モニノ中央空軍博物館 2007年夏
Монино Центральный музей Военно-воздушных сил
(Monino Central Airforce Museum)

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ミコヤン・グレビッチ設計局
ヤコブレフ設計局
ラボーチキン設計局
スホーイ設計局
ツポレフ設計局
 . イリューシン設計局
ミャシシチェフ設計局
アントノフ設計局
ミル ヘリコプター工場
・カモフ設計局
 . ベリエフ設計局
・リスノフ設計局
レンドリース

冷戦時代の軍用機は大きな二つの流れに沿って発展しました。言うまでもなく、それはアメリカを主軸とした西側と、ソビエト連邦を主軸とした東側の軍用機です。その大きな流れのうち東半分の歴史が展示された博物館が、このモニノ中央空軍博物館です。
モニノ航空博物館とか、モニノ空軍博物館とか色々と言われますが、正確に訳すとモニノ中央空軍博物館となります。
モスクワの郊外に位置した森の中の博物館で、空軍基地の内部に存在しているため、他の博物館等とは違い訪れるには予約が必須であり観光客が自由に出入りする事ができません。個人の旅行で行くにはかなり難しく、現地の旅行代理店を通じて訪れるのが一般的のようです。
また、博物館の職員と一緒に説明を受けながらまわることになり、基本的に自由に歩き回ることができません。私たちが訪れた際は、Yak-28ブリューワー〜M4バイソンの元爆撃機乗りのおじいちゃんがガイドさんでした(あれ、違ったかな。IL-28だったかも?忘れた)。

航空機は一部のハンガー内展示を除き全て屋外に雨ざらしで展示されているので、あまり手入れも行き届いているとは言えず、殆どの機は塗装も剥げ、ボロボロの酷い状態です。また、通路が決まっているにも関わらず、どの場所からも死角になってクリアな視界で見ることの出来ない機(バイソンやベアなど)があるなど、正直博物館としての評価はあまり高いとはいえません。さらに、我々が訪れる数ヶ月前に火災があったらしく、屋内展示は見る事ができませんでした。なんてこったい。
なお、入場料は無料。ですが写真撮影は200ルーブル(およそ800円強)、ビデオ撮影は300ルーブル(1200円強)が必要です。英語のガイドも販売されており、たしか200ルーブルぐらいでした。A4サイズ、50ページの写真つきで展示機の簡単な(本当に簡単。このページの説明と同じぐらいの触り程度。)説明が記述されています。このページを作成する際の資料として使用していますが、全機収録されているわけではない上、間違いも少なくなく、サブタイプまでの記述が無くあまり使えませんでした。航続距離3000メートルとかの単位間違いやスペルミスとかは普通にあります。

この日は天気予報も傘マークでしたし、実際朝から雨がふっておりとても心配していたのですが、現地につくと見事に雨は上がり、見学が終わる頃には晴れ間も見えはじめました。ガイドさんの話では、モスクワは雨といっても日本のように終日悪天候なことは少ないようで、夏はしとしとと弱い雨が短く降り、すぐに晴れるいわゆる通り雨である事が多いようです。

■ミコヤン・グレビッチ設計局 ОКБ-155 МиГ / OKB-155 MiG 

手前がミコヤン・グレビッチ初の実用ジェットMiG-9。続いてMiG-17,19,21,23,25…。
影に隠れて写っていないMiG-15,MiG-27,MiG-29も同一の通りに並べられているこの場所はまさしく”ミグ回廊”です。
この”ミグ回廊”だけでソビエト連邦のジェット戦闘機の半分が有る。と言っても過言では無いでしょう。
МиГ(MiG)という名はアルチョム・ミコヤン氏とミハエル・グレビッチ氏が共同で設立し、それぞれの性の頭文字MとGを表しており、英語でM&Gの意を持ちます。

・МиГ-3 / MiG-3 -1941

写真は実機ではなくのモックアップです。ミコヤン・グレビッチ第一作目のMiG-1の改良型。岡部ださく氏曰くWW2のフォックスバット。
5000m以上の高高度では640km/hという非常に優れた速度性能を持ち、独ソ戦初期にはBf109Fに対抗できる性能が有りました。しかし、中〜低高度がメインだった独ソ戦では、その高度だとドイツの高高度偵察機を迎撃するくらいしか役目が有りませんでした。
しかも武装が7.62mm*2 12.7mm*1と貧弱すぎるから迎撃機としてはあまりふさわしくないし、かといって航続距離が長いわけでもないから制空戦闘機としても不適当。 仕方が無いので翼の下にロケット弾や爆弾を積んで攻撃機として使うも、被弾にめっぽう弱いので対空砲火や戦闘機に落とされまくりました。
操縦性も不安定で不慣れなパイロットが乗れば未還機になる事が多かったようです。特にフィンランド空軍相手だとカモだったとか。
挙句の果てにIl-2と同系列のミクリンAM-35(IL-2はミクリンAM-38)エンジンを装備してるのでエンジンがIl-2の方に優先されて生産終了。つまり良いとこなし。
冷戦50年間不動のトップ戦闘機メーカーであったミグも第二次大戦時はヤコブレフやラボーチキンには全く及ぶところが有りませんでした。

・МиГ-9 / MiG-9 Fargo(ファーゴ) -1946

機首部の37mm機関砲と23mm機関砲が特徴的な、Yak-15/17と並ぶソビエト最初の実用ジェット戦闘機です。
BMW003エンジンをコピーしたРД-30(RD-30) 7.8kNを双発で備え、初飛行は対独戦が終了してほぼ1年後の1946年4月24日でした。
最高速度は991km/h、航続距離800km、実用高度13,000mと、航続距離は短い物の優秀な性能を誇りましたが、機関砲の発砲煙を吸い込むことによりコンプレッサーストールを引き起こすという戦闘機としては致命的な欠陥を抱えていました。
ジェット戦闘機の開発において先行していた米英ではF-80やミーティアの配備が進む中、これ以上遅れる事は許されなかったため、特に酷かった37mm機関砲の射撃は禁止した上で(!!)、突貫作業で15機を先行量産し、初飛行の翌47年のメーデーにおいて編隊飛行展示し、
「ど、どうだソ連だってジェット戦闘機つくれるんだぞ。大口径機関砲搭載してB-29なんてイチコロだぞ(>_<)」
と、西側にソビエトのジェット戦闘機の配備が進んでいることをアピールしました。が、しかし欠陥はバレバレでした。
機関砲の射撃禁止という戦闘機の根本に関わる欠陥は改善される事無く430機が生産されましたが、開発中の次の戦闘機に期待が寄せられていたため、早々に見切りをつけられました。

・МиГ-15СБ / MiG-15SB Fagot(ファゴット) -1947

使い道なしのMiG-3、こけおどし用の欠陥機MiG-9、そして3番目の量産戦闘機が後退翼の名機MiG-15でした。
この機はごっつい爆弾架が目を引きますが、どうやらbisの戦闘攻撃機タイプMiG-15SBのようですね。
この先のMiG系列はメジャーな機ばかりでもはや説明不要でしょうが、一応触れておきます。
初期のMiG-15はРД-45А(RD-45A)エンジン22.2kNを単発で搭載。本エンジンはロールスロイス ニーンをソビエトで違法コピーしたもので、写真の爆弾とタンクを搭載したMiG-15bisでは、ニーンを再設計改良したВК-1(VK-1)エンジン26.5kNを搭載しています。
最高速度は1,075km/h、航続距離1,200km、実用高度15,500m、その他全ての面においてMiG-9を上回り(そして機銃も射撃できた)、競合機であったLa-15、Yak-23が三桁程度の生産数で終わる中、二桁違いの15,000機が生産されました。
そして、本機を語る上で抜く事の出来ない朝鮮戦争におけるミグショックと、F-86Fとの死闘です。F-86に対しては、最高速度や急降下速度、航続距離、レーダー及びジャイロ照準器なし、武装が対戦闘機向きではないなど、劣る点もありましたが、航続距離を捨ててでも軽量化した結果、低速〜中速度での旋回性、上昇力、加速力においてF-86Fに勝っていました。

・МиГ-15УТИ / MiG-15UTI Midget

MiG-15の複座練習機型です。
燃料タンクを潰し後席を追加した結果航続距離は短く、速度も若干遅くなりました。
本機とは関係ありませんが、MiG-15が朝鮮戦争で突如現れ、はじめて西側に認知されたというのは、実は半分本当、半分嘘です。
開戦前から西側はMiG-15の存在を知っていました。ただし名称も設計局も分からない詳細不明機としてですが。
普通にモスクワのツシノエアショーで展示されていたのです。ただ、その当時実戦配備されていたと思われていたのはMiG-9と、後に掲載するYak-15/17といった急造機だけであり、ジェット化に遅れたソビエトが、F-86とほぼ同時進行でそのような先進的な戦闘機を実戦配備できるわけが無く、謎の後退翼機は試作研究機にすぎないと思われていました。
そして、朝鮮戦争勃発後も北朝鮮軍が使用する戦闘機は、第二次大戦の生き残りのレシプロ機のみであり、直線翼ジェット機の影すらありませんでした(何せ欠陥機でしたし。はははは…)。
そんな中、米の主力戦闘機であったF-80の性能をはるかに超える、研究段階に過ぎないと思われた新型機が突如現れたのです。
この時点でもまだMiG-15という名前は知られておらず、ヤコブレフ、ラボーチキン、ミグのいずれかと推定されていました。
「ミグアレイ」という言葉があるように、ミグである事はすぐに判明したようです。

・МиГ-17 / MiG-17 Fresco(フレスコ) -1950

MiG-15の発展形がMiG-17でした。
MiG-17とMiG-15bisの違いは、翼厚が薄く、3枚の境界層制御板を持つ、後退角の強い主翼に換装したのみです。胴体結合部から中央までは45度、翼端までは42度とMiG-15の35度から、大きく変わっています。これにより、MiG-15の弱点であったM0.88以上における翼端失速が改善されました。
MiG-17Fでは、アフターバーナー付きВК-1Ф(VK-1F) 33.1kNに換装され最高速度は1,075km/hに向上しました。
なお、アフターバーナーの作動時間は3分間のみでした。短いと見るか、長いと見るかは見方によっては異なりますが、歴史上、空中戦の殆どは5分以内に決着がついています。
MiG-17Pではついにレーダーが搭載されたものの、照準器への連動も無く、能力は限定的で、同時に重量増により飛行性能は悪化しました。

・МиГ-19ПМ / MiG-19PM Famer(ファーマー) -1953

MiG-15からの伝統を引き継ぐスタイルのMiG-19ですが、性能は大幅に向上しています。
主翼の後退角は58度とさらに深くなり、オールフライングテールの採用、エンジンはアフターバーナー付きРД-40А(RD-40A) 32kNを双発で備え、最高速度はM1.33 1,455km/hに達し、ソビエト初の超音速戦闘機となりました。
本機はあまりに有名なMiG-15/17とMiG-21に挟まれ、東側機に興味の無い人たちには名前と超音速という程度しか知られていませんが、じつは、最初にNATOコードをつけられた戦闘機はこのMiG-19”ファーマー”でした。それ以前に西側に確認された機にも遡って名称が与えられました。
固定武装として主翼付け根に左右1門ずつ2門のNR-23 23mm機関砲を装備するバリエーションが多いのですが、写真のMiG-19PMはソビエト製ミサイリアーであり、レーダーを搭載した全天候能力を持ちますが機関砲を搭載していません。
その代わりК-5М(K-5M) "AA-1 Alkali"空対空ミサイルを最大で4発搭載しております。やっと空対空ミサイルの登場です。現代機らしくなってきました。しかしレーダーの性能も空対空ミサイルの性能も極めて限定的で、本MiG-19PMはあまり信頼されていなかったようです。
何処の国もミサイルを過信し機関砲を外して失敗しているのは同じという事ですね。

