金剛型 戦艦


「金剛」(こんごう)型はもともとは、日露戦争直後から戦後に掛けて装甲巡洋艦として構想されていたものを、構想を改め英国の当時世界最新最強と歌われたライオン級戦艦の強化改良型として設計した艦であり、太平洋戦争で最も活躍した日本海軍の戦艦である。

第一次世界大戦以前、日本海軍では弩級艦の建造に乗り遅れていた。金剛型はその遅れを挽回すべく、一気に当時の水準を超えた巡洋戦艦を保有しようと計画された。
主砲として船体中心軸上に当時としては最大級の45口径35.6cmの連装砲塔4基を持ち、副砲も強化された15.5サンチ50口径単装砲16基を装備、防御甲鈑には初めてヴィッカーズ甲鈑を採用、舷側水線装甲の厚さ203mm、防御甲板装甲の厚さも70mmを誇り、主機は直結タービン2機、出力640,000馬力で27.5ktを発揮した、竣工当時は世界最強の巡洋戦艦であった。その為、第1次世界大戦時、イギリスから金剛型4隻をヨーロッパ戦線に投入することを希望する打電があったと言われるぐらいである。

金剛型は日本海軍にしては珍しく4隻が建造され(基本は同型艦2隻で建造)、1番艦「金剛」は造船・造機・造兵技術輸入の目的で英国ビッカース社で建造れ、2番艦「比叡」は横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」は川崎重工業艦船工場、4番艦「霧島」は三菱長崎造船所で建造され、1913年から1915年にかけてそれぞれ竣工した。
「金剛」は外国で建造された最後の日本戦艦であり、「榛名」と「霧島」は民間で建造された初の戦艦となった。その為三菱と川崎はお互いの社運を掛けて建造を行い、起工では三菱側の「霧島」が1日遅れ、進水は逆に「霧島」の方が満潮の関係もあり2週間早く進水させた。その為川崎側の神経を尖らせ、後に「榛名」の予定が遅れた際には、川崎の造機部長が自刃するなどの悲劇も生み、その競争は熾烈を極め、最終的に竣工日が同じになった。

その後、各艦とも主砲の仰角向上と艦橋の高層化を行い遠距離砲撃能力向上などの小改装を経て、昭和初めに大規模な第一改装を行った。改装内容は缶の重油専焼缶へ換装を中心に、艦橋の近代化・水平防御力の向上、バルジの装着による水中防御の向上・7.6サンチ単装高角砲7基・水偵3機の搭載し、その一方で水中魚雷発射管8門中4門の削減などを行ったが、速力は26ktに落ち艦種も巡洋戦艦から戦艦へ変更した。しかし最後に改装工事を行っていた「比叡」が、ロンドン軍縮条約による戦艦の削減決定により、練習戦艦に格下げとなり速力は18ノットに落とされ、各種装甲板と第4番砲塔も撤去された。
次に「比叡」以外の3艦は昭和8年から順次第2次改装を行い、ボイラーと主機の換装により30ktの高速戦艦となり、兵装関係では副砲の仰角引き上げによる砲戦距離の増大(その代わり16門中2門撤去)・対空兵装の近代化(12.7サンチ連装高角砲4基へ・25mm連装機銃など)・航空兵装の改善・後魚雷発射菅の撤去・砲戦指揮施設の刷新などを行った。(ただし改装時期により多少の差異があるり必ずしも同一の改装内容ではない)。

また練習戦艦に格下げになっていた「比叡」も、昭和12年からの無条約時代に対応し、昭和11年11月から改装作業を行った。内容としては「比叡」に対して実施されなかった第1次・第2次改装と、極秘裏に建造中の超大型戦艦「大和」型に搭載される各種機材の事前実験艦として使われた為、他の3艦に比べ多少近代的な艦影となり。基本的に「金剛」型4艦はこの姿で太平洋戦争に挑むことになる
昭和11年には「金剛」「榛名」「霧島」に改装予定の「比叡」を合わせて4艦で昭和8年以降欠番となっていた第3戦隊を再編成し、艦隊決戦時は、金剛型の速力を利用して、主力艦隊前衛として行動する重巡戦隊の掩護として第3戦隊を使用する考えであったと言われている。

しかし、太平洋戦争が始まると、第3戦隊は第1小隊と第2小隊に別れ(ただしペアの艦は一定ではない)、第3戦隊第1小隊の「比叡」と「霧島」が真珠湾攻撃に参加したのを初めとして、南方戦線など各地でその速度を活かして活躍した。金剛型は空母に随伴可能な速度をもつ唯一の日本戦艦として重宝されることになる。
1942年3月1日には「比叡」と「霧島」が米駆逐艦エドソールをジャワ南方で撃沈し、太平洋戦争において、初めて日本戦艦が敵艦を撃沈した事案になった。
その後第3戦隊は「金剛」・「榛名」の2隻体制となり、残った「比叡」「霧島」で太平洋戦争開戦時欠番となっていた第11戦隊を再編成し、より柔軟した運用を行うようになる。

