡命し、ほぼ当初の作戦目標は達成する。そしてイスラエルは2000年に完全撤退するまで南レバノンを占領し続け、2005年4月には30年間駐留していたシリア軍はついにレバノンから撤退した。しかしレバノンを巡る泥沼はいまだに続いている。

レバノン侵攻やや前の1979年、4次にわたる中東戦争で「アラブの盟主」として常に主力であったエジプトは、イスラエルとの平和条約を締結した。翌年1980年にはイスラエル・エジプト間で国交が樹立し、1982年にはシナイ半島からのイスラエル軍の撤退・エジプトへの返還が行われ、南イスラエルの戦いは一応の決着を見た。
アラブ側の戦力の低下に反比例するかのごとく強大化を続けるイスラエルに対抗できる国は無くなった。レバノン侵攻後、現在に至るまでイスラエルに起因する大規模な戦争は無くなり、PLOのゲリラ活動やそれに対抗する報復空爆や侵攻が散発的に行われる程度となった。
それでもシリアとの空中戦は稀に行われており、1982年以降、1985年にはアケフによりMiG-23を二機撃墜、1989年にはF-15よりも新しい世代の戦闘機MiG-29を撃墜するなど、いまだに無損害撃墜記録を伸ばし続けている。確認された最後の撃墜は2001年9月14日で、2機のMiG-29を撃墜し現在(2005年)に至る。
空中戦の頻度こそ減ったもののイーグルが地上攻撃に投入される場合も少なく無く、けっして平和が訪れたわけではない。現在シリアではSu-27などさらに強力な戦闘機、SA-10グランブルなどの最新の地対空ミサイルを保有している。こうした戦闘機や地対空ミサイルと交戦する日も遠くない未来の事かもしれない。

【オシラクの日 バビロン作戦】

レバノン侵攻からやや時間を遡り1981年になるが、イスラエルはイラク首都バグダッドにおいてフランスの技術供与を受けて建造中であったオシラク原子力発電所を空爆で破壊する作戦計画を立案した。
オシラク原発は名目上「平和利用」の発電所所ではあるが、生成されたプルトニウムをイラクが保有し、核兵器開発につながるであろう事をイスラエルは警戒した。イラクはイスラエルの敵対国である。核武装だけはなんとしても阻止しなければならなかった。
オシラク原子炉破壊作戦は「バビロン」と名づけられ、任務に当たるのはそれぞれ2発ずつのMk84 2000ポンド爆弾を搭載したF-16A/Bネッツが8機。その護衛にあたる6機のF-15A/Bバズと決定され、参加するパイロットに対し18ヶ月間もの徹底的な訓練が施されていた。

1981年6月7日1500時。バビロン作戦は決行された。イスラエルとイラクは隣接国ではない。バグダッドに向け飛行するにはヨルダン・サウジアラビア・シリアいずれかの領土上空を通過する必要があった。当然無許可で侵入して防空網に探知されれば迎撃を受けてしまう。イラクの原子炉を爆撃に行きますなどと通達しても、当たり前であるが許可されるわけがなく、アマンやモサドが情報収集した防空網の隙を突くべく緻密な航路計画が立てられた。
南イスラエルの、かの対艦ミサイル事件で有名な駆逐艦の名前となった町、エイラートの西近郊に位置するシナイ半島のエチオン基地(現エジプト領)を発進した攻撃隊は紅海アカバ湾に出、サウジアラビアの領空を地形追随飛行しバグダッドへ飛んだが、地形追随飛行を行っているにも関わらず途中でレーダーに探知されてしまった。
攻撃隊に対し所属を問いただす無線が入った。
攻撃隊のパイロットは自分達が旅客機であるとアラビア語で返答した。パイロットにはアラビア語教育が施されていたのである。密集編隊でレーダー上では単機に見えていた事もありサウジアラビアのレーダーサイトの管制官は見事に騙されてしまった。ただしこれには異説がありヨルダン空軍所属機であると返答したとの話もある。

それ以外の無線通信は東経38度、東経40度、東経42度のウェイポイントを通過するごとにそれぞれ「Charley:チャーリー」、「Zebra:ゼブラ」、「Sand dune yellow:サンドデューンイエロー」の符号を送信し進行状況の報告を行う以外完全な封鎖状況にあった。