・МиГ-21ПФС / MiG-21PFS Fishbed(フィッシュベッド) -1956(原型機)

この機こそ説明は不要でしょう。MiG-21についての説明はカットし本機MiG-21PFSについて記述します。
MiG-21PFSはエアインテークにレーダーを搭載し、全天候戦闘能力(もちろん限定的)をもち、写真でも翼下に装備しているK-5Mアルカリ空対空ミサイルを最大で4発搭載可能です。が、機関砲を搭載しておらず、必要に応じ機関砲ポッドを搭載します。
噴出しフラップを持ち、また尾部にドラッグシュートを搭載、離陸補助ロケットが装備可能でSTOL性能の向上がはかられています。
博物館のガイドに、「展示しているMiG-21PFSは64年6月に生産され284飛行時間を記録し71年6月30日に博物館に来た」
って、書いてありました。

・МиГ-21бис / MiG-21bis Fishbed(フィッシュベッド)

案内板もガイドにも記述が無くMiG-21bisと判別するのに若干の時間が掛かりました。めんどくさー。
資料をあたって調べるめんどくさーが、帰国後の楽しみでも有ります。持ってて良かった世界の傑作機(・∀・)
MiG-21bisはシリーズの最終生産型。見分けのポイントは背中のふくらみのドーサルスパイン。
エンジンをР11Ф-300(R11F-300)からР-25-300(R-25-300)に換装し、A/B時推力は55.1kNから69.6kNと大幅に上昇。
改良が加えられる度に重重量化(bisで自重1t増)し飛行性能自体は低下しつつありましたが、bisにおいて歯止めが掛かりました。
とはいえ、上昇力、加速力等の面においては初期生産型のほうが上です。
また、レーダーの性能向上が行われ全天候能力も向上しました。
本機を原型に近代化改修型MiG-21-93、MiG-21-2000、ランサーといった機も誕生しています。

・МиГ-21 И/ MiG-21I Analogue(アナログ) -1968

残念ながらこの写真からではよく分からないのですがMiG-21Iはオージー翼を持つ、Tu-144開発にための主翼特性研究機です。
2機が製造されましたが、初号機は機動飛行中に墜落。本機は2号機です。
1968年4月18日に初飛行し、同年12月31日のTu-144初飛行においてエスコートを実施しています。
311回の飛行、200飛行時間(2機の合計)の実験を行いました。なお、写真の手前の大型機はTu-144です。
良好な機動性を発揮したため、戦闘機型の開発も検討されましたが実用には至りませんでした。


かろうじてオージー翼のわかるアングル。手前はMiG-29の尾翼、上はTu-144…何でこんなところに置くとね!?

・Е-231 / Ye-231 (MiG-23 Flogger フロッガー) -1967

本機Ye-231は可変後退翼戦闘機MiG-23の試作機です。ガイドには万能前線戦闘機と記述されています。
やっとソビエトにも目視外交戦能力を持つ戦闘機が登場です。レーダー視程は初期型で30km、改修型MiG-23Mの装備するハイラーク パルスドップラーレーダーの視程は80kmに達し、ルックダウン・シュートダウン能力も得ました。
主翼下にР-24 (R-24 AA-7 Apex)セミアクティブレーダー誘導AAM(射程20km)を搭載しています。しかし、その時すでにアメリカでは200km-300kmのレーダー視程を持つF-14やF-15、対戦闘機改修を受けた信頼性の高いAIM-7Fなどが配備されつつあり、登場時には既に相対的に能力不足でした。ダウングレードされた輸出型がこれらを相手に一方的に敗北を喫しています。
熱病の如く世界中で流行した可変後退翼は、手動切り替えで離着陸時及びロイタリング時は後退角16度、交戦時、機動を行う際は45度、超音速飛行時は72度と手動で切り替えます。

・МиГ-27 / MiG-27 Flogger(フロッガー) -1970

おお、F-1支援戦闘機がついにモニノに!
MiG-23を攻撃機化したMiG-27は、一見シルエットこそ同じですが、細部を見てみるとむしろ共通点を探す方が困難なほど異なっています。
その中でも最も特徴的なのは機首部が扁平になっている事です。本機は完全な対地専用レーダーを装備した事により、目視外交戦能力は無くなりました。カウンターエア能力は有りません。機首先端の窓はフォーン レーザー測距装置でレーザー誘導兵器への目標指示にも使用されます。このためピトー管は右側に移設されています。
非公式愛称はウツコノス(Утконос:Utkonos)。英語にするとプラティパス。カモノハシくんですね。

・МиГ-25П / MiG-25P Foxbat(フォックスバット) -1964

YF-12/SR-71との最高速度争い、F-15との上昇記録争い、シナイ半島におけるマッハ3.2の衝撃、
イスラエル・シリアの戦争におけるF-15の撃墜(未確定)、湾岸戦争におけるイラク唯一の空対空勝利であるF/A-18の撃墜、
イラク戦争における武装無人機(MQ-1)と有人戦闘機の初交戦そして撃墜、そしてベレンコ氏の函館亡命事件…。
数々の伝説に彩られたMiG-25は、私の最も愛するソビエト戦闘機です。
最近手に入れた1968年刊 「航空情報 世界のジェット戦闘機 仏・英・独・ソ編」によると(要旨抜粋)、
ミコヤン”フォックスバット”は、YF-12Aに対抗するようなマッハ3に達する速度を持つ機体で、MiG-23という名も伝えられている
ソビエト機には珍しい直線的で鋭いスタイルは工作の難しいチタニウム合金を全面的に使用した為と思われる
全長訳26.5m 全幅訳16.5m 全高訳6.1m(正確にはそれぞれ19.75m 14.0m 6.5m)
まさかチタンではなく重いスチールだったとは、多くのアナリストにとって思いもよらなかった事でしょう。
なお、本物のMiG-23のページにはミコヤン”フロッガー”と、NATOコードのみが記載されています。
本機は初期生産型で、かつ1973年に退役してるためMiG-25Pであると推定。ベレンコ氏の亡命によってIFFやレーダーなど最高機密を全てを晒してしまったため、レーダーやIFFに回収が施された型はMiG-25PDです。
なおガイドにはMulti Purpose Fighter すなわち多用途戦闘機と書かれています。

・МиГ-25Р / MiG-25R

MiG-25Rは偵察機型。現在においても高度8万ftマッハ3超での偵察機を迎撃する能力を持つ空軍は極めて限られています。
明日いきなり前触れも無く日本の領空を侵犯されてもF-15JやF-2では迎撃不可能でしょう。
もっとも、MiG-25では航続距離も足りませんしロシアには稼動機は有っても極少数ですので、その可能性はゼロです。
つい最近まで複座型の体験搭乗が可能だったようですが、現在では部品不足から終えてしまったようです。


デカ尻もMiG-25の魅力の一つ。エンジンが無いのが哀しい。

・МиГ-31 / MiG-31 Foxhound(フォックスハウンド)-1975

現役の戦闘機の中では最大の純・迎撃戦闘機。
MiG-25から発展したため殆ど同じシルエットを持ちますが、複座であること、また主翼にLEXの有無により見分ける事が出来ます。
世界初のフェイズドアレイレーダーを搭載した戦闘機であり、2008年現在のロシア空軍において唯一西側戦闘機に見劣りしない目視外交戦能力を持ちます。
MiG-25に比し高速度での飛行能力こそ低下しましたが機動性が向上(ただし、対戦闘機機動は厳しい)し、ルックダウン・シュートダウン能力、捜索10目標、同時ロックオン及び交戦4目標、複数機によるデータリンク、4発のP-33(R-33)セミアクティブ長距離AAMの装備と、より広範囲な防空能力を獲得しています。実用化はしませんでしたが、商業衛星打ち上げ母機、対衛星ミサイル発射機の構想もありました。


なんか、ロシア機って白黒のほうが似合うと思いませんか?

・МиГ-29 / MiG-29 Fulclam(フルクラム) -1977

MiG-29は合計3機が展示されていました。
ミグ最後(今のところ)の傑作機である本機についてもあえて語る必要は無いでしょう。ガイドには前線戦闘機と記述されています。
1980年頃には本機はRam-Kという名称で西側に伝わっていました。その推定性能は可変後退翼を持ち、二枚尾翼、最大離陸重量は30t級強力なレーダーにTWS能力F-14に匹敵する大型戦闘機であると見積もられていました。
出所不明の三面図やボケた写真一枚で性能を推定してたのだから仕方無いのですが、軽量小型のMiG-29とは全く正反対の予測です。
西側の情報に精通してる人間は限られてたかもしれませんが、明後日の方向の推測をしているのを見て笑った関係者も居たかも知れません。
”ミグ回廊”から外れた、スホーイとツポレフの間に展示されていましたが何故でしょう。

・МиГ-29К / MiG-29K

”ミグ回廊”の入り口付近に展示されていた艦載戦闘機型のMiG-29K。
インドで採用が決定しているMiG-29Kとは全く異なります。
ガイドには「1989年12月2日に航空巡洋艦アドミラル・クズネツォフに着艦しました。」と、書いてあるのに、すぐあとには
「1986年12月11日にモニノにやってきました。」と書いてある。どういう事よ。ヘ(゚◇、゚)ノ 


初期生産型のMiG-29 9-12。1986年にやってきたのはこの機でしょうか。

・Е-152М / Ye-152M (Flipper フリッパー) -1961

機種部にЕ-166(Ye-166)とかかれていますが、Ye-166は西側への欺瞞工作のための仮名であり、正式名はYe-152Mです。
本機は迎撃戦闘機の試作機で1961年のツシノエアショーにおいてミサイルを携行し登場したため、
西側にはMiG-23現ると観測されていたのですが、実のところ実用機では有りませんでした。
MiG-23という型番は罪作りですね。フリッパーに、フォックスバッドに、西側は何度も間違えていたのですから。
Ye-152は前述の通りYe-166として西側に知られており、1961年に100kmクローズドサーキットにおいて2401km/hの世界新記録を達成し、60年にF-4ファントムが記録していた2237.37km/hを上回りました。この記録は現在においても歴代二位です。
なお、この記録を達成したのはYe-152Aであり、本機では有りません(ガク…)。
ガイドには本機の記述は有りませんでした。

・МиГ-105-11 / MiG-105-11 Spiral (スパイラル) -1976

低軌道有人衛星からの脱出用宇宙船の、空力試験機です。Tu-95に搭載し高度5000mから切り離し着陸しました。
本機にはРД-36-35К (RD-36-35K) ターボジェット14.7kNが単発装備されています。
非公式愛称はлапоть:ラポット。靴の意ですが、ググるとスリッパみたいな物が沢山出てきます。形状から付けられたのでしょう。
スペースシャトル ブランの開発決定と同時に本機の役割は終了したようです。

■ヤコブレフ設計局 ОКБ-115 Яковлев / OKB-115 Yakovlev

看板にはSamolety OKB A.yakovleva. 航空機設計局 アレクサンドル・ヤコブレヴァと書かれています。
どうもパッとしない飛行機ばかりを生産し、“Yakたたず”などという陰口すら聞こえるヤコブレフですが、(すいません言ってるのは私だけでした)
冷戦初期にはミコヤンとタメをはる戦闘機を沢山設計したほか、中〜後期にはVTOL、旅客機など、数多くの機を世に送り出しました。
ヤコブレフほど広範囲の飛行機を設計した例は他に無く、その経験は冷戦後にも活きています。
ヤコブレフの社章 \≡ЯК≡/ カッコ良いとおもいませんか? 