金剛型のもっとも目立った活躍は1942年10月13日夜のガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する砲撃であった、栗田中将指揮下の第3戦隊「金剛」「榛名」以下の艦隊が新型の3式弾を始め35.6サンチ砲弾数百発をヘンダーソン飛行場に叩き込んで一晩で潰滅させた。
その1月後の11月12日〜15日にかけて、今度は阿部中将率いる旗艦「比叡」僚艦「霧島」以下の艦隊が、夜間のガダルカナル島への砲撃に向かったが、アメリカ軍に捕捉されて戦闘となった。この「第三次ソロモン海戦」と呼ばれる戦いでは、双方とも想定していなかった夜間での近距離での海戦となり「比叡」が近距離から米重巡などの砲撃を受けて、舵を損傷し制御不能になってしまう。
翌朝曳航を試みるもヘンダーソンからの航空攻撃により被弾し、浸水が増し曳航不可能と判断され自沈処分となり、太平洋戦争における日本海軍戦艦損失第1号となった。その翌日連合艦隊命令により「霧島」以下の艦隊で再度夜間ガナルカナル島砲撃を実施しようとしたが、今度は新鋭戦艦「サウス・ダコタ」と「ワシントン」2隻を含む米艦隊を相手に戦い、重巡と共同で戦艦「サウスダコタ」を大破させたが、戦艦「ワシントン」の砲撃によって少なくとも40cm砲弾6発を受け「霧島」も撃沈された。その為この2日間だけで第11戦隊は壊滅してしまう。
このガダルカナルに対する砲撃は、対艦攻撃が主とされていた戦艦が沿岸施設に対する砲撃にも利用できることを証明し、以後のアメリカ戦艦部隊でも行われるようになった。

残る「金剛」「榛名」の所属する第3戦隊は1944年6月第2艦隊に所属しマリアナ沖海戦に参加、「榛名」が空母護衛中に、アベンジャー艦攻の投下した250kg爆弾によりスクリュー1本が故障し終戦時まで3軸推進となるなど、多少の被害は出たものの無事生還した。続く1944年レイテ沖においても、「金剛」「榛名」はよく働き、護衛空母「ガンビア・ベイ」や護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」などを、他の艦艇と共同で撃沈する戦果を上げたが、作戦自体は失敗し艦隊の多くが損失してしまう。
その後本土へ帰国途上の1944年11月21日に台湾海峡において「金剛」に米潜水艦「シーライオン」の魚雷6発中2発が命中し、傾斜による第1砲塔の砲弾の爆発により沈没した。この時、「金剛」乗員1600名中第3戦隊司令鈴木中将・艦長島崎少将以下1300名が艦と運命を共にしている。残った「榛名」は無事内地に帰還したものの内地の燃料枯渇などにより以後行動の余地はなく、予備艦となり、終戦直前に呉で爆撃に遭い、大破着底して終戦を迎え、戦後解体された。

金剛型は太平洋戦争時の日本戦艦として最も旧式であり、攻撃力や装甲も目立って優れていなかった。しかし、その優れた速度は柔軟な運用を可能にし、多数の戦場へ赴くことができたため、日本で最も活躍した戦艦でもあった。

性能諸元

艦名 金剛(竣工時) 金剛(最終改装時)
全長 214.6m 219.4m
全幅 28.0m 31m
喫水 8.1m 9.72m
基準排水量 26330t 31720t
常備排水量 27500t 35740t
機関 タービン ボイラー重油缶
出力 64000HP 136000HP
最大速度 27.5kt 30kt
主砲 45口径35.6cm連装砲×4
副砲 15.2cm50口径単装砲×16 15.2cm50口径単装砲x14
対空兵装 4.6cm40口径単装砲12基 12.7cm連装高角砲x4
25mm連装機銃x10
対艦兵装 53.3cm水中魚雷発射管8門
艦載機 0機 水偵 3機
乗員 約1221名 約1120名
造船所 英国ヴィッカース社
起工 1910年1月17日
進水 1911年5月18日
竣工 1913年8月16日

同型艦

●金剛

1番艦。
起工1910年1月17日。
進水1911年5月18日。
竣工1913年8月16日。
1944年11月21日に米潜水艦の雷撃で沈没。

●比叡

2番艦。
起工1911年11月4日。
進水1912年11月21日。
竣工1914年8月4日。
改装により大和級の試験艦として、艦橋が他の同型艦と大きく異なる。
第三次ソロモン海戦で米重巡の砲撃を受け大破し、翌日に自沈。

●榛名

3番艦。
起工1912年3月16日。
進水1913年12月14日。
竣工1915年4月19日。
呉空襲で大破着低して終戦を迎える。

●霧島

4番艦。
起工1912年3月17日。
進水1913年12月1日。
竣工1915年4月19日。
第三次ソロモン海戦で戦艦ワシントンの砲撃を受け沈没。

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