イスラエル国防軍空軍(IDF/AF)

■イスラエル国防軍空軍(IDF/AF) 

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【戦いの続くイスラエル ヨムキプール戦争戦争】

1973年10月6日、年間を通じイスラエルの警戒が最も緩む贖罪の日(ヨムキプール)にあわせ、約250機のエジプト軍戦闘機・攻撃機が突如としてイスラエルに対し奇襲攻撃を行った。陸軍はスエズ運河を渡河しシナイ半島へ侵攻を開始。同時に北からはシリアが侵攻する挟撃を受け、第三次中東戦争とは全く逆の先制攻撃により、無敵と思われていたイスラエル空軍・イスラエル機甲部隊は多大な損害を受けた。イスラエル側ではヨムキプール戦争戦争、アラブ側ではラマダン戦争と呼称される第四次中東戦争の勃発である。

アラブ側は第四次中東戦争に至るまでイスラエル空軍の苛烈な航空攻撃により度重なる敗北を重ねていた。特に第三次中東戦争のエジプトではイスラエルの先制奇襲により一日で空軍が壊滅する惨劇を受けており、その戦訓からソビエトから固定式のSA-2ガイドライン及びSA-3ゴア、移動式のSA-6ゲインフル、携帯式のSA-7グレイル、ZSU-23-4シルカ対空機関砲車両といった地対空ミサイルを多数取得し、イスラエルに対する防空網を大幅に強化していた。
特にエジプト・シリア両国に配備された最新のSA-6ゲインフル(ソビエト名2K12Eクヴァドラート)とZSU-23-4シルカは極めて強力で、SA-6の1S91"ストレートフラッシュ"レーダーは、イスラエルの軍用機のレーダー警戒受信機に探知不可能なCW波の警戒レーダーを使用し、有効なECM戦闘を行う事ができずに、低高度から高高度までカバーする同ミサイルは開戦から停戦に至るまで常にイスラエル空軍にとって最大の脅威でありつづけた。また、目視内低高度ではレーダー及び光学照準のZSU-23-4シルカが待ち受けていた。
第四次中東戦争も10日も経過した後にはイスラエル軍が反撃に転じ徐々に優勢になりつつあり、イスラエル軍機の強力なECMによりエジプトの地対空ミサイルは殆ど「打ち上げ花火」と化していたにも関わらず、ゲインフルとシルカは有効であり続けた。SA-6のミサイルとイスラエル軍戦闘機における交換率は55:1であったと伝えられている。

開戦から19日目の10月24日、イスラエルは奇襲により失った領地を奪回。午後5時にはアラブ側との停戦が発効し、4回目の中東戦争もイスラエルの勝利で幕を閉じたが、19日間の戦闘におけるイスラエル側の発表した損失は、空中戦においては4機、誤射で1機、地対空ミサイルにより48機、対空砲により52機、事故により10機と、合計115機にも達しており、イスラエルの損害の殆どがSA-6及びZSU-23-4の二種類の防空火器によるものであった。空対空による損失は実際には10機に達するという説も有るが、どちらにしろSAM/AAAがほとんどの原因であろう。第四次中東戦争中にイスラエルは米国から80機ものA-4スカイホークと48機のF-4ファントム、12機のC-130、他ミサイル類を緊急輸入し、損害の穴埋めに当てた。ただし、これら兵器の殆どが終戦後に到着した。

空中戦におけるキルレシオは20:1で20人を超えるエースパイロットを輩出したイスラエル空軍が圧倒したが、第4次中東戦争前後を通じ度々高度8万フィートの高空をマッハ2.5以上、ある日にはマッハ3.2の速度でシナイ半島を通過する、ソビエトのYe-155/Ye-266(後にMiG-25)と思われる正体不明の高速偵察機には既存の戦闘機では全く用を成さなかった。アラブ側にMiG-23や高速戦闘機MiG-25などが大量に配備されれば(そして実際に配備された)この優位が続くという保証は無い。
対抗するにはF-15イーグルしかなかった。イスラエルは次世代の主力戦闘機としてF-15を当初から有望視しており、1974年には他のイーグル使用国よりも早期の段階からパイロットの派遣を行うなど、F-15の取得に向けて積極的な活動を行っている。