Як-17 / Yak-17 Foather(フェザー) -1946

上半分がレシプロ機、下半分がジェット機のユニークなシルエットをもつYak-17ですが、それもそのはず。
レシプロ戦闘機Yak-3を原型にジェット化したのがYak-15、さらにそれを前輪式に変更したのが、本機Yak-17です。
ソ連最初の実用ターボジェット機で、初飛行は1946年4月24日。MiG-9と同じ日です。生産数も同等の430機が製造されました。
ツマンスキーРД-10А(RD-10A)ターボジェットエンジン出力は8.9kNを単発で搭載していますが、このエンジンはユモJu004のコピーです。
…というよりドイツから拉致した技術者に再生産させたものと言ったほうが正確でしょうか。
最高速度は751km/h、航続距離717km、実用高度12,750m、飛行時間1.6h。
固定武装はНС-23(NS-23)23mm機関砲を二門搭載で装弾数150発。非力なユモ004単発ではこの程度が限界でしょう。
同世代のMiG-9ははるかに高性能でしたが射撃禁止。レシプロ機にジェットをつけただけの急造戦闘機Yak-17は明らかな性能不足と、諸外国と比べジェット機の立ち上がりに遅れをとった事は否めませんでした。

Як-23 / Yak-23 Flora(フローラ) -1947

上機Yak-17から、より強力なクリモフРД-500(RD-500) 15.6kNに換装した機。RD-500はロールスロイス ダーウェントのライセンス生産品。
機体も再設計されており、機体構造は全金属製となり射出座席を装備と、大きく生まれ変わりました。
その結果、地表高度における最高速度932km/h、高度5000mにおいて913km/h、実用高度15,000mと、
推力不足に泣いたYak-17を大幅に上回る性能向上を実現しました。
後期のミーティアと同一のエンジンを単発搭載であるにも関わらず、ミーティアに匹敵する性能です(航続距離などは劣る)。
しかし、同時期ソ連では後退翼をもった傑作機MiG-15が登場。本機はその陰に追いやられる形で第二線級の戦闘機として少数が生産されました。

Як-25 / Yak-25 Flashlight(フラッシュライト) -1952

複座の亜音速夜間全天候迎撃戦闘機。初飛行は1952年6月19日。
後退翼、機首部の大きなレドーム、エンジンポッドと、ようやく古典的とは言え全天候戦闘機らしいシルエットを持ったヤコブレフ機。
ミクリンАМ-5А(AM-5A)ターボジェットエンジンは推力25.4kNで、最高速度は950km/h。AM-5強化型РД-9(RD-9)搭載機は1090km/h。
実用上昇高度16,500m、航続距離は3000km、Н-37(N-37) 37mm機関砲を二門搭載。また55mmロケット弾を装備する事ができます。
ソビエトはレーダーの開発に立ち遅れ、本機は搭載レーダーが無いまま就役しました。後部座席搭乗員は何をやっていたのでしょう。
55年のモスクワ ツシノエアショーにおいて展示飛行を行い、
「ど、どうだソ連だって全天候迎撃機が配備されてるだぞ。亜音速でレーダー搭載して凄いんだぞ(>_<)」
と、西側諸国に「ソビエトの全天候戦闘機現る!」と印象付けることに成功しましたが、
その実態はとりあえずレドームだけは付けてみただけの見てくれだけの迎撃戦闘機でした。
ようやく実用化、搭載したレーダーも火器管制装置と呼べるようなレベルではなく、簡素な捜索レーダーに過ぎませんでした。

Як-25РВ / Yak-25RV Mandrake(マンドレイク) -1953

Yak-25をアスペクト比の大きく、非常に長い10mもの直線翼に換装した高高度偵察機。初飛行は1953年3月1日
Р11В-300(R11V-300)エンジンを双発搭載し、実用上昇高度21,000m、速度870km/h、航続距離3,900kmに達しました。
1965年に2000kmクローズドサーキットで735km/hの世界記録を樹立とガイドには書いてあるのですがどうもFAI非公認。
FAI公認記録は1946年のF-80による708.592km/hから57年Tu-104による897.5km/hまで更新が有りませんでした。
ちなみに現在の記録保持機はTu-144による2012.26km/hです。

Як-27Р / Yak-27R Mangrove(マングローブ) -1960

Yak-25を原型とした超音速全天候偵察機で、機首部の写真偵察窓が特徴的。
エンジンはРД-9Ф(RD-9F)ターボジェットエンジン。推力35.9kN。
最高速度は高度11,000mにおいて1,285km/h、実用上昇限度16500m、航続距離2,210km。
23mm機関砲一門とAFA-CとAKAFU-3カメラを搭載。

Як-28Л / Yak-28L Brewer(ブリューワー) -1962

主翼に設置された降着装置など、一見Yak-25系列に似ている攻撃機/戦術爆撃機Yak-28Lですが、全く別の新規設計機です。
Р-11АФ-300(R-11AF-300)ターボジェット57.8kNを2発搭載。
最高速度1060km/h、写真にも搭載されている外部タンクを使用で航続距離3,740kmです。武装はНР-23(NR-23)23mm機関砲とウェポンベイに3000kgまでの爆弾類を搭載可。また”Initiative”-”Lotos”照準レーダーを備え、限定的ですが全天候の爆撃能力を持ちます。
また、迎撃戦闘機型も存在し、そちらはFirebarという別のNATOコードが振られています。
トップにも書きましたが、館内(屋外ですが)を案内してくれたおじいちゃんは本機のパイロットでした。

Як-36 / Yak-36 Freehand(フリーハンド) -1963

VTOL技術立証機。
可変式ノズルのツマンスキーР-28-300(R-28-300)を双発とリフトファンのツマンスキーРД-36(RD-36)リフトエンジンの3基を搭載。
最高速度1150km/h 航続距離450km。実用には程遠い性能でしたが次の開発機Yak-38の基礎研究機として大きな功績を残しました。
展示機は1967年7月10日にエアショーでロケット弾ポッドを搭載しVTOLデモンストレーションを実施し、ロシアのハリアー(ケストレル)が完成しつつあることを西側に示威しました。
この頃には既に戦闘機はミコヤン、スホーイの両設計局が台頭していたため、本機は当初ミコヤンによる設計と思われていたようです。

Як-38 / Yak-38 Forger(フォージャー) -1975

なぜか翼折りたたみ時と展開時の2機が展示されていました。
Yak-36をステップとして開発されたハリアーに次ぐ世界2番目の実用VTOL戦闘機であり、ソビエト初の艦載ジェット戦闘機。
登場当初、西側はYak-36MPという型式が推測されていました。後にYak-38であると判明します。
STOLができないという弱点から、航続距離700km。60分CAP時は戦闘行動半径わずか100kmというどうしようもない足の短さと、
パンフには700kgまで、他の資料にもせいぜい1000kg程度という貧弱なペイロードで、ロシア海軍すらどうすんのこれ…と
アタマを悩まされ、ハリアーになれなかったかわいそうな戦闘機。
「ど、どうだソ連だってVTOLつくれるんだぞ。4隻もあるキエフ級空母につんでるんだぞ(>_<)」と、脅すための戦闘機でしたが、
西側には早々から足の短さが推測され、限定的な能力しか持っていないことがバレていた上に、
肝心の空母は火災起こし退役(2番艦、4番艦)、機関故障で退役(3番艦)、改修中予算不足で退役(1番艦)。
張子の虎とはまさにこの事。
なんか、そんなソビエトはそんな戦闘機ばっかですね。でもそういうソビエト機が大好きなんです。

Як-141 / Yak-141 Freestyle(フリースタイル)

Р79В-300(R79V-300)ターボジェットエンジン108kNと、РД-41(RD-41)リフトエンジン42kN を2基の合計三発を搭載し、
Yak-38の倍に達する1400kmの航続距離とマッハ1.7の最高速度に、
ルックダウン・シュートダウンが可能なパルスドップラーレーダーによるBVR戦闘能力にマルチロール能力。
「ハリアーのまがい物」を脱した高性能なVTOL戦闘機。に、なるはずでした。
ソビエトの崩壊とともに実用戦闘機の歴史に名を残す事無く本機の開発は中止されました。実に残念。

Як-24 / Yak-24 Horse(ホース) -1952

最大30名の兵員を輸送することの出来るタンデムローターの大型ヘリコプター。ヤコブレフ最初のヘリコプターでした。
タンデムローターの技術的な問題が解決できずに主力大型ヘリコプター座をMi-6に奪われ生産は100機で終了しました。
Ash-82V Asvetsov1430馬力レシプロエンジンを双発搭載。
最高速度は175km/h 実用上昇高度は4200m ホバリング高度は2m 航続距離は265km 離陸重量14,270kg。
なお、本機は1955年12月17日に2000kgペイロードの上昇記録で5,082m、2,000m上昇ペイロード記録において4,000kgと、二つの世界記録を達成。この二つの記録ともYak-24が最初のレコードホルダーでした。が、翌56年には前者はMi-4に(6,018m)、後者はシコルスキーHR2S(6,010kg)に、大幅に上書きされています。
なお、現在のタービン機も含めた記録は前者はCH-54による9,595m、後者はV-12の31,030kgです。
超巨大機V-12はあとで出てきますよ(・∀・)

Як-42 / Yak-42 Clobber(クローバー) -1976

座席数120のリージョナルジェット。80年代〜のソビエトの短距離線で使用されました。
MAKSでこの発展型Yak-142が展示されており、まだ販売に望みを託しているようですが、このクラスの名機が他に腐るほどある上、そのロシアでも新型Su-100スーパージェットが有るというのに今更こんな三発機が売れるとは思えません。

■ラボーチキン設計局 ОКБ-301 Лавочкин / OKB-301 Lavochkin
第二次世界大戦終戦までは数多くの戦闘機を設計したラボーチキン設計局ですが、
冷戦期には試作機を大量に作るも実用機に至ったのはMiG-15と競合したLa-15(それも生産数は僅か)のみでした。
見る影も無く衰退してしまい、またラボーチキン氏本人の他界により1960年に設計局は閉鎖されてしまいました(後に復活)。
ジェット機以降がメインであるモニノにおいては展示機は僅かに2機種のみです。