無事にイラク領空に達しバグダッドに接近すると、先導していた6機のバズはそれぞれ2機ずつに分かれ、それぞれバグダッド近郊のイラク軍主要航空基地上空25000ftでCAPに入った。ネッツはこのままオシラク原発に対し攻撃を加えるべく低空飛行を続け、バズがCAPに入るとほぼ同時期にF-16は目標攻撃イニシャルポイントに到達し、8機は四波にわたる波状攻撃編隊となり5000ftまで上昇。レベルオフする間もなく目標を補足し緩降下爆撃に入り次々と爆弾を投下した。1635時に最初の2発のMk84が原子炉に着弾した。それからおよそ2分間で16発のMk84は全弾が投下され、うち15発が原子炉に命中し完全に破壊された。
バグダッドにはゲインフルやシルカなどの対空火器が数多く配備されていたが、わずかな反撃以外、攻撃に転じる事は出来ず、イラクにとって刹那の出来事で爆撃は完了した。迎撃の戦闘機を発進させる機会も無かったためF-15バズがこの作戦において交戦することは無かった。仮に交戦していたとしても高度を十分に取っていたF-15に対し、離陸直後のMiGが太刀打ちできたとは到底思えず、無駄であっただろう。

攻撃終了後、バズとネッツは往路で非効率な地形追随飛行を行った航続距離の損失を補うため33000ftに上昇。再びサウジアラビアの領空を侵犯。さらにヨルダンの領空を真っ直ぐに突っ切り全機が無事に帰還した。
バビロン作戦は成功裏に終わり、イラクはもちろん、領空を侵犯されたサウジアラビアやヨルダン、そして原子炉への攻撃という行為に、イスラエルに対し世界中から非難の声があがった。作戦に使用されたF-15やF-16を供給しているアメリカなどは一時イスラエルに対する武器禁輸措置を取っている。
しかし、このオシラク原発攻撃が無ければイラクは確実に核武装を行っていたであろうと見解も強く、フセインの最大のオプションを潰したと評価する向きもある。イラクはついにフセイン政権が崩壊するまで、核兵器を完成することができなかった。

なおオシラクに関連し、2005年現在イランの核兵器開発疑惑が世界で取り沙汰されている。
同国は1500km〜2000kmの射程を持つシャハブ3をはじめとした幾つかの核兵器運搬手段を保持し、数十年に渡り対立するイスラエルは大きな脅威を感じている。
これに対しイスラエルのシャロン首相は2004年に“オシラクの日再び”もあり得る旨の発言をしている。
そのような情勢の中、2005年3月には原子炉に対する攻撃訓練が行われていると報道され、さらには4月に米国がイスラエルにGBU-28ディープスロート 4700ポンドレーザー誘導爆弾、いわゆるバンカーバスターを100発輸出するというニュースが報道された。
ほぼ同時期にシャロン首相は「イランに対する攻撃は計画していない」と発表しているが、決して“オシラクの日再び”を否定するものではなく、明らかにイランの核開発に対する意思表示である。
イラン側もイスラエルが自国原子炉へ攻撃を行えばイスラエルに対し壊滅的報復を行うと宣言している。

GBU-28のような大型の爆弾となると装備機は無論F-15Iラームである。今後のイランの核開発次第では再びイーグルが原子炉への攻撃、次は主力攻撃機として投入される可能性は決して少なくは無い。

【チュニス空爆 地中海横断2000km】

1985年9月25日。キプロスのラナルカで3人のイスラエル人がPLO主流派フォース17と思われる集団の襲撃を受け殺害された。PLOは事件への関与を否定したがイスラエルは即座に報復爆撃を行うべく目標の選定を行い、チュニスのPLO本部への攻撃が決定された。先のレバノン侵攻でPLO本拠はレバノン首都ベイルートからチュニジア首都チュニスへ移転していた。チュニスはイスラエルから実に2000km以上もの距離である。このような長大な侵攻作戦を行うには航続距離を持つF-15以外に選択肢はなかった。

作戦に参加するイーグルは10機で、うち8機が通常攻撃任務の爆装を行い、2機は予備機としての任務を負った。
そして10月1日0700時、10機のイーグルはチュニスへ向けて離陸した。エジプトとリビアの防空網にかからぬよう地中海上空を飛行し、離陸から3時間後の1000時、イオニア海上空で待機していたボーイングB707タンカーとランデブーし空中給油を実施し、攻撃機8機がチュニスに向かい予備機2機はタンカーとともにイスラエルへ帰還した。
8機のイーグルはチュニスの領空を無許可で侵犯するが、チュニジア空軍にイーグルを迎撃できる力など持ち合わせていなかった。抵抗を受ける事無く攻撃隊は2機ずつ4波の波状攻撃をPLO本部に対し加えた。結果PLO本部は徹底的に破壊され、60人以上のPLO要員が殺害され、70人が重軽傷を負った。この間全くの対空砲火も受けなかった。帰還中に2度目の空中給油を受け、1400時頃に8機のイーグルはイスラエルに帰還し全飛行距離4000km以上という、F-15のコンバットレンジの限界を超える任務を成功裏に終えた。