【ピースフォックス イスラエルのイーグル】


1975年、イスラエルへのF-15の輸出契約が結ばれ、FMSを介した輸出計画はF-15Peace Fox(ピースフォックス)と命名された。

Peace Fox Iにて1976年12月10日金曜日に最初の4機のF-15が引き渡され、米国以外で最初のイーグル保有国となった。いずれも1972年にシリアルナンバーを受けた72-0116/72-0117/72-0118/72-0120以上4機のF-15A試作機である。面白い事に複座のF-15Bを輸入していない。
余談になるが金曜日はユダヤ教の安息日、戒律により働いてはいけない休日でありイスラエル首相ラビンには翌日その報告が行われたという。
つづき1977年から1978年にかけてはPeace Fox IIとして新造の19機のF-15A及び2機のF-15B合計21機がイスラエルに順次引き渡され、最初の4機を加えた臨時飛行隊として実戦配備を受けた。1979年には最初の撃墜を記録するが、これについては後に記載する。そして同79年末に133スコードロンで初のイーグル実用部隊として実働編成を受け、F-15A及びBにバズ(Baz:鷲の意)というニックネームが付けられた。
参考までに、後に調達されたF-15C/Dをアケフ(Akef:ノスリ)、F-15Iをラーム(Raam:稲妻)と呼び、他にもF-4Eクルナス(ハンマー)、A-4Nアヒト(ハゲタカ)、F-16A/Bネッツ(隼)、F-16Cバラク(雷光)、F-16Dバラキート(雷電)、F-16Iスーファ(嵐)など、イスラエル独自のヘブライ語のニックネームが付けられている。
なお、ノスリはハゲタカの一種であるが、鷲も鷹も生物学上明確な区分は無くやや大きめのワシタカ類を鷲、小さめのものを鷹と分類している程度であるため、バズもノスリもどちらも「イーグル」であることに違いはない。

マクダネルダグラスでのF-15A/Bの生産は1977年に終了し、1978年より米国での生産はF-15C/D(アケフ)に切り替わっていた。よってPeace Fox IIIではF-15Cを18機、F-15Dを8機の合計26機を1981-82年にかけて順次取得し、1990年にはPeace Fox IVとして5機のF-15Dを取得した。
さらに90〜91年には、湾岸戦争においてイスラエルに撃ち込まれるであろうイラクのスカッドミサイルに対する報復攻撃を行わないという米国との取り決めの見返りとして、米空軍で余剰となったF-15A/Bを25機、F-15C/D相当のアビオニクスにのせかえた上で取得し、AIM-120の運用能力も得ているという。

1994年にはPeace Fox VとしてF-15Eストライクイーグルのイスラエル仕様F-15I(ラーム)の輸出が決定された。F-15Eは極めて強力な対地攻撃能力を持つため、当初輸出には慎重であった。Peace Fox Vでは21機のF-15Iを輸入。さらにPeace Fox VIで4機のF-15Iを輸入し25機のF-15Iを1998年までに取得した。
以上。イスラエルが取得したF-15の総数はバズ及びアケフの76機とラーム25機の合わせて101機である。

これらイスラエルのイーグルの特徴は、まず日本やサウジアラビアと同様、戦術電子戦システム(TEWS)の輸出が認められていない事があげられる。AN/ALQ-119(V)ジャミングポッド、エルタAL/L-8202ジャミングポッド、及びAN/ALQ-132フレアポッドを装備し、F-15IではエリスラSPS-2110IEWSが組み込まれ、機内ジャミング発生装置を装備した。
またF-15A/B系にもFASTパックの搭載が可能なように改修を受けているのもイスラエル独自である。
さらにイーグル標準である最新のACES II射出座席ではなく旧来型であるが信頼性の高いダグラスIG-7射出座席を装備している。

【兵装&近代化改修 バズ2000】

イスラエルは兵器の生産が盛んな国である。バズ及びアケフの空対空兵装は標準のAIM-9、AIM-7、AIM-120に加え、イスラエル国産の短射程の赤外線誘導ミサイルシャフリル2(Shafrir-2)と、その後継で射程が延長しオールアスペクト発射能力を得たパイソン3(Python-3)の装備が可能だ。旧式化したシャフリル2は現在では装備されていない。

(手前の機はパイソン4とAIM-7を装備、奥の機はパイソン3とパイソン4、AIM-7を装備)
アメリカでは「1ドルたりとも空対地能力に投資するな。」と叫ばれ空対地攻撃機としての道を閉ざしたイーグルであるが、イスラエルのイーグルは空対地ミッションへの投入が想定されている。元来ファントムより優れた空対地能力を付与されている事を考えれば、さほど驚くべき事では無いが、イーグルにしては珍しい運用思想には違いない。
搭載可能兵装はMk82およびMk84の無誘導爆弾類に加え、特にアケフ(F-15C/D)は主翼下のハードポイントにMER-10N爆弾架を装備し、胴体下にデータリンクポッド(AN/AXQ-14?)を搭載することにより2000ポンドのGBU-15 TV誘導爆弾の運用が可能である。
こうした空対地へのF-15の投入は一度の敗北が国の滅亡に直結するイスラエルが独自に効率的な運用を追求した結果であろう。実際にバズやアケフがこうした兵装を装備し空対地ミッションに投入された事例も少なくない。その最も足る例がチュニス空爆であろう。後述するチュニス空爆 地中海横断2000kmを参照されたい。
が、あくまでも主任務は航空優勢の確保であり空対地攻撃は副次的である。空対地の主力はネッツ(F-16A/B)、バラク(F-16C)、バラキート(F-16D)やラーム(F-15I)のようなマルチロールファイターであり、バズやアケフが優先的に空対地任務を行う事は少ないようだ。
しかし、こうした概念はバズ2000改修の実施により意味を持たなくなってきている。