Ла-15 / La-15 Fantail(ファンテール) -1948

フォッケウルフTa-183を肩翼式にしたような形状を持つ本機は1948年1月8日に初飛行しました。
TsAGI発の似たシルエットを持つMiG-15は前年12月30日に初飛行と、直接的なライバル関係にありました。
クリモフРД-500(RD-500)エンジン15.6kNを搭載。既出のYak-23と同一のロールスロイス ダーウェントのライセンス生産品です。
最高速度1,020km/h、実用上昇高度14,800m、航続距離1,170km、НС-23(NS-23)23mm機関砲を三門搭載。
MiG-15と同様の、より強力なクリモフРД-45(RD-45)を搭載した改修型はMiG-15よりもいくつかの点で勝る性能を発揮しましたが、
生産の容易さの面においてMiG-15が勝り、主力戦闘機の座を逃しました。
本機は1956年までに少数の235機が生産され、ラボーチキン最後の実用機として、ソ連空軍の第二線機として運用されました。
もし、本機が主力戦闘機として採用されていたならばソビエト機の代名詞はラボーチキンだったかもしれません。
でもミグに比べると語呂が悪いですね。

Ла-250 / La-250 Anakonda(アナコンダ) -1956

米の長距離戦略爆撃機に対抗すべく開発された、複座、全天候、夜間、長距離、超音速迎撃機。
リュルカ(АЛ-7Ф)AL-7Fアフターバーナー付きターボジェットエンジン 98.1kNを双発で搭載。
速度1800km/h、航続距離2000km、実情上昇高度17,000m。搭載を予定していた空対空ミサイル(名称未定)は対艦ミサイル並みでした。
本機の全長は26.8mと、現在現役の戦闘機よりも遥かに大きく、Tu-28(Tu-128)に次いで史上2番目に大きい戦闘機です。
予定していたクリモフVK-9エンジンが間に合わずAL-7Fを搭載したものの、推力不足と度重なる試験機の事故に悩まされ、
試作された3機のうち2機は大破。1956年から58年までに僅か21フライトを実施したのみで、実用化されること無く開発は終了しました。
なお目を引く垂れ下がったノーズは着陸時の事故で大破した1号機の教訓から得られたものです。
本機の開発を最後に、ラボーチキン氏の死去とともにラボーチキン設計局はその歴史に終止符が打たれました。

■スホーイ設計局ОКБ-51 Сухой / OKB-51 Sukhoi

看板にはSamolety OKB P.O Sukhogo 航空機設計局 パベル・O・スホーゴと書かれています。
スホーイはなぜかスターリンに嫌われており、Su-1からSu-17までナンバリングされたうち、実用機は僅かにレシプロ攻撃機Su-2が1機種のみ(それすらIl-2の影に)で、49年にはSu-17の墜落を機に設計局を強制的に閉鎖させられました。(粛清されずに済んだだけマシ?)
しかしスターリンの死後、53年に設計局は復活しました。再びナンバーを最初から振りはじめたため、Su-17までは同じ名前の完全に別個の機種が複数存在します。モニノに展示されていた機は全て復活後に設計されたものです。紛らわしいですね(#^ω^)

Су-7Б / Su-7B Fitter -1955

前述の通り、スホーイはスターリンに嫌われていたため、いきなり55年初飛行の超音速機から始まります。
記念すべきスホーイ最初のジェット量産機であるSu-7は前線超音速戦闘攻撃機として設計され近接航空支援、航空阻止攻撃などの戦術爆撃を主任務とします。Su-7BはSu-7系列の最初の量産型です。2000機あまりが生産されました。
音速を突破する事が最優先とされていたため、兵装はНР-30(NR-30) 30mm機関砲が2門140発、ペイロードは翼下および胴体下に最大4個所、2000kgで500kg爆弾を4発、もしくはロケットポッドを4基と、ペイロードがお世辞にも充実しているとは言えません。写真の機ではUB-16-57Uロケットランチャー(S-5ロケット弾)を2基と胴体下にボムラックが搭載されています。また、航続距離や離着陸性能も度外視されました。
そのため、戦闘機としても攻撃機としても中途半端な性能しか有りませんでした。
1956年ツシノエアショーにおいてはじめて公式公開され、西側に知られた当初はミコヤン機かと思われていたようです。
しばらく「円筒に後退翼」が続きます。スホーイ7系列祭りはじまるよー\(^o^)/

Су-7БКЛ / Su-7BKL Fitter

Su-7BKLはSu-7に比し主要な点で、胴体の延長、降着装置の強化、搭載燃料の増加、照準器の更新などが行われています。
写真を見比べると背中の張り出しやピトー管の位置など、細かい部分は大分異なっている事が分かります。
…搭載燃料を増やしたはずなのに、看板を見ると航続距離はSu-7B1380m → BKL 1200m (キロが抜けてメートルって書いてある)と短くなっているのは何故?しかも公式ガイドにはSu-7Bは1100kmと書いてあります。
カタログスペックなので多少の違いは有るにしても、せめて数字はあわせようぜ(ノ∀`)

С-26 / S-26 Fitter -1963

Su-7系列もこれで最後です。
降着装置に注目してください。車輪が無く、ランディングスキッドが装着されています。本機はスキーランディング型Su-7の試作機です。
2機が製造され、1963から1966年迄試験が行われ、その結果接地圧4-5kg/cm2で、軟弱な飛行場における作戦能力を得ることが出来ました。
ガイドには”operated on soft airfields”と、あえて雪上とは書かれていませんでしたが、勿論雪上での運用も可能です。と言うか、雪上以外で離陸できるのか…?泥濘地でも不可能そうな気が…。
試験は成功裏に終わったため、一部のSu-7BKLおよびSu-7BMにスキーが装備されポーランド空軍において実際に運用が行われました。
また、Su-17にもスキーを装備出来ましたが、こちらは行われなかったようです。

Су-9 / Su-9 Fishpot -1955

Su-7と同じ原型機から発展した迎撃戦闘機で、さらにTsAGIによるデルタ翼研究結果を取り入れているため、Su-7+MiG-21のようなスタイルをしています。本機の最大の特徴は優れた速度性能です。
研究機型T-405は1960年に100kmクローズドサーキットにおいて2,092km/hを記録。Ye-66(MiG-21)に次ぐ2位の記録を達成。さらにエンジンを強化したT-43-1は1962年に500kmクローズドサーキットにおいて2,337km/hを記録。F-4ファントムIIの1,958.2km/hを塗り替えました。
ソビエト防空軍の主力迎撃機として、実に2000機あまりが生産されました。固定武装は持たず、K-5"AA-1 Alkali"空対空ミサイルを最大4発のみ。写真ではミサイルが4発と増槽が搭載されています。ギア展開時に発射したら吹っ飛びそう。
Su-9は極めて安定性に欠ける致命的な欠陥を持っており、多数が飛行中に失われました。さらに稼働率も悪く、スホーイも認める欠陥機でした。他の迎撃機と同様にアルマーズレーダーの低性能(視程10-18km)とミサイルにも問題が有り、迎撃戦闘機としての能力は十分であったとは言えなかったようです。(それなのに2000機も生産して…代わりが無かったのもありますが)

Су-11 / Su-11 Fishpot -1958

Su-9の改修型がSu-11です。
Su-9用に新開発したオリョルレーダーが想定以上に大型化・重々量化してしまったため、Su-9に搭載する事が出来ませんでした。ソビエトは度々こうした問題を起こしており、エアインテークのショックコーンにレーダーを搭載に相当四苦八苦していた事が伺えます。
そのため、Su-11ためSu-9に比べ機首部がやや長く太くなっております。若干飛行性能は悪化しましたが、レーダー視程がおよそ2倍に長くなりました(30-35km)。また、搭載するミサイルのK-8"AA-3 Anab"も射程が15kmとAA-1の2-3倍になっています。ただし2発のみしか搭載できません。
ようやく迎撃戦闘機としてそれなりの能力を得たSu-11でしたが、生産数は僅かに108機とSu-9を代替はおろか補完するにも至りませんでした。
初飛行の操縦桿を握ったのはウラジミール・イリューシンです。

Су-15Т / Su-15T Flagon -1962

「円筒に後退翼」ではなくなりましたが、本機はSu-9/11の発展系の迎撃戦闘機です。胴体やデルタ翼など一部に従来のSu-9のシルエットを残しつつも、大きく異なります。機首部にレドーム、側面のエアインテークを持ち、これにより大口径のレーダーアンテナを搭載できるようになりました。
初期型はオリオールレーダー、本機Su-15Tはタイファン(タイフーン?)レーダーを装備し視程は40-50kmと、Su-9/11に比べ大きく高性能化しました。また双発化したことによりアフターバーナー使用時の推力重量比は1.0を越えました。加速力上昇力速度ともにSu-9/11を上回ります。
兵装は写真のAA-3アナブのみで機関砲の装備は有りません。後期改修型ではAA-7エイペックスの発射が可能となり、目視外交戦能力が向上しています。
後期型のSu-15TMはIR誘導型のAA-3?を使用し大韓航空機を撃墜しました。
初飛行の操縦桿を握ったのはウラジミール・イリューシンです。

Су-17 / Su-17 Fitter -1966

再び円筒に後退翼に戻ります。Su-7の改良型戦闘攻撃機でソビエト初の実用後退翼機です。
最大の変更点は主翼の半分から外側が可変後退翼になったことで、元来優れていた高速性能及び低空侵攻能力に対し弱点であった離着陸性能が、離陸1350m/着陸900mから1100m/700mと、短縮されました。失速速度は100km/h低下したとされています。後退角は28度から62度まで手動で行いますが、完全に離着陸専用です。
その他、ドーサルスパインが追加され、キャノピーの形状も変わり、シルエットが全体的にたくましくなりました。さらに主翼に2箇所のハードポイントも追加され、計6箇所のハードポイントに、最大3000kg(500kg爆弾を6発)まで搭載する事ができます。アビオニクスも一新されております。さらに空対地ミサイルХ-23(Kh-23) ”AS-7 Kerry(ケリー)”の運用も可能になりました。Su-7とは殆ど別の機体と言っても過言ではないでしょう。
初飛行の操縦桿を握ったのはウラジミール・イリューシンです。

Су-17М3 / Su-17M3 Fitter

Su-17の性能向上型。主翼固定部の中間に境界層制御板とR-60”AA-8 Aphid(エイフィッド)”AAM用ハードポイントが増設されました。アビオニクス増設のためコックピット後部のドーサルスパインが滑らかに盛り上がっている点も特徴的です。またSu-7から継続して搭載されていたAL-7Fエンジン系列推力94kNからAL-21F推力109kNに換装されています。
写真の展示機はロケット弾ポッド4基、対地ミサイルKh-23/AS-7 ケリーを2発搭載しており、その他Kh-23,Kh-25,Kh-27PS,Kh-29L,Kh-28など各種空対地ミサイル最大4,200kgまで搭載することが可能です。また396発のフレアディスペンサーを搭載する事も見逃せません。原型こそSu-7ですが、中身はもはや別の攻撃機です。
シドラ湾事件において本機の輸出型のSu-22Mを相手に、F-14が史上初の可変翼戦闘機同士の戦いに歴史的な勝利を収めた!!
とか、アメリカ海軍ははしゃいでましたが、当たり前だっていうの。これ元来攻撃機です(リビアは戦闘機として使用しましたが)。
しかも可変翼は離着陸専用。F-14に歯が立つわけが無い(´д`;)
そんな攻撃機を空母に接近させたリビアが悪かったですね。空対空ミサイルしか搭載してなかったようですが、仮に空母対し攻撃的な意図は無かったとしても、武装までレーダーで確認できるわけがありません。
ちなみにアフガン侵攻の際、地対空火器により多数が、パキスタン領内に侵入したためパキスタン空軍のF-16によって数機が撃墜されています。
また、湾岸戦争でもF-15に6機(Su-7含む)が撃墜されています。その時はイランに逃げようとしていたため非武装でした。
初飛行の操縦桿を握ったのはウラジミール・イリューシンです。

