天山

旧日本海軍の艦上攻撃機。形式B6N。中島飛行機の開発。米軍コードはJILL(ジル)と呼ばれた。

日本海軍は1939年(昭和14年)、中島飛行機に対して、九七式艦上攻撃機の後継として十四試艦上攻撃機の開発を指示した。この時海軍から出された要求性能は「最高速度463km/h、航続距離は攻撃状態で3330km」という、九七式艦上攻撃機や当時の各国主力艦攻に比べると過酷といってもいいものだった。
要求性能を満たすには従来の1000馬力級エンジンでは困難と判断した設計陣は、機体が大型化するのを承知で大型機用だが1800馬力の大馬力を持つ「護一一型」空冷式エンジンを採用した。
さらに機体が大型化した中で少しでも地上姿勢の全長が短くなるように(空母で運用する以上小さい方が望ましい)、垂直尾翼を前傾させている。また4翅金属製プロペラ・ファウラーフラップ・層流翼・セミインテグラルタンクなどの新機軸を採用、見事に要求性能を満たすことに成功した。

しかし1941年(昭和16年)2月に完成(初飛行は3月)した試作機のテストの結果から、大馬力のエンジンから生まれるトルクが予想以上に大きかったことが分かり、垂直尾翼の取り付け角度を機軸から2度10分寄せるといった改修も行われている。このような各部の改修に手間取ってしまい、試作機の完成から生産開始まで実に2年という時間がかかってしまっている。
その後「護一一型」と同等の馬力かつ150kgも軽く信頼性も高い「火星二五型」を搭載したタイプも試作され試験されていたが、新型機の実戦配備を急ぐ海軍は制式採用する前の1943年(昭和18年)2月に「天山一一型」として生産開始を指示した。
結局この一一型は7月までに「火星二五型」搭載機が完成したために試作機こみ133機の少数生産に終わり、またようやく8月に制式採用となった。「火星二五型」を搭載した「天山一二型」は1944年(昭和19年)3月に制式採用となっている。

マリアナ沖海戦の頃から第一線機として活動し始め、その性能自体はトップクラスのものだったが、レーダーや近接信管といった米海軍の防空能力の向上や日本側搭乗員の練度の低下も重なり、相当な損害を出すこととなった。
戦争末期には稼動状態の正規空母が無くなった為「零戦」「彗星」といった他の艦載機と同じように専ら陸上基地から運用されるようになり、そしてこの機も御多分に漏れず、特攻機として出撃することになってしまった。

同世代に同じ艦上機として開発された「彗星」と比べて遥かに稼働率は高く事実上の主力機となりえた。戦争中盤以降の日本で稼働率をキープできたことは特筆すべきことである。この点では他の戦争末期に使用されていた日本機と比較して「兵器」として抜きん出ていた。
当時の日本の悲惨な兵站事情の中で、稼働率をキープし主力機となったことを鑑みると、日本機の中では素晴らしい攻撃機であったと言える。

性能諸元

名称 天山一二型(B6N2)
製造 中島飛行機
主任務 水平爆撃・雷撃
全長 10.865m
全幅 14.894m
全高 3.8m
主翼面積 37.2平方m
乾燥重量 3010kg
最大離陸重量 5200kg
ペイロード 1:800kg魚雷×1
2:800kg爆弾×1
3:500kg爆弾×1
4:250kg爆弾×2
5:60kg爆弾×6
最高速度 482km/h
実用上昇高度 9800m
航続距離 1746km
エンジン 火星二五型
固定武装 13mm旋回機銃1門(後方) 7.7mm旋回機銃1門(後方下部)
乗員 操縦手1名・機銃手兼通信手1名
全型総生産数 1268機



派生型

●天山一一型

「護一一型」(公称1750hp)エンジン搭載の初期型。133機の生産で終了。

●天山一二型(N6N2)

「火星二五型」(公称1680hp)に換装した主力生産型。他細かい改修あり。

●天山一二甲型(B6N2a)

一二型にレーダーを装備。

●天山一三型(B6N3)

「火星二五丙型」エンジン搭載型。

配備国

●日本

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