【イーグル無敵神話は嘘か?MiG-21 MiG-23 MiG-25】

公式記録においてはF-15は100を超える勝利と自身の損失は皆無(米国・サウジアラビアを含む)。すなわち空では無敵の存在である事になっている。しかし、相手国側から見ればF-15は空で敗北を受けているのだ。
上記に掲載したイスラエルの戦いは、全てイスラエルの主張が正論である事を前提に進めた。本項では趣向を変えイーグルと敵対した国。シリアの視点から、「イーグル」を落としたという情報を掲載したい。殆どが確定的な情報ではなく、得た情報から多分に自分の考察も含んでいることを先に明記しておく。

1.MiG-21bis(MF?)フィッシュベッドの場合
まず最初に紹介したいのは「噂」といった類ではなく「事実」の事例である。
F-15が最初の実戦を経験した1979年から1982年の間。恐らくは1982年6月8日-11日のレバノン戦争、ベッカー高原上空戦と思われるが、MiG-21はF-15にミサイルを命中させている。我々は後世の人間であるから「まさかMiG-21が―」という感は拭えないが、これはイスラエルも認めている確実情報である。
ベッカー高原上空戦項でも述べたが、レバノンという国は、それこそF-15のレーダー1つで全域が走査できてしまうようなきわめて小さい国だ。そこにイスラエル軍・シリア軍ともに数十機、100を優に超える数の戦闘機・攻撃機が繰り出されていたのだからその過密度は推して知る所である。

1970年代当時、一対一の空中戦に於いてはイーグルにかなう戦闘機など存在しなかった。殆どの場合で勝利する絶対的存在であったと言っても過言では無い。しかし、そのイーグルも米国での演習にてアグレッサーのF-5タイガーと6対6の戦闘を行うと、優位性は一気に落ちキルレシオは2対1にまで低下したという。つまり、一対一でどんな優秀な戦闘機であっても、混戦になればなるほどその優位性は危うくなるのである。
それがベッカー高原ではさらに混沌としたレベルで再現されていたのだから、F-5によく似たMiG-21のミサイルを喰らい、被弾してもなんらおかしくは無く、事実こうした混戦のうちにイーグルは被弾したらしい。
MiG-21が発射したミサイルは比較的最新の短射程ミサイルR-60M(AA-8エイフィッド)であった。R-60MはイーグルのF100-PW-100エンジンを一基食いちぎる大ダメージを与えた。しかしイーグルはチタン製のキールを持ち、片方のエンジン被弾がもう片方のエンジンに影響を与えるような事が可能な限り無いよう高い生存性(survivability)を得られるように設計されているので、被弾したイーグルは片肺で無事にイスラエルの基地に戻った事が伝えられている。
イスラエルが認めている空対空戦闘におけるイーグル唯一の「被弾」である。この被弾したF-15が廃棄されたのか、修理を受け復旧されたのかは不明。致命傷を負わせる事は出来なかったが、廃棄されていたのならば撃墜したことほぼ同義である。

本件とは別であるがイスラエルのF-15は訓練中にA-4スカイホークと衝突し右翼が完全に失われたにもかかわらず操縦を続け基地まで誘導し、通常の2倍以上のアプローチ速度で着陸し見事に基地に帰還している。F-15は2重の油圧系統を持っているが、間違いなく片方の油圧は吹き飛んでいるだろう。イーグルはフライバイワイヤと同原理のCAS操縦システムを持ち、ある程度自動的に操縦補正が行われるが、最終的にはイスラエルのパイロットの不屈の精神力と技量の賜物である。まさに賞賛に値する。

このイーグルは修復が行われ作戦機として再就役したと言われている(定かではない)。ちなみに衝突したA-4は墜落した。

2.MiG-23MLDフロッガーの場合
上記とほぼ、同じようなシーンでMiG-23フロッガーシリーズの最終型、チャフ・フレアディスペンサーを搭載したMiG-23MLDが「おそらくF-15らしき」戦闘機にR-23R/T(AA-7エイペックス…セミアクティブ誘導・IR誘導)を命中させ、パイロットが脱出したとシリア側は主張している。他にもシリアが主張する撃墜戦果は多いのだが、これは後年認めた6月11日に被撃墜されたF-4Eクルナスの事なのかもしれない。
イスラエルにより当初レバノン侵攻での空中戦結果は100:0という数字が発表されていた。しかし、後にイスラエルはF-4Eクルナスが空対空戦闘において1機を失った事を認めており、そのキルレシオは85:1に修正された。
シリアはイーグルの他にもMiG-23によりF-16A/Bを3機、F-4Eを4機、E-2Cを1機撃墜したと主張しているが、イスラエルが認めているのはすぐ前にも書いたとおりF-4Eクルナスだけである。