Су-17УМ3 / Su-17UM3 Fitter

Su-17UM3は練習機型です。ガイドにはこの機に関する情報は一切ありませんでした。
本機にはNR-30 30mm機関砲が搭載されていません。最近やってきた機でしょうか。

Т-4 / T-4 -1972

T-4は超音速戦略爆撃機の試作機です。
垂直に切り立った珍しい風防を持ちますが、離着陸時以外はノーズが稼動し前方視界はゼロになります。速度600km/h以下ではペリスコープを展開する事も可能です。また、当時としては珍しかったフライバイワイヤの採用(機械的なバックアップも持つ)など、比較対照にされるXB-70に比し先進的な点もありました。
最高速度3300km/h(Mach3.0) 巡航速度3000km/h 航続距離6000kmを目指し設計されましたが、1972年8月22日に初飛行から、75年までの試験中にM1.7の速度を記録したのみで終了しています。航続距離6000km/hでは米本土を爆撃してキューバに着陸するのも厳しいような気がしないでもありません。
本機は別名Su-100とも呼ばれますが、これは正式にスホーイ設計局によって命名されたものではなく、”100型”と呼ばれていた計画名から、慣例的にSuの100と、外部の人間が言い始めただけです。
最近開発されたリージョナルジェット Su-100スーパージェットとは当たり前ですが無関係です。勿論第二次大戦時の戦車駆逐車とも関係ありません。スホーイは違う飛行機に同じ名前つけるとか、同じ飛行機に違う名前つけるとか多くて紛らわしくて困りますが、本件に関してはスホーイは無罪です…(^^;
初飛行の操縦桿を握ったのはウラジミール・イリューシンです。

Т-6-1 / T-6-1 -1967

Su-24の試作研究機のうちの1機です。全体的なシルエットは似ているのですが、最も特徴的なのは主翼が可変後退翼ではなくダブルデルタ翼であるという事。主翼端にも注目です。
また、面白いことにSTOL用リフトエンジンРД-36-35(RD-36-35)推力25kNを4基搭載しています。
この当時は他にもMiG-21,MiG-23,Su-15,Yak-36など、やたらとリフトエンジンを搭載したSTOL(VTOL)型流行していました。勿論STOLの研究は世界中で行われていましたが、ソビエトほどリフトエンジンにこだわった国は他に例がありません。
もし量産型Su-24がリフトジェットを標準搭載していたら、2008年現在も主力戦闘爆撃機として君臨しておらず早々に退役してたでしょうね。
初飛行の操縦桿を握ったのはウラジミー(略)

Су-24 / Su-24 Fencer -1970

今でこそ大型機が主力となっているロシア空軍ですが、冷戦初期〜中期は一貫して軽量小型を旨としていたなか、従来の軽量小型を通したSu-17に対し本機Su-24は異例とも言える大型機です。やはり長距離低空侵攻能力に優れるF-111が欲しかったんでしょうね。設計思想はまさにF-111そのままといっても差し支えないでしょう(F-111のように空海共通戦闘機という当初の理念は有りませんでしたが)。
看板の記載も”戦闘爆撃機”ではなく”戦術爆撃機”としていることからも、その異例さが伺えます。
現代においても…むしろマルチロールファイター全盛の現代だからこそ、本機に匹敵する低空侵攻能力を持つ機種は殆どありません。
おまけ程度に搭載されている50kg 爆弾?が哀しい。
初飛行の操縦桿を握っ(略)

Су-25 / Su-25 Frogfoot -1975

ラケータ!ラケータ!シュトルモヴィク! ウラァァァァヽ(゚∀゚)ノ
С-8(S-8) 80mm*20ロケットポッドを8基総計160発という素敵な装備が施されているSu-25フロッグフット。
フライバイワイヤもHUDもレーダーも余計なものは一切無し。ただ、十分な支援が受けられない最前線の非整地滑走路からでも飛び立ち、近接航空支援を行う事のみを目的とした攻撃機です。
近接航空支援機としてはSu-7/17、Su-24では速すぎ、そして大きすぎるため、より低速で取り回しの効く小型機が必要であることが米空軍のA-10に触発され、気が付きました。
アメリカが、新しい概念の元に今までに無い機を設計すると、ソビエトはそれに追随するのがパターンですが、まさにこの機もその一例です。しかし、設計思想以外に類似点は全く無く独自の要素を加えた全く別個の機を短期間で作り上げてしまうソビエトは侮れません。
旧東側諸国に20カ国で運用が行われ、現在も多くが現役です。
Su-25の戦歴を語る上でアフガニスタンでの近接航空支援ミッションは欠かせません。頑丈で、稼働率が高く、機動性が良く、ペイロードも多いSu-25は最も信頼できるワークホースとして実戦投入されました。ストレラ(SA-7)やスティンガーの直撃を受けても帰還し、80個所の被弾を受けても帰還した例が報告されています。それでも23機あまりが撃墜されています。
なおSu-17の平均撃墜被弾数は15-20でした。もしSu-25が無かったら、3桁のSu-17が撃墜されていたかもしれません(そんなに撃墜される前に航空支援を止めるかもしれませんが)。
初飛行…もう言わなくても分かりますね?

Т-10 / T-10 Flanker -1977

Su-27の試作機。一見Su-27だけど、よく見るとどこがSu-27なんだと言えるほど異なっています。
この写真でも分かりやすいのは垂直尾翼の間隔が狭い事、エアブレーキが変な場所から出てる事、キャノピーの形状、主翼に前縁フラップが無い、境界層制御板がある、分かり難い場所では、主翼が滑らかなオージー翼になっている事など、多くの点が異なります。
ただこの機は飛行特性はあまりよろしくなったらしく、試作2号機は超音速飛行中急なピッチアップで空中分解、飛行性能も競合機であったF-15に何一つ及びませんでした。T-10を改修したT-10Sが現在のSu-27の原型となりました。
なお、西側はSu-27と確認されるまではスホーイの新型をRam-Lという仮称で呼んでおり、F/A-18クラスの小型〜中型機と推定していました。
当時の西側の推測図などをみると、F/A-18に似たようなものから、そのままF-15なものまで、様々です。
この機は最近塗りなおしたのでしょうか。やけに見た目が綺麗です。
もちろんウラジミール・イリューシンです。(これで最後)
ウラジミール・イリューシン氏はイリューシン設計局の設立者セルゲイ・イリューシン氏の息子ですが、スホーイ設計局でテストパイロットをしていました。大人になっても反抗期さんでイリューシン設計局とは一切関わっていません。

Су-35 / Su-35 Flanker -1955

ご存知”スーパーフランカー”Su-35。(むしろ後ろの巨大なMi-12ヘリコプターのほうが気になる写真です。)
本機はSu-35の試作機です。カナードが追加されたスリーサーフェス型”フランカー”のエアショー機動の凄まじさは皆さんご存知だと思います。
結局、このタイプのSu-35が量産される事は(今のところ)有りませんでしたが、蓄積された技術は後に続く近代化型Su-27系列戦闘機にフィードバックされました。
私が訪れたMAKS2007においてSu-35BMというカナード無し+スラストベクターの新型が展示されていましたが、本機との直接的な関係は有りません。

■ツポレフ設計局ОКБ-156 Туполева / OKB-156 Tupolev
戦前から現在にいたるまで、爆撃機や旅客機を多数設計・生産したソビエトの大型機の名門ツポレフ。ここで紹介するのも、全て双発以上の大型機のみです。(1機だけ戦闘機がありますがそれも史上最大)東側の爆撃機が、どのような進化を遂げたのかを知ることが出来ます。
なお、旅客機も紹介した以外でも何機か展示してあったのですが、大きな機の影にあったり、近くで見る事が出来なかったりと、見学が困難な状態にあり、紹介できませんでした。ガク…。

СБ / SB (ANT-40)-1935

エスベエ。長い事「S兵衛」かと思ってました。なんかP公とかペロハチみたいな感覚で。(^^;
多分そういう意味も含んでの愛称?で、あながち間違いでは無いでしょうが、「СБ」が「エス・べー」だと気が付いたのは実はここ数年。
なお、SBとは高速爆撃機の略称です。

Ту-2 / Tu-2 Bat(バット) -1941

第二次大戦中期に実戦投入された双発爆撃機。まずまず優秀な性能をほこり、2,572機が生産され独ソ戦後期の主力戦術爆撃機として使用されました。
この機の最大の特徴はなんと言っても監獄で設計されたという点でしょう。
ツポレフ氏は37年に「Me110の開発に有益な情報をドイツに渡したファシスト」という、意味不明な無実の罪に問われ、NKVDによって逮捕され投獄されていました。それにもかかわらず40年にはスターリンは新型爆撃機の設計をツポレフ氏に命じ、103獄中設計所(!)にて開発がスタートしました。無論自由に外部と連絡を取ることもできませんでした。どれだけ不便であったか想像すらつきません。
Tu-2が優秀だったため、氏はスターリン賞が授与されました。しかし、晴れて自由の身なったのはスターリン死後の53年です。
今更社会主義国やスターリンの狂気を確認するまでも有りませんが、本当、ソビエトと言う国は、それ自体が巨大な監獄とはよく言ったものです。

Ту-4 / Tu-4 Bull -1947

Yak-38はハリアーのまがい物だけどコピーではないし、MiG-15もTa183に似ててもコピーではない。コンコルドスキーはパクったかもしれないけど、微妙なオリジナルがある。でも、本機Tu-4”ボーイングスキー”だけはB-29の模造品以外の何物でも有りません。日本を爆撃後ソビエトに不時着したB-29をソビエトが接収、ツポレフにより忠実なコピーが行われました。
Tu-4を語る上で有名なジョークに「スターリンが厳命したから日本軍による高射砲の弾痕までもがコピーされている」なんていうのを聞いた事がある人も少なくないと思います。
もちろん根拠の無い出鱈目でしょうが、この発祥元ってソビエト自身のような気がします。ロシア人はこういう自虐ジョーク好きですからね。
なおTu-4はソビエト最初の核兵器搭載爆撃機でした。

