合衆国空軍(USAF)/州兵空軍(ANG)

■アメリカ合衆国空軍(USAF)/州兵空軍(ANG)

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【湾岸戦争 砂漠の盾作戦 -Rapid Global Mobility-】

1990年8月2日午前2時、イラクは三個機甲師団を先頭に隣国クウェートに侵攻した。
首都クウェート市は侵攻からたったの4時間で陥落し、イラクはクウェートを完全に占領した。「湾岸危機」の始まりである。
8月6日、勢いに乗じたイラク軍はサウジアラビア国境に機甲師団を展開し、サウジアラビアへの侵攻は時間の問題かと思われた。
米国政府はイラクが勢いに乗りサウジアラビアに侵攻すること(つまり石油を奪われる)を大いに恐れていた。同日サウジアラビア国王ファハド・ビン・アブドルア・ジーズ・アル・サウード(Fahd Bin Abdul Aziz Al Saud)は米国及び友好国に派兵を要求した。アメリカのブッシュ大統領はこれに即座に呼応。兵力の派遣を約束し、翌々日の8月8日午後には最初の戦闘部隊が到着した。

その最初の戦闘部隊こそが第1戦術戦闘航空団第71戦術戦闘飛行隊(1TFW 71TFS)所属の24機のF-15Cイーグルである。前日の8月7日午後5時25分(米国東海岸時)から米国バージニア州ラングレー基地を順次発進していた。
イラク軍機との接触に備えAIM-7及びAIM-9の完全武装が施されたF-15Cは大西洋〜地中海を横断し12,800kmを無着陸で飛行した。地球の裏側への戦術戦闘機としては異例の長距離即時展開であり、飛行時間は実に15時間、空中給油を12回要したという。12,800kmという数値はB747-400ジャンボジェットの航続距離と同等である。
パイロットには到着後休息が与えられ、翌日にはイラク国境付近における戦闘空中哨戒の実働体制に入った。
展開命令から受けてから36時間も経過しておらず、アメリカ軍の高いラピッドグローバルモビリティ(Rapid Global Mobility)、すなわち全世界規模の即時展開を実証した。
F-15C 空中給油
(1990年イラク国境近くで戦闘空中哨戒中に給油を行う第1戦術戦闘航空団のF-15C。1度の任務で4-5時間飛行することなどざらであった。)

続き、航空戦力に限ればイギリスのトーネードやジャギュア、バッカニア、米海軍の空母艦隊、米空軍のF-16Cファイティングファルコンそして初期作戦能力獲得から1年半程度であった最新のF-15Eストライクイーグル、F-111アードバーク、F-117ナイトホーク等が続いて展開し、その他早期警戒機や偵察機、給油機などを合わせると1,200機以上が1ヶ月のうちにサウジアラビアに終結した。
同時に航空機以外の実働部隊や兵站維持のため航空・海上輸送が行われていたが、ここではイーグルの範疇外なので軽く触れるにとどめるが「航空機や輸送船の上を歩いて大西洋を渡れる」と形容されるほどの史上最大規模の輸送作戦であった。
3ヵ月後の11月29日には国際連合において翌91年1月15日をクウェートからイラク軍の撤退期限とした武力行使容認を決議(安保理決議678)。「湾岸戦争」への道は着々と進みつつあった。
こうしたサウジアラビアへの兵站の確保・部隊の配備を砂漠の盾作戦と呼称していた。砂漠の盾期間を通じアメリカ、及びサウジアラビアのF-15は24時間絶えず戦闘空中哨戒を行い、サウジアラビア領空の防衛に当たっていた。


(1990年砂漠の盾作戦においてサウジアラビアの基地に駐機されている第1戦術戦闘航空団のF-15。後方には即時発射体制で展開するMIM-104ペトリオットのレーダー車やランチャーが見受けられ、警戒度の高さを知ることができる。)