3.MiG-25PDFフォックスバットの場合
F-15を撃墜したという説で最も有力といわれている戦闘機がMiG-25フォックスバットである。レバノン戦争後1981年7月29日の2回目のイーグルとフォックスバットの交戦であると思われる。
まず、2機のF-15Cアケフが2機のMiG-21編隊に噛み付いた。実はMiG-21は囮であり、アケフをおびき出し山陰を利用しE-2C早期警戒機から機体を隠蔽していた2機のMiG-25が正面および側面からアケフに襲い掛かった。
MiG-25が攻撃に手間取っているうちにアケフの先制攻撃を受け1機のMiG-25がAIM-7Fスパローにより返り討ちに合い撃墜されてしまったが、もう1機のMiG-25は約40kmの距離でR-40(AA-6アグリッド)を発射。おそらく赤外線誘導タイプのR-40Tとセミアクティブレーダー誘導タイプのR-40Rを1発ずつと思われるが、2発ともがF-15に命中した。F-15のパイロットがベイルアウトするのを確認し、撃墜は確実であるらしい。
しかし、距離40Kmというと殆どR-40の最大射程に匹敵する。空対空ミサイルは発射距離が長いほど命中率は低下し、相手が戦闘機である場合、最大射程付近になると殆ど命中は期待できない。
くどいようだがイスラエルは被撃墜を認めておらず、この交戦において損害は無かったとしている。

以上の例に限らず撃墜戦果とは両国の戦果発表と損害発表は常に異なるものである。イスラエル側はシリアの過大戦果だと評し、シリア側はイスラエルの過大戦果だと評する。
仮にイーグルの損害がなかったというイスラエルの主張を信じたとしても、イスラエルのイーグルが記録した50を超える撃墜のうち、実際に無かったものも少なからず存在するだろう。
撃墜が真実であったか虚構であったかは最終的には当事国や当事者たちでも判断することはできない闇の中である。イーグルは何度か被撃墜は無かったと書いたが、それを信じるか異であるとするかは個人の判断で行って欲しい。


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■PICTURE

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F-15イーグル サウジアラビア王室空軍(RSAF)

サウジアラビア王室空軍(RSAF)

■アメリカ合衆国空軍(USAF)/州兵空軍(ANG)

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【ピースサン サウジアラビアのイーグル】



Royal Saudi Air Force(RSAF)サウジアラビア王室空軍は数少ないF-15配備国の一つであり、同国へのF-15イーグル有償軍事援助(FMS)計画はPeace Sun(ピースサン)と呼ばれる。

34機が調達された英国BAeライトニングの後継機として1970年代後半より次期戦闘機の選定作業が始まり、対抗馬であったシュペルミラージュ4000との審査が行われ、その結果47機のF-15CおよびF-15Dの調達契約が結ばれた。生産はすべてマクダネルダグラスによって行われ、1980年に最初の“Peace Sun I”イーグルがFMS経由でサウジアラビアに引き渡された。1981年8月には初期作戦能力を獲得し、サウジアラビアの防空の任務に着いた。
なお、サウジアラビアへのイーグルの輸出に関してイスラエルと米国内のユダヤ人ロビイストによる抗議行動が行われており、輸出の条件として今後サウジアラビアが追加発注を希望しても60機までに制限する事が決まった。60機の制限はすぐに緩和され最終的には62機のF-15C/Dが調達されたが、コンフォーマルタンク(FASTパック)の輸出に数的な制限が設けられた。