Ту-16 / Tu-16 Badger(バジャー) -1952

ソビエト最初のジェット戦略爆撃機。最高速度1,050km、航続距離7,000km、ペイロードは9tの中距離爆撃機。
1955年のツシノエアショーで、なんと54機のTu-16が飛行展示を行い、アメリカを恐怖させました。
ペンタゴンは、ビエトに対して爆撃機が相対的に不足していると”ボマーギャップ”を唱え、B-52の大増産(250機予定から744機)に踏み切りました。実際のところ、エアショーに登場した54機は27機が2回フライバイしただけで、しかも中距離爆撃機であるTu-16には米本土への攻撃能力は無く、爆撃機の総数も質でもアメリカが上回っており、むしろ恐怖していたのはソビエトの方でした。ペンタゴン(+ボーイング)は、それを知ってて見当違いのボマーギャップを唱えていたのではないか。と、現在では言われています。
まったく軍産複合体ってやつは。┐(´ー`)┌ やれやれ (ソビエトよりマシですけどね)
現在でも中国の西安生産型、轟炸6が近代化改修を受けつつ、150機前後が中国空軍・海軍にて就役中で沖縄近海にも飛来しているようです。
オリジナルのTu-16は1509機が生産されましたが、ロシア及びソ連から独立した諸国からも全てが退役しています。

Ту-16К / Tu-16K Badger(バジャー)

Tu-16の海上攻撃機型。レーダーが換装され対水上能力が強化されています。
搭載しているミサイルはХ-10С(Kh-10S)”AS-2Kipper”対艦ミサイル全長9.5m 最高速マッハ1.2 射程300km ミサイルの推進力であるRD-9ターボジェットエンジンはYak-25のものと同一シリーズです。当時、アメリカ海軍の艦隊にとって最大の脅威でした。

Ту-95Н / Tu-95N Bear(ベア) -1952

空自のパイロットにもお馴染みの北のクマさん。中距離爆撃機のTu-16に対し、Tu-95は大陸間長距離爆撃機としてほぼ同時期に就役しました。4発のNK-12 15000馬力エンジンに、二重反転プロペラと、プロペラ機に似つかわしくない後退翼を持つ、言わずと知れた傑作爆撃機です。
航続距離16,000km、最高速度は925km/hと、プロペラ機としてはずば抜けて速く、ジェット機並みの速度を誇り、プロペラ推進機としては史上最速の飛行機です。ちなみに対地速度においては2003年にピアッジョ P-180アヴァンティがダラスフォートワース空港からアトランタ ハーツフィールド・ジャクソン空港の二点間飛行において平均927.4km/hのFAI公認ターボプロップ機世界記録を樹立しています。
本機Tu-95Nは一式陸攻よろしく特攻母機です。核弾頭搭載のラムジェット超音速特攻機”RS”を米国本土の手前で切り離し、離脱します。
ソビエトらしいというか、ソビエトならやりかねないというか…(モスクワ防空戦で特攻を主導した前科あり)。幸いにして開発は中止されました。
核戦争勃発したならば、そんな奇麗事など言ってられないという事でしょうか。アメリカだってその当時は核弾頭空対空ミサイル・ロケットなどを配備していましたしね。

Ту-22 / Tu-22 Blinder(ブラインダー) -1958

美しいと思いませんか?NATOコードも当初”Beauty(ビューティー)”という素敵な名前でした(後に美しすぎると改称)。
飛行機が飛躍的に高速する中、亜音速のTu-16バジャーを補完する目的で設計されたソビエト初の超音速戦略爆撃機です。
Tu-16に比し最高速度で1,050→1,510km/hと、大幅に高速化しましたが航続距離は7,200→4,900kmと、かなり短縮しています。これはあくまでもフェリー航続距離の数字です。超音速巡航した場合はさらに低下しました。
超音速爆撃機にしては珍しく後部に23mm機銃を搭載しています。子供の頃誰もが一度は頭を捻った事がある”弾丸の初速と同じ速度で飛行中、後ろに向けて撃ったらどうなるか”という実験が出来そうです。

Ту-22М / Tu-22M Backfire(バックファイア) -1955

可変後退翼を持った超音速中距離戦略爆撃機。
なんでこの機の名前はTu-22Mなのだろうと、飛行機ファンなら一度は必ず悩みますが、Tu-22”ブラインダー”との関連性は全く有りません。
Tu-22に比し最高速度は1,510km/h→2,300km/h、航続距離は4,900km→7,000kmと、大幅に性能が向上しています。
米ソ第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)において、本機のアメリカに対する戦略爆撃能力の有無について問題となりましたが、空中給油能力を除外する事により(対アメリカにとっては)戦略兵器外であるとされました。
現在のロシア空軍/海軍において数の面での主力戦略爆撃機となっています。
主翼下に展示されているミサイルはХ-22 (Kh-22)”AS-4 Kitchen”射程距離400km 速度Mach4 弾頭は1000kgTNTか350キロトン戦術核。

Ту-144 / Tu-144 Charger(チャージャー) -1968
(おいおい、頼むぜ。これじゃあSu-25の写真だよ(ノ∀`) )
ご存知夢の超音速旅客機コンコルド…のパクリのTu-144”コンコルドスキー”。
産業スパイがコンコルドの設計図を盗み、真似たというのが定説ですが、ざっと見ただけでも機首部、主翼の形状、エンジンの配置、写真では分かりませんが低速時におけるカナードなど、多くの点で異なります。また、先述のMiG-21Iによるオージー翼の研究機が本機に先行して研究ミッションを行っているなど、コンコルドを参考にはしたかもしれませんが、ソビエト独自のSSTの要素が無かったとは言い切れないでしょう。
ただ、MiG-21Iの初飛行はTu-144試作機の初飛行の僅か8ヶ月前に過ぎず、試作機は当然として、量産機への全面的な研究結果の適用は恐らくそんなには無かったのではないかと思います。
性能面では、コンコルドに対して、速度も、航続距離も、座席数も上回り、初飛行及び就航は僅かに数ヶ月ほどTu-144の方が先でした。退役にいたっては23年も先です。


下反角のたわみ具合が素敵。右下にかろうじてMiG-21Iが見えます。こんなところに有ってどうやって見ろと。
そもそもSSTなんて誰も望んでいませんでした。ただコンコルドに対して意地を張りたかっただけの、ソビエト最高の究極ハッタリ専用飛行機です。エアショー専用戦闘機MiG-9やYak-25の笑い話どころの比では有りません。もっとも、そのエアショー(パリ)においてコンコルドに負けじとハッタリかました結果、空中分解して墜落してしまいました。
よくよく考えてみるとコンコルドにしても、ブリティッシュエアウェイズもエールフランスも、本当はやめたくて仕方が無いのに今までの巨額の投資をムダにしたくない、今更やめられないという意地だけで飛ばしていたようなものですね。
夢のSSTが実現するのは、いつの日になるのでしょうか。飛行距離1万km 13時間とか苦痛以外の何物でも有りません。
ちなみに私コンコルドは近くで見たことが有りません。ヒースロー空港タクシー中にあれ、コンコルドやんけ!!と、見かけただけです(^^;
(書いた後に読み返してみたら、Tu-144という単語よりコンコルドの単語の方が多かったりする)

Ту-114 / Tu-114 Cleat(クリート) -1957

ソビエト製旅客機の中で、私が一番好きなのが、Tu-95”ベア”を旅客機にしたような(実際そうなんですが)このTu-114です。
没個性的な旅客機があふれる中、長い脚、下反角の後退翼、二重反転プロペラ、まるで爆撃手席のような航法士席と、特徴だらけで、美しさが感じられます。
巡航速度はベア譲りの870km/hとジェット並みの快速を誇り、座席は160-220シート、プロペラ機としては異例の性能を誇り、1961-62年の間に32の世界記録を打ち立てました。
また、本機はシベリア周り欧州行き路線を開拓した機としても知られています。1967年には羽田〜モスクワの直行便が就航しました。

Ту-128 / Tu-128 Fiddler(フィドラー) -1959

世界最大の迎撃戦闘機Tu-128。なんだか工事しており近くで見る事が出来ませんでした。
全長27.2m 全幅18.1mという数字はSu-27よりも全長が5m長く、全幅は4mも長いという桁違いの大きさです。
あまりの大きさに「戦闘機」という枠組みでどうしても見る事が出来ず、実感できません。
実際に本機がはじめて公式に公開された1961年ツシノエアショーにおいて、迎撃戦闘機と紹介されたようですが、桁はずれたその巨体から、その後も爆撃機の能力があるのではないかとか、様々な推測がされていたようです。
MiG-25の項でも紹介した1968年刊 「航空情報 世界のジェット戦闘機 仏・英・独・ソ編」によると、ヤコブレフ フィドラーという名称で掲載されていました。まさか戦闘機を作ったことも無いツポレフ設計局だとは思いも拠らなかったのでしょう。
何度か書きましたが、ソビエト戦闘機の基本的な設計は航続距離を捨ててでも軽量小型化し、加速力、上昇力などを重視するという思想にたって行われています。本機はその全く逆を目指し設計されています。
その大型化した目的の1つが高性能レーダー搭載のため。西側に比べ重く大きくそして性能の低いレーダーしか開発できなかったため、どうしても大型戦闘機が必要でした。また航続距離強化のための措置でもあります。航続距離3200kmは当時としては飛びぬけており、同じ年に初飛行したファントムIIは増槽3本付きで2600kmに過ぎません。
武装はR-4 (AA-5 アッシュ)中射程(10-20km)AAMでセミアクティブレーダー誘導型と赤外線誘導型がそれぞれ搭載されていますが、相変わらずミサイルの信頼性は低いものでした。

М-141 / M-141 -1964

Tu-141 戦略無人偵察機を原型とした標的機。愛称はStrizh:ストリージで、空軍のMiG-29アクロバットチーム”ストリージィ”と同じです。
試験のみで終了し生産には至りませんでした。
最高速度950-1,100km/h 航続距離1,000km 高度50-1,000m

■イリューシン設計局ОКБ-39 Ильюшин / OKB-39 Ilyushin
大戦時に伝説的な近接航空支援機Il-2シュトゥルモヴィクを設計した事で有名ですが、冷戦後はどちらかといえば軍用機よりも、旅客機の名門として名高いイリューシンです。
モニノには、あまり旅客機がありません。有るには有るのですが、あきらかに見学に適さない場所に追いやられてしまっています。
ですので、ここで紹介するのは殆どが軍用機です。

・ДБ-3 / DB-3 -1935

第二次大戦初期に使用されたイリューシン設計局製戦術爆撃機。DB-3とは、長距離爆撃機3号の意。
初期には金属木材混成でしたが、後期には全金属製になりました。また、本機はソビエト軍で最初にベルリンを空襲しました。

Ил-2 / Il-2  -1939

戦中のソビエト機の中ではもっとも有名なシュトルモヴィクですが、この状態どうよ。キャノピーのカバーを外してぇぇ(><;)
生産数は資料によって異なりますが36,000機以上。軍用機、民間機含めた全ての航空機の中で最多です。航空機が複雑化・高コスト化した現在、この機の生産数を越える飛行機は登場しないでしょう。
特徴は、ともかく頑丈ひたすら頑丈。付けられたあだ名が空飛ぶ戦車、朝食(のように必要)。さらにドイツ陸軍からは、黒死病と恐れられたというのは有名な話です。ただ、低速で運動性も戦闘機と比べて鈍いですから航空優勢が確保されてない地域に投入されドイツ空軍に大量にカモにされた事でも有名です。
頑丈さから、大量に被弾しても無事に帰還した例も多かったようですが、それでも後部銃座の搭乗員は真っ先に戦死することから、主に懲罰大隊送りにされた兵士が担当しました。