(バズ2000)
1995年にはF-15近代化改修プログラムBaz-2000(バズ2000)が開始され大幅に空対空・空対地能力が向上した。
バズ2000はバズメショパー(バズ改)とも呼ばれ、INS/GPS航法装置や機内ジャミング発生装置の装備、セントラルコンピューターの換装、アクティブレーダー誘導のAIM-120AMRAAMへの対応、広いオフボアサイトレンジを持つパイソン4(Python-4)の装備や開発中であったパイソン5(2003年ロールアウト)への対応と、それに伴うDASHヘルメットキューイングシステムの装備、また、最新の中射程AAMダービー(Derby)の装備が可能となった。ダービーはホームオンジャム(HOJ)等高いECCM能力を持つ、およそ50kmの射程を持つ最新のアクティブレーダー誘導中射程ミサイルである。機動性が極めて高く、ヘルメット照準と連動したシーカーによる発射前ロックオン(LOBL)が可能であり、オフボアサイトへの攻撃能力を持ち、目視外視程ではAIM-120AMRAAMと同様の中間アップデート誘導を用いた発射後ロックオン(LOAL)を活用することにより短〜中距離のさまざまな敵に対応することができる。AMRAAMに比較しシーカーの視程が長く、より高いスタンドオフ性を実現しているというが、2005年現在保有数はあまり多くないと見られる。なおインドへの輸出が行われておりハリアーに装備が施される。
さらにコックピットが大幅に改修され、F-15E/F-15Iストライクイーグルと殆ど同様のレイアウトを持つグラスコックピット化が行われている。

(ECMポッドとポパイを装備したバズ2000)
空対地能力に於いては大型のポパイ空対地ミサイルの装備が可能となった。ポパイは3000ポンドの重量と750ポンドの弾頭を供え、通常爆弾に換算すれば2000ポンド級爆弾にほぼ匹敵する炸薬量を誇る。射程は45km、誘導はデータリンク及びTV/IIRのスタンドオフ巡航ミサイルである。米国ではAGM-142として輸入されておりB-52に搭載されている。その他GBU-15等誘導爆弾の運用とあわせ、名実ともにマルチロールファイターと呼ぶにふさわしい作戦遂行能力を得ている。

バズ2000は1998年にロールアウトし、現在順次バズ2000適用が行われており、F-15C/Dアケフにもバズ2000改修が適用されている。イスラエルのバズやアケフは米国やわが国の航空自衛隊のようなイーグル=空対空専用という固定概念に当てはめて考えるのは相応しくないであろう。理想としては空対空・空対地専門とする戦闘機を保有できたほうが戦力面では有利であるが、イスラエルのような小国では限られた予算内で最良のコストパフォーマンスを発揮しなければならない。どちらが優れているかとは一概には言えないであろう。
なおバズ2000の写真はCFTを装着しているがF-15E/Iのような標準装備ではなく必要に応じて着脱する。

【鷲は舞い降りた。最初の交戦】

1979年6月27日、依然として中東での衝突は絶える事無く続いており、この日F-15イーグルは初めて実戦の洗礼を浴びることとなる。
レバノン南部にあるシリア軍のゲリラの拠点を攻撃するため爆装を施されたA-4及びF-4を護衛するためF-15A/Bバズとクフィルが任務についてた。これを阻止すべくシリア軍は4機編隊2グループの8機からなるMiG-21を迎撃に当たらせた。

イスラエル側は新型の早期警戒機E-2Cを保有していた。ホークアイは地中海海上で空域を監視中であり、A-4、F-4を中核としたストライクパッケージにミグが接近中である情報を与えた。
イーグルのレーダーは接近するMiG-21を捉えていたが、目視を行わない戦闘は交戦規定により禁止されており、イーグルのパイロットの一人がMiG-21である事を“ビジュアルID”で確認した。即座にバズ及びクフィルはこれを迎撃し、目視確認から僅か数秒後にはMoshe Melnik氏のバズがシャフリル2を発射。MiG-21を餌食にし、F-15は最初の撃墜を記録した。
続き4機のMiG-21がバズにより撃墜され、最後はバズの攻撃により損傷を受けた1機のMiG-21が、クフィルの発射したシャフリル2によりとどめをさされた。戦闘は僅か1-2分で6機のMiGを撃墜し終結した。いずれもシャフリル2およびAIM-9、1機はAIM-7による戦果であった。
以上が後20年に渡り100まで続くF-15イーグル最初の勝利である。なお、余談までにクフィルや間接的ではあるがE-2C最初の「交戦」でもあった。クフィルにとっても最初の勝利であり、また最後の勝利でもあった。

1979年9月24日。この日はレバノン上空を偵察飛行中であったイスラエルのRF-4E偵察機数機を攻撃すべく、シリア軍の4機編隊3グループ計12機のMiG-21が接近しつつあった(8機説も有)。
しかし、この行動はイスラエルのE-2Cホークアイ早期警戒機により全て監視されており、即座に戦闘空中哨戒(CAP)中であったF-15バズに迎撃管制が下された。増槽を投下しアフターバーナー出力で迎撃にあたり、MiG-21とF-15による二度目の交戦が行われたが、シャフリル2とAIM-9により5機のMiG-21が撃墜され、戦闘は1-2分で終結した。
シリア側は4機のMiG-21の損失があったが、2機のF-15を撃墜したと主張している。しかしこの日交戦したバズに損害は無かった。