1991年には湾岸危機において自国内の航空基地を提供する見返りとしてF-15Eストライクイーグルの購入を希望したが、米国は極めて強力な対地攻撃能力を持つ同機の輸出にはイスラエルやユダヤ人勢力の配慮の面から消極的であった。米国はほとんどF-15C同等まで大幅に空対地性能を制限したF-15XPの輸出が提案したがサウジアラビアは拒否。
サウジアラビアは代替案として構想されていた単座のストライクイーグルF-15Fを希望するが、最終的にはF-15Eの対地攻撃能力を縮小したF-15Sの輸出が1993年に認められた。“Peace Sun IX”である。なお、全機がコンフォーマルタンクを装備している。
F-15SはAN/APG-70レーダーは合成開口レーダーモードを持たず、LANTIRNもオリジナルのAN/AAQ-13 AN/AAQ-14 からダウングレードが施されたAN/AAQ-19ターゲティングポッド及びAN/AAQ-20ナビゲーションポッドを装備し、空対地能力が大きく削減されているが、2000ポンド級のGBU-15 TV誘導爆弾の輸出も同時に行われ他のマルチロール機以上の精密攻撃能力は持っている。
1995年に最初のF-15Sが引き渡され、1999年までに72機が生産さ、サウジアラビアへのイーグル輸出の総数は134機に達した。
サウジアラビアはE-3セントリーAWACSも保有しており、イスラエルと並ぶ中東の最高の空軍であることに疑いの余地は無い。

【F-4ファントムとの交戦〜湾岸戦争】

サウジアラビア王室空軍の保有するイーグルの最初の戦果は1984年6月5日である。
サウジアラビアとイランによる地下資源をめぐる紛争において、イランは2機のF-4EファントムIIを出撃させ牽制を行った。これに対しサウジアラビア王室空軍は2機のF-15D及びF-15Cを迎撃にまわし、マクダネルダグラス製戦闘機同士の珍しい戦闘が行われた。結果は言うまでもなくF-15C/Dの勝利に終わり、AIM-7FスパローによりF-4Eを2機撃墜した。

続き1990年-91年の湾岸危機においては多国籍軍の一員として王室空軍のF-15Cは戦闘空中哨戒を実施した。
1991年1月17日、イラク軍をクウェートから撤退させるべく砂漠の嵐作戦が発動。7月19日、早期警戒機の指示を受けた王室空軍のイーグルはペルシャ湾海岸線を飛行する2機ミラージュF1(おそらくエグゾセを搭載した空対艦任務機)と交戦。
被発見を避けるため自らはレーダー波を発することなく警戒機の誘導をうけミラージュF1の右翼側方、低高度から奇襲し、ミラージュF1が防御に入る前にAIM-9Lサイドワインダーにより2機を撃墜した。湾岸戦争に於ける、アメリカ軍以外で唯一の空対空撃墜記録であった。

湾岸戦争については合衆国空軍(USAF)/州兵空軍(ANG)項でさらに記述する。


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F-15イーグル アメリカ合衆国空軍(USAF)/州兵空軍(ANG)

合衆国空軍(USAF)/州兵空軍(ANG)

■アメリカ合衆国空軍(USAF)/州兵空軍(ANG)

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【湾岸戦争 砂漠の盾作戦 -Rapid Global Mobility-】

1990年8月2日午前2時、イラクは三個機甲師団を先頭に隣国クウェートに侵攻した。
首都クウェート市は侵攻からたったの4時間で陥落し、イラクはクウェートを完全に占領した。「湾岸危機」の始まりである。
8月6日、勢いに乗じたイラク軍はサウジアラビア国境に機甲師団を展開し、サウジアラビアへの侵攻は時間の問題かと思われた。
米国政府はイラクが勢いに乗りサウジアラビアに侵攻すること(つまり石油を奪われる)を大いに恐れていた。同日サウジアラビア国王ファハド・ビン・アブドルア・ジーズ・アル・サウード(Fahd Bin Abdul Aziz Al Saud)は米国及び友好国に派兵を要求した。アメリカのブッシュ大統領はこれに即座に呼応。兵力の派遣を約束し、翌々日の8月8日午後には最初の戦闘部隊が到着した。

その最初の戦闘部隊こそが第1戦術戦闘航空団第71戦術戦闘飛行隊(1TFW 71TFS)所属の24機のF-15Cイーグルである。前日の8月7日午後5時25分(米国東海岸時)から米国バージニア州ラングレー基地を順次発進していた。
イラク軍機との接触に備えAIM-7及びAIM-9の完全武装が施されたF-15Cは大西洋〜地中海を横断し12,800kmを無着陸で飛行した。地球の裏側への戦術戦闘機としては異例の長距離即時展開であり、飛行時間は実に15時間、空中給油を12回要したという。12,800kmという数値はB747-400ジャンボジェットの航続距離と同等である。
パイロットには到着後休息が与えられ、翌日にはイラク国境付近における戦闘空中哨戒の実働体制に入った。
展開命令から受けてから36時間も経過しておらず、アメリカ軍の高いラピッドグローバルモビリティ(Rapid Global Mobility)、すなわち全世界規模の即時展開を実証した。
F-15C 空中給油
(1990年イラク国境近くで戦闘空中哨戒中に給油を行う第1戦術戦闘航空団のF-15C。1度の任務で4-5時間飛行することなどざらであった。)