Ил-10 / Il-10  -1944

Il-2から発展した近接航空支援機で、第二次世界大戦終期に就役しました。この機もやたら頑丈で、被弾にも強く優秀な攻撃機でした。
朝鮮戦争時にも使用され、最初期(数日間)には北朝鮮版空地一体戦の一翼を担いました。
しかしIl-2同様に低速が弱点となり、国連軍に航空優勢を奪われた以降は大損害を蒙りました。低速の近接航空支援機は航空優勢有ってはじめて強力な攻撃力を発揮できるのであって、”航空劣勢”の下に低速のレシプロ攻撃機が入り込む隙は有りませんでした。
この戦訓から、超音速の前線戦闘爆撃機のSu-7が登場しました。が、しかし逆に高速であり、近接航空支援には不向きでした。
レシプロ機など、もはや時代遅れだという認識で早期に退役させてしまった結果、ソビエトは戦術爆撃を行う攻撃機が質的にかなり不足することになります。

Ил-28 / Il-28 Beagle(ビーグル) -1948

Beagleと聞き、アメリカの4.5世代双発複座全天候戦闘攻撃機の事かと思ってしまった貴方はストライクイーグル好きに違い有りません。
ソビエト初期の戦術爆撃機にして、現在に残る最後の戦術爆撃機。まるで、レシプロ爆撃機をそのままジェット化したようなスタイルです。搭載エンジンはMiG-15と同一のVK-1を双発搭載。最高速度876km/hでしたが、航続距離が僅かに2.400kmと、非常に短く、初期のジェット機らしい欠点を持ちます。
2007年の段階で中国には200機の現役機が有り(急速に退役中)、北朝鮮でもまだ少数が運用中のようです。

Ил-62 / Il-62 Classice(クラシック) -1963

VC-10スキー。Tu-114に代替する長距離旅客機として開発されました。
114〜186座席、最大航続距離6,700km 67年に就航し2008年現在でも少数が就航中ですが、そう長くは持たないでしょう。

■ミャシシチェフ設計局ОКБ-23 Мясищева / OKB-23 Myasishchev
あまり知られていない設計局なので、私が所持している書籍の中でもミヤシシチェフ、ミヤシチェフ、ミャシチョフ、ミシーシェフなど、本によって様々な表記があり、日本式の発音が定着していません。Sukhoiも今ではマスコミが使うスホイか、マニアや航空関連図書で使われるスホーイで定着していますが、昔はサクホイやスクホイ等とカタカナ表記されている時代もあったようです。今後も呼称が定着する事は無さそうです。

・Пе-2 / Pe-2 Buck(バック) -1939

ペトリャコフ設計局製の爆撃機。ソビエト版の金属製モスキート。
主にSBの代替機として、戦闘機型や爆撃機型など様々なタイプが、全タイプ合計で11,427機が製造されました。
最高速度は540km/hを誇り、レンドリースされていたホーカー・ハリケーンの護衛機がついて来れなかったというエピソードが知られています。
本機は急降下爆撃機タイプで、主翼下のダイブブレーキが特徴的です。
また、この機は第100獄中設計所で開発されました。そうなんです。またなんです。ツポレフ氏と同様、ペトリャコフ氏も大粛清の煽りを受け投獄されていました。フハハハハッハーソビエト連邦は本当地獄だぜー…。ハァ。
なお、ペトリャコフ氏はPe-2を自ら操縦中の事故により殉職しました。以降設計局はミャシシチェフ氏が主導する事となります。

3М / 3M (M-4) Bison (バイソン) -1953

モニノに訪れ見逃す人が多いだろう大型軍用機ナンバーワン。こんなのどうやって見ろと。
ミャシシチェフ自体があまり知られておらず、よっぽどの東側好きしか居ないというのに、さらに追い討ちをかけるようにこんな分かり難い場所に置いてあるものだから、なんだろー、見慣れない大型機があるなーでもいっか。で終わってしまいそうです。
さて、その3M”バイソン”ですが、初飛行は1953年で、バジャーやベアと同世代の戦略爆撃機で、バジャーの項でも触れた55年ツシノエアショーにおいて12機がフライバイし、軍産複合体によるボマーギャップ形成の出汁に使われました。
最高速度940km/h 航続距離9,500km 最大ペイロードは18,000kgと、性能的にはバジャーより遅いが航続距離とペイロードは多く、ベアより速く、ペイロードは大きいが、航続距離は小さいと、両者の中間点に位置しました。
中距離爆撃機はバジャーが、大陸間長距離爆撃機としてはTu-95がそれぞれ主流となり、本機は93機のみで生産が終了しました。


こちらはYak-25フラッシュライトでも掲載した写真ですが、後ろに写ってるのが本機です。
どこから見ても何かしらの飛行機が前にあり、クリアな写真どころでは有りません。

М-50 / M-50 Bounder(バウンダー) -1959

鋭い後退角をもったデルタ翼に、特徴的な取り付け方の4基のエンジンポッドを持ち、最高速度M1.8 2,000km/h以上、航続距離6,000km以上の性能を目指し開発された戦略爆撃機。しかし一度も音速を超えることが出来ず、実用化には至りませんでした。
最大の原因はエンジンの推力不足にあり、当初予定であったA/B無しで158kNの推力を出す新エンジンの開発が遅れたため既存のVD-7M(A/B付き157kN 内側の2基)およびVD-7B(A/B無し 92kN 翼端に2基)を搭載していました。
こんな存在感のあるカッコイイ爆撃機の影に3Mが居るから、さらに目立たなくなってしまうのです。しかし、障害物が本当邪魔ですね。

М-17 / M-17 Mystic(ミスティック) -1982

高高度偵察機M-17を簡単に説明するとソビエト版U-2ドラゴンレディですが、U-2よりも26年も後に初飛行しました。
戦略偵察機としての能力のほか、アメリカの無人偵察バルーンの妨害する迎撃機として開発され、最大離陸重量もU-2に比し一回り大きく、エンジンも双発で備えています。
しかし、ソビエトの情勢悪化と崩壊に伴い軍事用途には殆ど使用されることは有りませんでした。
派生型のM-55ジオフィシカが成層圏における研究用途機として使用されており、前日に訪れたMAKSに展示されていました。
ところで、なんでアエロフロートって書かれてるんでしょうね。

■アントノフ設計局ОКБ-153 Антонова / OKB-153 Antonov
An-124ルスランやAn-225ムリヤなど、貨物機メーカーとして名高いアントノフ設計局。現在はウクライナの国営企業です。
もちろんモニノに放置…もとい展示されている飛行機も全てが貨物機ですが、残念ながら近年のジェット貨物機の展示は無く、すべてターボプロップの旧式機のみです。

Ан-8 / An-8 Camp(キャンプ) -1956

4190馬力のAI-20Dターボプロップエンジンを双発搭載。尾部には23mm機関砲が2門搭載されています(ソビエトらしい)。
ペイロード11,000kg 速度450km/h 航続距離850km(短い!) 非整地滑走路での離着陸性能に優れています。
前線輸送機An-8は151機が生産され、50年代後半から60年代にかけて運用されました。
70年代には多くのAn-8がアエロフロートに移管され、その後もしばらく運用されました。なお全機退役済みです。

Ан-12 / An-12 Cub(カブ) -1957

4000馬力のAI-20Mターボプロップエンジンを4発搭載。尾部には、やはり23mm機関砲が2門搭載されています。
ペイロード20,000kg 速度670km/h 航続距離3,600km 1,248機が生産された大型輸送機(当時としては)です。
旧社会主義国およびアフリカ諸国で軍民広く運用されており、現在も100機近くがアフリカで現役中ですが、
老朽化から事故が多発しています。

Ан-24 / An-24 Coke(コーク) -1959

貨物機ではなくエアライナーです。巡航速度450km/h 航続距離2,000km 座席数40-50席。
2006年まで日本最後の国際便のプロペラ旅客機として函館〜ユジノサハリンスク線に就航していましたが、衝突防止装置が無いため安全基準を満たせず、運行は終了しました。現在日本へ就航中の定期便は有りません。

Ан-22 / An-22 Cock(コック) -1965

愛称”アンテイ”(英語名アンティス)と呼ばれる本機は1968年にC-5Aギャラクシーが初飛行するまで世界最大の輸送機で、当時既にアメリカで運用中であった4発ジェットのC-141スターリフターよりも巨大でした。15,000馬力のNK-12Nターボプロップエンジンを4発搭載し、二重反転プロペラを装備の特徴有る推進装置をもちます。
本機の記録した最大ペイロードはなんと100,000kg!100トンの荷重を7,848mまで持ち上げました。一度の飛行で35,000kg 40,000kg 45,000kg 50,000kg  〜〜100,000kgまでの14個のターボプロップ機部門の世界記録を達成しました。
速度も、クローズドサーキット2,000kmペイロード50,000kgで593.32km/hに達し、こちらもペイロード30,000kg〜50,000kgまでのターボプロップ機部門での記録を保有しつづけています。またクローズドサーキット5,000km部門でもペイロード30,000kg 35,000kg 40,000kgで597.283km/hに達し、やはりこれも現在も世界記録となっています。
ちなみにNATOコードのコックとは、おちん……の意。
「あーこの新型輸送機のコードネーム何にしようか。」
「だりい。おちん○×でいいよ。頭文字Cだし問題ないだろ。ゲラゲラ」
「ウハハハハ、じゃあこいつおちん○×な!」
こんなやり取りがあったに違いありません。

■ベリエフ設計局ОКБ-49 Бериева / OKB-49 Beriev
大小多くの飛行艇を生産している水上機メーカーの名門ベリエフ。1934年に開設され、
現在に至るまでユニークなジェット飛行艇や表面効果機エクラノプランを開発している事で知られています。

Вэ-12 / Be-12 Mail(メイル) -1960
(バラライカが邪魔)
そのガル翼から”チャイカ”すなわちカモメという愛称を持つ中型飛行艇。
捜索救難用、対潜哨戒など、多用途水上飛行艇として150機が生産されました。
消防飛行艇としての再設計機の販売に意欲を見せており、もし新明和工業US-2の輸出が開始された場合、やや小型の本機は強力なライバルになるかもしれません。

ВВА-14М1П / VVA-14M1P -1976

ソビエトの開発した変態表面効果機WIG。カスピ海の怪物”エクラノプラン”
主翼がぶっ飛んでます。酷い。しかも巨大なAn-22の後ろで、とても見学どころではありません。
本機はSLBMを搭載した戦略原潜を駆逐する対潜哨戒機として設計され、カスピ海で試験が行われました。
表面効果を利用すると揚抗比が非常に有利になります。北極海の海面スレスレを飛行する事により、長距離を亜音速で飛行し、速やかにソノブイや対潜魚雷、爆弾を投下する事ができ、またMADも搭載するはずでした。
また、RD-36-35リフトターボファン25kNを12基(誤植じゃないです!)搭載しVTOLが可能になるはずでした。(搭載前に試験が終了しました)
まさにカスピ海のモンスター……。(リフトエンジンはスホーイT-6やYak-38と同じシリーズです。)
通常推進用にD-30Mターボファン67kNを双発搭載、最高速度760km/h 航続距離2450km 上昇限度10,000m
残念ながらカスピ海の怪物は北極海の怪物になることが出来ずに開発は中止され、ここモニノに放置されています。
なおPS2のゲームソフトメタルギアソリッド3 (MGS3)の最終局面で登場したWIGがまさにこれです。
つーかVTOLしろよ…ああリフトエンジン未搭載。つーかフライバイワイヤなのにヨーク重そうにするな(ゲーム中の話)