1980年には8月24日にMiG-21を1機撃墜し、12月31日にはレバノン南部への爆撃任務を行ったA-4/F-4に対し攻撃を仕掛けてきた4機のMiG-21を迎撃。バズにより3機を撃墜、F-4Eクルナスにより1機を撃墜し編隊を全滅させた。

1981年2月13日、RF-4に対し攻撃を行おうと接近したMiG-25フォックスバットは、山陰に隠れていたバズの奇襲を受けた。バズはAIM-7スパローを発射。MiG-25はこの時になってようやくバズの存在に気がついたが有効な回避手段を実施するには遅すぎた。バズはこれを撃墜し、F-15のAIM-7による初の撃墜であり、MiG-25にとっては最初の被撃墜を記録した。
1981年7月29日には再びRF-4を攻撃しようとしたMiG-25をAIM-7で撃墜した。なお、この交戦には異説がある。撃墜されたF-15イーグルにて解説する。

元来F-15最大の仮想敵であったのはMiG-25である。狐蝙蝠を撃墜した事により鷲の存在意義は大きく向上した。

【レバノン戦争 ベッカー高原SAM撃滅作戦】

1948年イスラエル独立戦争(第一次中東戦争)と同時に2000年間居住していた土地を奪われたパレスチナ人の組織、パレスチナ解放機構(PLO)はイスラエルの隣国レバノンの首都ベイルートに本拠をもち、1970年代後半からイスラエルに対し度々ゲリラ活動を展開していた。時にイスラエルに決死隊を送り込み100人あまりを殺傷するような苛烈なものや、イスラエルと国境を接するレバノン南部から、ソ連製カチューシャロケットを国境を越えて撃ち込む等大規模な攻撃に至るまで散発的に繰り返していた。そのたびにベイルートや南レバノンのパレスチナゲリラ根拠地に対し爆撃が行われるなど日常茶飯事であった。おそらくF-15の空対地初任務はこうした報復爆撃の1回であったであろう。

1982年、イスラエルの国防相アリエル・シャロン(後首相)は、PLOゲリラが即時にテロ行為を止めなければレバノンに侵攻し、武力によるPLOゲリラの一掃を行うと宣言する。
そして同1982年の6月4日、駐英イスラエル大使がパレスチナ人に狙撃され重症を負うテロ事件が発生した。PLOは関与を否定し、イスラエル側もモサドの調査によりパレスチナ人の単独犯でありPLOは関知していない事を知るが、この事件を口実にしない理由は無く、加熱する世論も味方であった。
かくして1982年6月6日、イスラエルの機甲師団はレバノンに侵攻し“ガリラヤの平和作戦”が開始された。
イスラエルの戦略目的は3つ、内戦で無政府状態であるレバノンに駐留するシリア軍を蹴散らし、親イスラエルのマロン派キリスト教政権を樹立させる事。PLO議長アラファトを含む主要人物の抹殺。PLOの残党から本土を守るためレバノン南部に緩衝地帯を設ける事である。レバノンの面積は10,452km2で岐阜県程度の国土である。レバノンを踏み潰すことなどイスラエルにとって造作も無い事であった。

まず、F-15の空対空戦闘に入る前に、F-15も投入されレバノン侵攻で大きな成果をあげたベッカー高原におけるSAM狩りについて触れておこう。
シリアはヨムキプール戦争後からレバノンと国境を接する西部のベッカー高原の平野部に多数の地対空ミサイル陣地を構築していた。具体的にSA-2 2個高射隊、SA-3 2個高射隊、そしてヨムキプール戦争でイスラエルが多大な損害を受けたSA-6、および最新のSA-8を装備する15個高射隊の合計19個高射隊、それぞれの高射隊の近接防御を行うZSU-23-4対空機関砲等により、即時にミサイル200発が発射可能という完全な防空体制を整えつつあった。ベッカー高原など濃尾平野の広さほども無い高地である。その火力の濃密さは半端ではなかった。

イスラエルはレバノン侵攻の1年以上前からベッカー高原に無人偵察機を頻繁に飛ばし、シリア側のSAMのレーダーを起動させる事により、SAMサイトの位置や使用周波数を調査し(SIGINT)、効率的な攻撃と妨害を行う戦術を研究しつづけていた。
その結果、シリア軍のSAMサイトは開戦前から位置を暴露されていた。イスラエル軍は陸空戦力を有機的に活用し、地上軍の間接砲撃と、F-4Eが搭載するAGM-45シュライク対レーダーミサイルやF-16が搭載するAGM-65マベリック等誘導兵器で損害を与え、さらにA-4やF-15が搭載するクラスター/通常無誘導爆弾などを使用した徹底した航空攻撃により各個SAMサイトを潰していった。
完全なはずの地対空ミサイル防空網は囮ドローンやEC-707電子戦機のジャミング、チャフ・フレアといった手段によって妨害され、地位対空ミサイルはただの「打ち上げ花火」に過ぎなくなっていた。結果、たったの1日で19個高射隊は完膚なきまでに破壊され、イスラエルの発表では空軍機の損害はゼロであった(実際は攻撃に参加したF-4,F-15,F-16,A-4の数機が撃墜されているのではないかという説があるが、定かではない)。
このSAM撃滅作戦に於いて最も仰天したのはイスラエルでもシリアでもなくソビエト連邦であった。最新の防空火器が全く役に立たなかったのだから、イスラエルがどのような戦術を採用したのか、やっきになって調査が行われた。
ベッカー高原はなだらかな山こそあるが遮蔽物の極めて少ない荒れた土地である。安易に情報を垂れ流し自らの情報を暴露し情報戦に敗れた者の末路であった。