続き、航空戦力に限ればイギリスのトーネードやジャギュア、バッカニア、米海軍の空母艦隊、米空軍のF-16Cファイティングファルコンそして初期作戦能力獲得から1年半程度であった最新のF-15Eストライクイーグル、F-111アードバーク、F-117ナイトホーク等が続いて展開し、その他早期警戒機や偵察機、給油機などを合わせると1,200機以上が1ヶ月のうちにサウジアラビアに終結した。
同時に航空機以外の実働部隊や兵站維持のため航空・海上輸送が行われていたが、ここではイーグルの範疇外なので軽く触れるにとどめるが「航空機や輸送船の上を歩いて大西洋を渡れる」と形容されるほどの史上最大規模の輸送作戦であった。
3ヵ月後の11月29日には国際連合において翌91年1月15日をクウェートからイラク軍の撤退期限とした武力行使容認を決議(安保理決議678)。「湾岸戦争」への道は着々と進みつつあった。
こうしたサウジアラビアへの兵站の確保・部隊の配備を砂漠の盾作戦と呼称していた。砂漠の盾期間を通じアメリカ、及びサウジアラビアのF-15は24時間絶えず戦闘空中哨戒を行い、サウジアラビア領空の防衛に当たっていた。


(1990年砂漠の盾作戦においてサウジアラビアの基地に駐機されている第1戦術戦闘航空団のF-15。後方には即時発射体制で展開するMIM-104ペトリオットのレーダー車やランチャーが見受けられ、警戒度の高さを知ることができる。)


【湾岸戦争 嵐の始まり - Information Superiority -】

イラク軍は1991年1月15日の撤退期限を無視した。もはや開戦は避けられない状況下にあった。
イラク軍の主力作戦機は殲撃6型(中国のMiG-19)を40機、MiG-21を150機、殲撃7型(中国のMiG-21)を30機、MiG-23を90機、MiG-25を30機、ミラージュF1を90機、そして最新鋭機MiG-29を30機保有していた。その他攻撃機類をあわせると600機にも達する極めて大規模な空軍であり、イラクにとって最も屈辱的であったイスラエルによるバビロン作戦の戦訓から防空網は大幅に強化され、1980年代からフランスの技術を導入して構築された“カリ”管制・指揮システムは最新鋭のものであった。

1991年1月17日、ついに「砂漠の嵐」は到来した。アメリカ軍及びサウジアラビア軍のF-15Cイーグルのパイロットに課せられた任務はイラク軍機を空から追い落とす事。エアスペリオリティ(Air Superiority)、即ち航空優勢の確保である。米国にとってはおよそ20年前のベトナム以来の大規模航空作戦であり、F-15イーグルとそしてその指揮をとるE-3セントリーAWACSの真価が試される戦いである。
イーグル最初の勝利はすぐに訪れた。17日午前3時20分頃、イラク領内の目標を攻撃するF-111F、B-52H、F-15E、F-4GからなるストライクパッケージをSteven W Tate大尉(スティーブ・W・テイト)がリーダーを務める4機のF-15Cが護衛を行っていたところ、セントリーから通信が入った。

「東から7200ftでボギー接近、後方につかれる。警戒しろ。」

リーダーのテイト大尉とウィングマンは落下タンクを切り離し右旋回で不明機と正対した。IFF質問波に対する応答は無く、レーダーのNCTRによりミラージュF1と識別された(自分の推定。RWRの可能性も)。間違い無く敵機である。

「FOX-ONE!」

およそ相対距離12nmでAIM-7Fスパローを発射した。セミアクティブ誘導であるからイーグルはミラージュF1をロックオンし続けなくてはならない。数秒後、相対距離4nmで夜空に火の玉が浮かび上がりミラージュF1と思われる不明機は完全に破壊され落ちていった。
大尉は米空軍のイーグルドライバーで最初の、かつ湾岸戦争で最初の撃墜を記録するという名誉を得た。
開戦の初日、テイト大尉の撃墜を含み3機のミラージュF1と3機のMiG-29が撃墜された。なお、MiG-29を撃墜したCHARLES MAGILL大尉(チャールズ・マギル)は海兵隊との交換パイロットで一時的に空軍に所属していた元F/A-18乗りだった。