■ミル モスクワヘリコプター工場 Московский вертолетный завод им. М.Л. Миля / Mil Moscow Helicopter Plant
ロシアの代表的なヘリコプターメーカーのミルは、広くミル設計局と呼ばれておりますが、正しくは設計局ではなく、ソビエト時代からモスクワミルヘリコプター工場と呼びます。しかし、ガイドにすらMIL design bureauと書かれていますし、設計局の名は完全に定着していますので、無理に間違いとする必要も無いでしょう。
ミハイル・ミル氏によって1947年に創立。多種多様なヘリコプターを生み出し、ミルの歴史はヘリコプターの歴史、すなわちヘリコプターの歴史はそのままミルの歴史であると言っても、決して過言では無いでしょう。
しかし、モニノでのヘリコプターの扱いは酷く、展示されているというよりも、纏めて放置されているといった方が適切と思える不遇っぷりです…。ガイドに記載されてるのに、どこにあったの?というヘリも…。


Ми-6 / Mi-6 Hook (フック) -1957

大型輸送ヘリコプターMi-6フック。5枚の巨大なローターに、なんといっても目に付くのは巨大な固定翼です。
いかにもペイロードが多く、速そうな外見をしていますが、その期待を裏切る事無く、1962年には最大20,117kgのペイロードを記録。1964年には340.15km/hの速度性能を記録し、どちらも世界一の数字でした。
二つの記録は後に更新されてしまいましたが、現在でもクローズドサーキット100kmペイロードなしで340.15km/h、クローズドサーキット1,000kmペイロード1,000kgで300.38km/h ペイロード2,000kgで同じく300.38km/h ペイロード5,000kgで284.35km/hの速度世界記録を保有しています。

Ми-6ВзПУ / Mi-6VzPU Hook (フック)

Mi-6の空中地上戦指揮機。側視レーダー搭載らしいのですが、どこにアンテナがあるんだ?


Mi-6VzPUの看板ですが、
Mi-6V3LUで、ずーーーっと、無い、無いよーと探し回ってしまいました。
どうみても”зではなく3” ”П(P)ではなくЛ(L)”と書いてるように見える…というかそう書いてある。
これ誤植だろっモニノめーっ(つд`;)

Ми-6ПОЖ / Mi-6POZh Hook (フック)

Mi-6の消防型。機首部に水噴射ホースが突き出ています。また、特徴的な肩翼式の主翼が有りません。
消火水のペイロードは12tです。

Ми-12 / Mi-12 (V-12) Homer (ホーマー) -1968

でました史上最大のヘリコプター!
ヘリコプターに似つかわしくない翼の先端に計4基の6,500馬力D-25VFターボシャフトエンジンを搭載し、
全長37.0m 全高12.5m 乾燥重量ですら69,100kg!直径は35.0mの巨大なサイドバイサイドローターを備え、翼の下にはMiG-29とSu-35を従えるその雄姿には、思わず見とれてしまいそうです。
デカイともかくデカイ。これをヘリコプターと言う概念で見ることは不可能!ウラー!
最高速度は250km/h 航続距離は1,000km そしてなんと言ってもこの機体の最も誇るべき性能はペイロードであり、1969年には8個のFAI公認世界記録を打ち立て、現在も4つの記録は破られていません。
記録した最大のペイロードは40,204.5kgで、2,255mまで上昇しました。このときの離陸重量はなんと105tです!化け物だ。
勿論ペイロードも最大離陸重量も本機を上回るヘリコプターは今のところ存在しません。
T-72戦車が41tなので、無理すれば搭載できそうです(容量は考えていません)。大量生産の暁には空中機甲師団を創設できそうです。想像してみてください。巨大ヘリコプターが群れを成し前線へやってきて、多くの主力戦車を展開する光景を!
なんかSFっぽい響きがありますが、残念ながら量産される事は有りませんでした。
そもそも打撃力、機動力、防御力が特徴の戦車を、機動力向上のため他の二つを捨てヘリコプターに搭載し、最前線に出るなど、本末転倒ですね。
そうだMi-12を装甲攻撃ヘリコプターにすれb(以下略)

Ми-24А / Mi-24A Hind (ハインド) -1969
桜?が邪魔すぎる(#^ω^)
ハインドっぽいけどハインドじゃないような…と見た瞬間感じてしまいますが、本機は間違いなくMi-24ハインドです
Mi-24AハインドAはMi-8ヒップから派生した攻撃ヘリコプター型で、通常の対戦車ヘリコプターよりも遥かに巨大で、兵員及び物資輸送能力を持ちます。航空支援と機動展開を1機のヘリコプターで実施するという、ユニークな発想から生まれ、俗に強襲ヘリコプターとも言われています。
よく言えば万能ヘリコプターなのですが、やはり攻撃ヘリコプターとしては機動性に欠け、輸送ヘリコプターとしてはペイロードに欠け、悪く言えば中途半端と言わざるを得ない機でした。
「戦闘国家・改」というシミュレーションゲームでは輸送能力と攻撃能力を兼ね備え、航空優勢さえあれば非常に強力なユニットでしたが、それは現実も同じで、アフガニスタンでは頑丈さと火力を兼ね備えた強力なヘリコプターとしてムジャヒディンに恐れられました。
しかしアメリカによるアフガニスタンへの武器援助が始まると状況は一変します。最終的にソビエト軍は333機のヘリコプターが撃墜され、その殆どがMi-24であったと言われています。

Ми-24Д / Mi-24D Hind (ハインド)

コックピット周りが一新され、攻撃ヘリコプターらしくなりました。多くの人がハインドと聞いて想像するシルエットはこちらだと思います。
機首部に機銃や各種センサーが増設され…ってどう見ても有りません。取り外されてしまったようです。
D型以降、ハインドは徐々に機動展開が可能な強襲ヘリコプターとしての能力よりも、攻撃ヘリコプターとしての能力が重視され始めます。

Ми-26 / Mi-26 Halo (ヘイロー) -1977

実用ヘリコプターとしては史上最大の大きさ・ペイロードを誇るMi-26。
実用には至らなかったヘリコプターをを含めてもMi-12に次ぐ史上2番目の巨大さを誇る化け物ヘリコプターです。
11,240馬力のD-136ターボシャフトエンジンを双発で搭載し、機体を支えるメインローターも8本のブレードを持つ容姿は圧巻です。
最大ペイロードは25,000kgで最大離陸重量は56,768.8kgに達します。なおこの状態で4,100mまで上昇しています。
参考までに西側最大のヘリコプターCH-53の最大ペイロードは15t、C-130ですら20tです。まさにヘリコプターの大艦巨砲主義!
本機は軍事用途だけではなく、民間用貨物ヘリコプターとしても販売されており、競合機が無い事から大型機市場を完全に占有しています。
ちょうどこの文章を執筆する僅か1ヶ月前の08年5月12日発生した四川大地震においても、土砂崩れによって生じた天然ダムの除去を行うための重機の輸送に活躍しています。がんばれヘイロー。

■レンドリース機
第二次世界大戦中、アメリカにおける武器貸与法(レンドリース法)に基づき、ソビエトに有償供与された兵器の一部も、機種は僅かですがモニノに展示されています。なお、戦後の冷戦のため、ソビエトは莫大な債務を一方的に踏み倒しました。
後にごく一部のみ償還しましたが、現在のロシア政府は「返済は完了した」という見解を見せており、実質的な債務不履行状態が続いています。有償供与総計は以下のとおり(英語版Wikipediaより) 

飛行機 14,795
戦車 7,056
ジープ 51,503
トラック 375,883
バイク 35,170
トラクター 8,071
銃砲 8,218
マシンガン 131,633
爆薬 345,735 tons
建造物設備ドル換算 $10,910,000
鉄道貨車 11,155
気動車 1,981
貨物船 90
対潜艦 105
魚雷艇 197
船舶用エンジン 7,784
食糧 4,478,000 tons
機械設備ドル換算 $1,078,965,000
非鉄金属 802,000 tons
石油 2,670,000 tons
化学薬品 842,000 tons
木綿 106,893,000 tons
49,860 tons
タイヤ 3,786,000
アーミーブーツ 15,417,001 pairs

どう安く見積もっても数兆円…。
今ロシアは好景気だからいい気なもんですが、こういう信用を軽視する国(人間も)はいずれ本当に困ったときに足元見られる事になります。
日本には昔から「ロシアは信用するな」という合言葉が伝えられています。お金の貸し借りは計画的に?

・P-63A King cobra (キングコブラ) -1942

ベル製戦闘機。ソビエトでの愛称はコブラシュカ。 日本語でコブラたん?
P-39エアラコブラの大型再設計型。高高度での速度・上昇力が飛躍的に向上しました。最高速度660km/h。
エアラコブラから引き継ぐ、ユニークなエンジン後部搭載に、プロペラ同軸の37mm機関砲と12.7mm機関銃2門
それと写真の機は装備していませんが、主翼下にさらに12.7mmを2門装備できました。
米陸軍ではP-38,P-48,P-51の高性能機に押され殆ど装備されず、総生産数3,303機のうち2,421機がソビエトに引き渡されました。
またP-39エアラコブラも4,758機が引き渡されています。

・A-20 Havoc (ハボック) -1938

ダグラス製軽爆撃機。
生産数は7,478機。うち約半数の3,125機がソビエトで使用され、主に近接航空支援機として運用されています。
速度546km/h 航続距離1,700km ペイロード1,900kg。固定武装7.7mm機関銃×4門
ペトリャコフPe-2とほぼ同程度の性能。

・B-25 Mitchell (ミッチェル) -1940

ノースアメリカン製中爆撃機。総生産数9,984機のうち866機がソビエトに引き渡されました。
米のドゥーリットル中佐指揮する16機のB-25が、空母ホーネットから発進し日本本土発空襲を行ったのは有名です。
この機にはB-25の大きな特徴である合計6門の前面12.7mm機関銃が装備されていません。
訓練用機か何か研究用途で使用したのでしょうか?


次回こそ本当に最終更新!
カモフ、リスノフとミルの続きなどを予定しています。
お楽しみに。

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主な参考資料
 ・モニノ公式ガイド及び看板
 ・航空ジャーナル ソ連ジェット戦闘機(上・下)
 ・航空ジャーナル 世界の軍用機1980
 ・イカロス 戦闘機年鑑2001-2002
 ・イカロス 戦闘機年鑑2000-2001
 ・原書房 現代の航空戦
 ・航空情報 世界のジェット戦闘機仏・英・独・ソ編 1968年7月増刊号
 ・世界の傑作機 各号
 ・ソビエトの航空戦
 ・空軍 軍用機の思想とその用法
 ・世界の駄っ作機
 ・グーグル先生
 ・Federation Aeronautique Internationale
その他。


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