【レバノン戦争 ベッカー高原航空戦】

続き、レバノン侵攻におけるイスラエル軍の航空優勢確保であるが、クフィル、F-4Eクルナスといった従来の旧式機に加え、最新戦闘機F-15ABCDバズ/アケフ及びF-16ABネッツが投入され、E-2C早期警戒機とあわせ大規模航空戦における真価が問われることとなる。
また、限定的に使用されていたオールアスペクト発射能力を持つ短射程ミサイルAIM-9Lサイドワインダー、同様にイスラエル国産のラファエル社製のオールアスペクト発射能力を持つパイソン3新型短射程ミサイルが実戦投入された。まさに最新兵器の実験の場である。
対するシリアはF-15と同世代のMiG-25は偵察や一部戦闘など限定的な使用に留まる温存策を図り、主力はMiG-23やMiG-21であった。また、攻撃機としてSu-7/17/22等のフィッター系が使われた…と言いたいところだが、結果を先に言ってしまえば航空優勢が完全に奪われた状況の中フィッターの活躍の場所などありもしなかった。ともかくシリアは自慢の地対空ミサイルは完全に破壊されてしまった今、戦闘機において劣り、警戒管制において劣り、イスラエルに対しアドバンテージを持てるものは何一つなかったのだ。

最大規模の空中戦は開戦から二日後の6月8〜11日の間に行われた。この4日間で1000ソーティーもの航空機が出撃した。空中戦の殆どはレバノンに侵攻するイスラエル軍を攻撃するためシリアから発進した戦闘機や攻撃機をイスラエル軍機がベッカー高原上空で迎撃するといったパターンが殆どであった。
特に9日の空中戦は最大規模のものであり、航空優勢戦闘機だけで両軍合わせて150ソーティーもの戦闘機が出撃し、朝から夕方まで戦闘が絶える事が無かった。結果はF-15及びF-16がそれぞれ11機/10機のMiG-21,23を撃墜し、レバノン戦争最大の撃墜数を記録している。なおイスラエル軍機による損害は無かった。
翌10日にはF-15Dアケフのクルーが一回の交戦でAIM-7Fを使用し2機のMiG-23を、さらに短射程AAMでMiG-21の合計3機を落とすという大戦果を挙げた。

戦後すぐにはイスラエル軍は100機のシリア機を撃墜し空対空での損害は無かったと発表していたが、より最新のデータではF-16ネッツが44機を撃墜し、F-15バズ・アケフは40機を撃墜、F-4Eクルナスにより1機の合計でMiG-21,23,25,Su-7/17/22,ガゼルを85機撃墜し、イスラエル側の損害は6月11日に事故により失われたとされていたF-4Eが被撃墜による可能性があると認めた。
ヨムキプール戦争終結から9年。F-15、F-16、E-2Cと新型の戦闘機や警戒機配備した結果、キルレシオは20:1から85:1へ、実に4倍以上にも跳ね上がり、完全な勝利を収めることによりF-15及びF-16、E-2Cは圧倒的に高い評価を得た。
離陸と同時に存在を探知する圧倒的情報格差と最新戦闘機の性能差の前ではイスラエルが負ける理由などどこにも無かったのである。

機体に記された撃墜マークははったりの類ではない。

なお本紛争は最終的にイスラエル軍は南レバノンを占拠、首都ベイルートに到達した。PLOのアラファト議長ら幹部はチュニジアに亡命し、ほぼ当初の作戦目標は達成する。そしてイスラエルは2000年に完全撤退するまで南レバノンを占領し続け、2005年4月には30年間駐留していたシリア軍はついにレバノンから撤退した。しかしレバノンを巡る泥沼はいまだに続いている。