イラク空軍は開戦から数日は戦闘機を飛ばし多国籍軍に対抗していたが、全く歯が立たないことが分かると、次第に多数が建造されたシェルターに航空機を隠しイラクは戦後に備えた戦闘機の温存策に出た。ユーゴスラビアの技術供与により建造されたこの強化ハンガーは2000ポンド級の通常爆弾に耐えうるとされていた。しかし、そうした努力はF-111やF-15Eが装備したBLU-109/B 2000ポンド貫通弾頭を備えたGBU-24A、およびF-117の同貫通弾頭を持つGBU-27Aによりいともたやすく貫かれてしまっていた。
地上での温存策がかなわないとなると、隣国イランに戦闘機を飛ばし始めた。空爆を受ける可能性の無いイランに終戦まで預かってもらおうという考えである。
だが、エアスペリオリティ、空の支配は完全に多国籍軍が握っていた。2月6日〜7日にはSu-25やSu-22等攻撃機は非武装の状態でイーグルに襲われるなど、一切の自衛手段をもたない攻撃機はまさに一方的に狩れるハンティングそのものであった。

イスラエルにより、イーグルは既に無敗で50を超える勝利を得ていた。しかし湾岸戦争ではイスラエルによる戦闘とは違う、大きな意味があった。
イスラエル空軍は全ての戦闘において「視認」を義務付ける交戦規定が定められていたのに対し、湾岸戦争の交戦規定ではIFF(敵味方識別装置)による判別のみでよかった。すなわちAIM-7を多用した目視外距離戦闘という別次元の戦闘が行われ、F-15の目視外距離戦闘能力が試されていたのだ。
湾岸戦争における最後の撃墜は1991年3月22日にピタラスPC-9練習機のマニューバーキルであり、F-15により38のイラク軍機が撃墜され、そのうち実に63%の24機はAIM-7スパローによる撃墜であった。
殆どの戦闘がAWACSに支えられたインフォメーションスペリオリティ(Information Superiority)、情報優勢によりF-15が先手を取る事により勝負が決し、およそ15km-25kmの相対距離でAIM-7Fを発射し標的まで数キロに接近した時点で撃墜を記録していた。湾岸戦争において71発のスパローが発射されうち67発はF-15が発射した。
湾岸戦争末期には、開発が遅れていたAIM-120A AMRAAMがサウジアラビアへ送られ、F-15Cに装備され実際に戦闘空中哨戒任務に用いられたが、イラク空軍機は殆ど飛んでない状況であり、発射は行われなかった。

撃墜数26%を占める10機は短射程のAIM-9Lサイドワインダーによる撃墜であったが、殆ど攻撃機や、イランに逃亡するSu-22フィッターやSu-25フロッグフットに対し使用され、互いに背後を取り合うドッグファイトはついに一度も起らなかった。
湾岸戦争における空対空における多国籍軍の損失はMiG-25に撃墜されたF/A-18ホーネット1機のみであった。
1991年2月28日、砂漠の嵐作戦が終結し3月3日には停戦協定が結ばれ、一応の決着がついた。
しかしイラクの火種は始まったばかりであった。その後も10年以上に渡り米軍によるイラクに対する軍事作戦は途切れる事なく続く事となる。
なお、イランに逃げ込んだイラク空軍は、ついにフセイン政権が倒れるまで戦闘機を完全に返還されることはなかった。イランは一部を自国の戦力としてしまったようである。

極めて迅速なRapid Global Mobility(全世界規模の即時展開)で紛争地域に急行し、圧倒的なInformation Superiority(情報優勢)に基づき完全なるAir Superiority(航空優勢)を確保する―。
こうした航空機と情報を活かした「機動性ある軍隊」および戦争の変革は、後に軍事革命(RMA)と呼ばれ、「持つもの」と「持たざるもの」の航空戦力の差はさらに広がってゆくこととなる。

F-15C 湾岸戦争
(写真は2003年イラクの自由作戦のものであるが、文字通りデザートストームが吹き荒れる劣悪な条件にも関わらず95.5%に及ぶ平時以上の稼働率を確保したEagle keepersの貢献も忘れてはならない。)



(写真は1990年砂漠の盾作戦中に展開するF-15E。航空優勢を確保するF-15C/D以上に多国籍軍に重要だった戦闘機はF-15Eストライクイーグルであった。当時の多国籍軍での全天候・夜間攻撃ができる戦闘機は限られており、ストライクイーグルは主に夜間の「スカッド狩り」や「戦車狩り」に投入された。)