レバノン侵攻やや前の1979年、4次にわたる中東戦争で「アラブの盟主」として常に主力であったエジプトは、イスラエルとの平和条約を締結した。翌年1980年にはイスラエル・エジプト間で国交が樹立し、1982年にはシナイ半島からのイスラエル軍の撤退・エジプトへの返還が行われ、南イスラエルの戦いは一応の決着を見た。
アラブ側の戦力の低下に反比例するかのごとく強大化を続けるイスラエルに対抗できる国は無くなった。レバノン侵攻後、現在に至るまでイスラエルに起因する大規模な戦争は無くなり、PLOのゲリラ活動やそれに対抗する報復空爆や侵攻が散発的に行われる程度となった。
それでもシリアとの空中戦は稀に行われており、1982年以降、1985年にはアケフによりMiG-23を二機撃墜、1989年にはF-15よりも新しい世代の戦闘機MiG-29を撃墜するなど、いまだに無損害撃墜記録を伸ばし続けている。確認された最後の撃墜は2001年9月14日で、2機のMiG-29を撃墜し現在(2005年)に至る。
空中戦の頻度こそ減ったもののイーグルが地上攻撃に投入される場合も少なく無く、けっして平和が訪れたわけではない。現在シリアではSu-27などさらに強力な戦闘機、SA-10グランブルなどの最新の地対空ミサイルを保有している。こうした戦闘機や地対空ミサイルと交戦する日も遠くない未来の事かもしれない。

【オシラクの日 バビロン作戦】

レバノン侵攻からやや時間を遡り1981年になるが、イスラエルはイラク首都バグダッドにおいてフランスの技術供与を受けて建造中であったオシラク原子力発電所を空爆で破壊する作戦計画を立案した。
オシラク原発は名目上「平和利用」の発電所所ではあるが、生成されたプルトニウムをイラクが保有し、核兵器開発につながるであろう事をイスラエルは警戒した。イラクはイスラエルの敵対国である。核武装だけはなんとしても阻止しなければならなかった。
オシラク原子炉破壊作戦は「バビロン」と名づけられ、任務に当たるのはそれぞれ2発ずつのMk84 2000ポンド爆弾を搭載したF-16A/Bネッツが8機。その護衛にあたる6機のF-15A/Bバズと決定され、参加するパイロットに対し18ヶ月間もの徹底的な訓練が施されていた。

1981年6月7日1500時。バビロン作戦は決行された。イスラエルとイラクは隣接国ではない。バグダッドに向け飛行するにはヨルダン・サウジアラビア・シリアいずれかの領土上空を通過する必要があった。当然無許可で侵入して防空網に探知されれば迎撃を受けてしまう。イラクの原子炉を爆撃に行きますなどと通達しても、当たり前であるが許可されるわけがなく、アマンやモサドが情報収集した防空網の隙を突くべく緻密な航路計画が立てられた。
南イスラエルの、かの対艦ミサイル事件で有名な駆逐艦の名前となった町、エイラートの西近郊に位置するシナイ半島のエチオン基地(現エジプト領)を発進した攻撃隊は紅海アカバ湾に出、サウジアラビアの領空を地形追随飛行しバグダッドへ飛んだが、地形追随飛行を行っているにも関わらず途中でレーダーに探知されてしまった。
攻撃隊に対し所属を問いただす無線が入った。
攻撃隊のパイロットは自分達が旅客機であるとアラビア語で返答した。パイロットにはアラビア語教育が施されていたのである。密集編隊でレーダー上では単機に見えていた事もありサウジアラビアのレーダーサイトの管制官は見事に騙されてしまった。ただしこれには異説がありヨルダン空軍所属機であると返答したとの話もある。

それ以外の無線通信は東経38度、東経40度、東経42度のウェイポイントを通過するごとにそれぞれ「Charley:チャーリー」、「Zebra:ゼブラ」、「Sand dune yellow:サンドデューンイエロー」の符号を送信し進行状況の報告を行う以外完全な封鎖状況にあった。

無事にイラク領空に達しバグダッドに接近すると、先導していた6機のバズはそれぞれ2機ずつに分かれ、それぞれバグダッド近郊のイラク軍主要航空基地上空25000ftでCAPに入った。ネッツはこのままオシラク原発に対し攻撃を加えるべく低空飛行を続け、バズがCAPに入るとほぼ同時期にF-16は目標攻撃イニシャルポイントに到達し、8機は四波にわたる波状攻撃編隊となり5000ftまで上昇。レベルオフする間もなく目標を補足し緩降下爆撃に入り次々と爆弾を投下した。1635時に最初の2発のMk84が原子炉に着弾した。それからおよそ2分間で16発のMk84は全弾が投下され、うち15発が原子炉に命中し完全に破壊された。
バグダッドにはゲインフルやシルカなどの対空火器が数多く配備されていたが、わずかな反撃以外、攻撃に転じる事は出来ず、イラクにとって刹那の出来事で爆撃は完了した。迎撃の戦闘機を発進させる機会も無かったためF-15バズがこの作戦において交戦することは無かった。仮に交戦していたとしても高度を十分に取っていたF-15に対し、離陸直後のMiGが太刀打ちできたとは到底思えず、無駄であっただろう。

攻撃終了後、バズとネッツは往路で非効率な地形追随飛行を行った航続距離の損失を補うため33000ftに上昇。再びサウジアラビアの領空を侵犯。さらにヨルダンの領空を真っ直ぐに突っ切り全機が無事に帰還した。
バビロン作戦は成功裏に終わり、イラクはもちろん、領空を侵犯されたサウジアラビアやヨルダン、そして原子炉への攻撃という行為に、イスラエルに対し世界中から非難の声があがった。作戦に使用されたF-15やF-16を供給しているアメリカなどは一時イスラエルに対する武器禁輸措置を取っている。
しかし、このオシラク原発攻撃が無ければイラクは確実に核武装を行っていたであろうと見解も強く、フセインの最大のオプションを潰したと評価する向きもある。イラクはついにフセイン政権が崩壊するまで、核兵器を完成することができなかった。

なおオシラクに関連し、2005年現在イランの核兵器開発疑惑が世界で取り沙汰されている。
同国は1500km〜2000kmの射程を持つシャハブ3をはじめとした幾つかの核兵器運搬手段を保持し、数十年に渡り対立するイスラエルは大きな脅威を感じている。
これに対しイスラエルのシャロン首相は2004年に“オシラクの日再び”もあり得る旨の発言をしている。
そのような情勢の中、2005年3月には原子炉に対する攻撃訓練が行われていると報道され、さらには4月に米国がイスラエルにGBU-28ディープスロート 4700ポンドレーザー誘導爆弾、いわゆるバンカーバスターを100発輸出するというニュースが報道された。
ほぼ同時期にシャロン首相は「イランに対する攻撃は計画していない」と発表しているが、決して“オシラクの日再び”を否定するものではなく、明らかにイランの核開発に対する意思表示である。
イラン側もイスラエルが自国原子炉へ攻撃を行えばイスラエルに対し壊滅的報復を行うと宣言している。

GBU-28のような大型の爆弾となると装備機は無論F-15Iラームである。今後のイランの核開発次第では再びイーグルが原子炉への攻撃、次は主力攻撃機として投入される可能性は決して少なくは無い。

【チュニス空爆 地中海横断2000km】

1985年9月25日。キプロスのラナルカで3人のイスラエル人がPLO主流派フォース17と思われる集団の襲撃を受け殺害された。PLOは事件への関与を否定したがイスラエルは即座に報復爆撃を行うべく目標の選定を行い、チュニスのPLO本部への攻撃が決定された。先のレバノン侵攻でPLO本拠はレバノン首都ベイルートからチュニジア首都チュニスへ移転していた。チュニスはイスラエルから実に2000km以上もの距離である。このような長大な侵攻作戦を行うには航続距離を持つF-15以外に選択肢はなかった。

作戦に参加するイーグルは10機で、うち8機が通常攻撃任務の爆装を行い、2機は予備機としての任務を負った。
そして10月1日0700時、10機のイーグルはチュニスへ向けて離陸した。エジプトとリビアの防空網にかからぬよう地中海上空を飛行し、離陸から3時間後の1000時、イオニア海上空で待機していたボーイングB707タンカーとランデブーし空中給油を実施し、攻撃機8機がチュニスに向かい予備機2機はタンカーとともにイスラエルへ帰還した。
8機のイーグルはチュニスの領空を無許可で侵犯するが、チュニジア空軍にイーグルを迎撃できる力など持ち合わせていなかった。抵抗を受ける事無く攻撃隊は2機ずつ4波の波状攻撃をPLO本部に対し加えた。結果PLO本部は徹底的に破壊され、60人以上のPLO要員が殺害され、70人が重軽傷を負った。この間全くの対空砲火も受けなかった。帰還中に2度目の空中給油を受け、1400時頃に8機のイーグルはイスラエルに帰還し全飛行距離4000km以上という、F-15のコンバットレンジの限界を超える任務を成功裏に終えた。

【イーグル無敵神話は嘘か?MiG-21 MiG-23 MiG-25】

公式記録においてはF-15は100を超える勝利と自身の損失は皆無(米国・サウジアラビアを含む)。すなわち空では無敵の存在である事になっている。しかし、相手国側から見ればF-15は空で敗北を受けているのだ。
上記に掲載したイスラエルの戦いは、全てイスラエルの主張が正論である事を前提に進めた。本項では趣向を変えイーグルと敵対した国。シリアの視点から、「イーグル」を落としたという情報を掲載したい。殆どが確定的な情報ではなく、得た情報から多分に自分の考察も含んでいることを先に明記しておく。

1.MiG-21bis(MF?)フィッシュベッドの場合
まず最初に紹介したいのは「噂」といった類ではなく「事実」の事例である。
F-15が最初の実戦を経験した1979年から1982年の間。恐らくは1982年6月8日-11日のレバノン戦争、ベッカー高原上空戦と思われるが、MiG-21はF-15にミサイルを命中させている。我々は後世の人間であるから「まさかMiG-21が―」という感は拭えないが、これはイスラエルも認めている確実情報である。
ベッカー高原上空戦項でも述べたが、レバノンという国は、それこそF-15のレーダー1つで全域が走査できてしまうようなきわめて小さい国だ。そこにイスラエル軍・シリア軍ともに数十機、100を優に超える数の戦闘機・攻撃機が繰り出されていたのだからその過密度は推して知る所である。