【コソボ紛争 アライドフォース作戦】

コソボ紛争は、ユーゴスラビア国内の民族の勢力争いに端を発する。
セルビア人の勢力であるミロシェビッチ大統領の政権はアルバニア人が多く居住するコソボ自治州のアルバニア独立勢力(コソボ解放軍 KLA)を鎮圧するために軍事行動を行い、一般市民をも無差別に殺戮し根絶やしにする民族浄化を行った。イスラム教を信奉するアルバニア人にとってコソボは先祖の土地であったが、セルビア人にとってはセルビア正教の聖地でありアルバニア人の独立を認めるわけにはいかなかった。
ユーゴスラビア軍は国際連合をはじめとする各国の再三の非難にもかかわらず、コソボ自治区に駐留し続け、3月24日にNATO軍は軍事行動に踏み切った。ユーゴスラビアへの軍事行動は航空攻撃のみによって行われ、アライドフォース作戦と呼称された。

アライドフォース作戦では、F-15Cが航空優勢の確保のためにイタリアに展開した。ユーゴスラビアは15機のMiG-29と64機のMiG-21を保有していたが、MiG-21は殆ど飛行せず、MiG-29を散発的に飛ばす程度であったため、空中戦は殆ど発生していない。
開戦初日の1999年3月24日に2機のF-15CはAIM-120B AMRAAMにより2機のMiG-29に対し発射し、これを撃墜した。F-15がAMRAAMにより戦果をあげた最初の例である。最初に発射されたAIM-7およびAIM-120は回避されている。
イラク方面でAIM-120の命中率は格段に落ちており、久々のAMRAAMによる戦果であった。イラク軍は最初から米軍機と交戦する意思などあらず、戦闘機に接近し補足されると即座に引き返すといった挑発行為を繰り返していたため、いくら最新型のAMRAAMと言えども遠距離で発射し、尻尾を巻いて逃げる相手に命中するはずなどなかった。空対空ミサイルに対抗する最良の手段は反対方向に逃げる事である。
初日3機目の撃墜はオランダ空軍の性能向上型F-16Aによって記録され、1発AMRAAMによりMiG-29を撃墜した。

続く26日には1機のF-15Cが発射した2発のAMRAAMにより2機のMiG-29が撃墜された。
以上、AWACSの支援の元に殆ど一方的な戦いであったであろうことは容易に予想できる。AWACSのサポートを受け、AMRAAMを装備したF-15に限定的な性能しか持たないMiG-29が対抗できる手段などあるわけがなかった。

4月5日にはF-16CJが、同じくAMRAAMによりMiG-29を撃墜し、アライドフォース作戦中を通し全撃墜数はF-15Cにより4機F-16A/Cにより2機の合計6機で、すべてMiG-29であった。対するNATO軍の空対空に於ける損害は皆無であった。
が、アライドフォース作戦でF-117ナイトホークが撃墜されている。SA-3地対空ミサイル説や地対空砲火説が濃厚であるが、面白い説にMiG-29の発射したAA-8エイフィッドにより撃墜されたというものがある。
さらに旧ユーゴスラビアおよび旧東側諸国ではユーゴスラビアによりF-15を撃墜したと見る向きがある。
空爆開始二日後の3月26日にはMiG-21が発射したAAM(AA-8エイフィッド?)によりF-15Eを撃墜し、4月6日にはMiG-21とF-15によるドッグファイトが行われ、F-15は戦闘中山に衝突しMiG-21がマニューバーキルしたと言う。しかし米国はF-15の損失を認めておらず、信憑性には疑問符が付く。

B-2スピリットによるベオグラードの中国大使館の誤爆(JDAMを使用)、F-15Eストライクイーグルによるグルデリツァ鉄橋の誤爆(AGM-130を使用)など、精密誘導爆弾による「正確な誤爆」という、新たな問題点がクローズアップされるようになった。

6月8日にユーゴは国際連合を仲介しNATOとの和平案を受け入れ、平和維持軍(PKF)を受け入れることを条件に78日間の空爆は終了した。翌年2000年10月にはユーゴスラビアの独裁者ミロシェビッチの政権は崩壊し、民主派のコシュトゥーニツァが新大統領に就任し2003年にはセルビア・モンテネグロと国名を改称し現在に至る。
なお、指導者ミロシェビッチは2001年4月には職権乱用の罪で逮捕され、6月にオランダのハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に身柄を移送され、民族浄化を行った罪などで起訴をうけ裁判が行われている。ミロシェビッチは空爆によってセルビアが虐殺されたと主張。米国クリントン大統領も裁くべきだとし勝者による偏った裁判であると反論している。


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