1970年代当時、一対一の空中戦に於いてはイーグルにかなう戦闘機など存在しなかった。殆どの場合で勝利する絶対的存在であったと言っても過言では無い。しかし、そのイーグルも米国での演習にてアグレッサーのF-5タイガーと6対6の戦闘を行うと、優位性は一気に落ちキルレシオは2対1にまで低下したという。つまり、一対一でどんな優秀な戦闘機であっても、混戦になればなるほどその優位性は危うくなるのである。
それがベッカー高原ではさらに混沌としたレベルで再現されていたのだから、F-5によく似たMiG-21のミサイルを喰らい、被弾してもなんらおかしくは無く、事実こうした混戦のうちにイーグルは被弾したらしい。
MiG-21が発射したミサイルは比較的最新の短射程ミサイルR-60M(AA-8エイフィッド)であった。R-60MはイーグルのF100-PW-100エンジンを一基食いちぎる大ダメージを与えた。しかしイーグルはチタン製のキールを持ち、片方のエンジン被弾がもう片方のエンジンに影響を与えるような事が可能な限り無いよう高い生存性(survivability)を得られるように設計されているので、被弾したイーグルは片肺で無事にイスラエルの基地に戻った事が伝えられている。
イスラエルが認めている空対空戦闘におけるイーグル唯一の「被弾」である。この被弾したF-15が廃棄されたのか、修理を受け復旧されたのかは不明。致命傷を負わせる事は出来なかったが、廃棄されていたのならば撃墜したことほぼ同義である。

本件とは別であるがイスラエルのF-15は訓練中にA-4スカイホークと衝突し右翼が完全に失われたにもかかわらず操縦を続け基地まで誘導し、通常の2倍以上のアプローチ速度で着陸し見事に基地に帰還している。F-15は2重の油圧系統を持っているが、間違いなく片方の油圧は吹き飛んでいるだろう。イーグルはフライバイワイヤと同原理のCAS操縦システムを持ち、ある程度自動的に操縦補正が行われるが、最終的にはイスラエルのパイロットの不屈の精神力と技量の賜物である。まさに賞賛に値する。

このイーグルは修復が行われ作戦機として再就役したと言われている(定かではない)。ちなみに衝突したA-4は墜落した。

2.MiG-23MLDフロッガーの場合
上記とほぼ、同じようなシーンでMiG-23フロッガーシリーズの最終型、チャフ・フレアディスペンサーを搭載したMiG-23MLDが「おそらくF-15らしき」戦闘機にR-23R/T(AA-7エイペックス…セミアクティブ誘導・IR誘導)を命中させ、パイロットが脱出したとシリア側は主張している。他にもシリアが主張する撃墜戦果は多いのだが、これは後年認めた6月11日に被撃墜されたF-4Eクルナスの事なのかもしれない。
イスラエルにより当初レバノン侵攻での空中戦結果は100:0という数字が発表されていた。しかし、後にイスラエルはF-4Eクルナスが空対空戦闘において1機を失った事を認めており、そのキルレシオは85:1に修正された。
シリアはイーグルの他にもMiG-23によりF-16A/Bを3機、F-4Eを4機、E-2Cを1機撃墜したと主張しているが、イスラエルが認めているのはすぐ前にも書いたとおりF-4Eクルナスだけである。

3.MiG-25PDFフォックスバットの場合
F-15を撃墜したという説で最も有力といわれている戦闘機がMiG-25フォックスバットである。レバノン戦争後1981年7月29日の2回目のイーグルとフォックスバットの交戦であると思われる。
まず、2機のF-15Cアケフが2機のMiG-21編隊に噛み付いた。実はMiG-21は囮であり、アケフをおびき出し山陰を利用しE-2C早期警戒機から機体を隠蔽していた2機のMiG-25が正面および側面からアケフに襲い掛かった。
MiG-25が攻撃に手間取っているうちにアケフの先制攻撃を受け1機のMiG-25がAIM-7Fスパローにより返り討ちに合い撃墜されてしまったが、もう1機のMiG-25は約40kmの距離でR-40(AA-6アグリッド)を発射。おそらく赤外線誘導タイプのR-40Tとセミアクティブレーダー誘導タイプのR-40Rを1発ずつと思われるが、2発ともがF-15に命中した。F-15のパイロットがベイルアウトするのを確認し、撃墜は確実であるらしい。
しかし、距離40Kmというと殆どR-40の最大射程に匹敵する。空対空ミサイルは発射距離が長いほど命中率は低下し、相手が戦闘機である場合、最大射程付近になると殆ど命中は期待できない。
くどいようだがイスラエルは被撃墜を認めておらず、この交戦において損害は無かったとしている。

以上の例に限らず撃墜戦果とは両国の戦果発表と損害発表は常に異なるものである。イスラエル側はシリアの過大戦果だと評し、シリア側はイスラエルの過大戦果だと評する。
仮にイーグルの損害がなかったというイスラエルの主張を信じたとしても、イスラエルのイーグルが記録した50を超える撃墜のうち、実際に無かったものも少なからず存在するだろう。
撃墜が真実であったか虚構であったかは最終的には当事国や当事者たちでも判断することはできない闇の中である。イーグルは何度か被撃墜は無かったと書いたが、それを信じるか異であるとするかは個人の判断で行って欲しい。


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