【湾岸戦争 嵐の始まり - Information Superiority -】

イラク軍は1991年1月15日の撤退期限を無視した。もはや開戦は避けられない状況下にあった。
イラク軍の主力作戦機は殲撃6型(中国のMiG-19)を40機、MiG-21を150機、殲撃7型(中国のMiG-21)を30機、MiG-23を90機、MiG-25を30機、ミラージュF1を90機、そして最新鋭機MiG-29を30機保有していた。その他攻撃機類をあわせると600機にも達する極めて大規模な空軍であり、イラクにとって最も屈辱的であったイスラエルによるバビロン作戦の戦訓から防空網は大幅に強化され、1980年代からフランスの技術を導入して構築された“カリ”管制・指揮システムは最新鋭のものであった。

1991年1月17日、ついに「砂漠の嵐」は到来した。アメリカ軍及びサウジアラビア軍のF-15Cイーグルのパイロットに課せられた任務はイラク軍機を空から追い落とす事。エアスペリオリティ(Air Superiority)、即ち航空優勢の確保である。米国にとってはおよそ20年前のベトナム以来の大規模航空作戦であり、F-15イーグルとそしてその指揮をとるE-3セントリーAWACSの真価が試される戦いである。
イーグル最初の勝利はすぐに訪れた。17日午前3時20分頃、イラク領内の目標を攻撃するF-111F、B-52H、F-15E、F-4GからなるストライクパッケージをSteven W Tate大尉(スティーブ・W・テイト)がリーダーを務める4機のF-15Cが護衛を行っていたところ、セントリーから通信が入った。

「東から7200ftでボギー接近、後方につかれる。警戒しろ。」

リーダーのテイト大尉とウィングマンは落下タンクを切り離し右旋回で不明機と正対した。IFF質問波に対する応答は無く、レーダーのNCTRによりミラージュF1と識別された(自分の推定。RWRの可能性も)。間違い無く敵機である。

「FOX-ONE!」

およそ相対距離12nmでAIM-7Fスパローを発射した。セミアクティブ誘導であるからイーグルはミラージュF1をロックオンし続けなくてはならない。数秒後、相対距離4nmで夜空に火の玉が浮かび上がりミラージュF1と思われる不明機は完全に破壊され落ちていった。
大尉は米空軍のイーグルドライバーで最初の、かつ湾岸戦争で最初の撃墜を記録するという名誉を得た。
開戦の初日、テイト大尉の撃墜を含み3機のミラージュF1と3機のMiG-29が撃墜された。なお、MiG-29を撃墜したCHARLES MAGILL大尉(チャールズ・マギル)は海兵隊との交換パイロットで一時的に空軍に所属していた元F/A-18乗りだった。

イラク空軍は開戦から数日は戦闘機を飛ばし多国籍軍に対抗していたが、全く歯が立たないことが分かると、次第に多数が建造されたシェルターに航空機を隠しイラクは戦後に備えた戦闘機の温存策に出た。ユーゴスラビアの技術供与により建造されたこの強化ハンガーは2000ポンド級の通常爆弾に耐えうるとされていた。しかし、そうした努力はF-111やF-15Eが装備したBLU-109/B 2000ポンド貫通弾頭を備えたGBU-24A、およびF-117の同貫通弾頭を持つGBU-27Aによりいともたやすく貫かれてしまっていた。
地上での温存策がかなわないとなると、隣国イランに戦闘機を飛ばし始めた。空爆を受ける可能性の無いイランに終戦まで預かってもらおうという考えである。
だが、エアスペリオリティ、空の支配は完全に多国籍軍が握っていた。2月6日〜7日にはSu-25やSu-22等攻撃機は非武装の状態でイーグルに襲われるなど、一切の自衛手段をもたない攻撃機はまさに一方的に狩れるハンティングそのものであった。

イスラエルにより、イーグルは既に無敗で50を超える勝利を得ていた。しかし湾岸戦争ではイスラエルによる戦闘とは違う、大きな意味があった。
イスラエル空軍は全ての戦闘において「視認」を義務付ける交戦規定が定められていたのに対し、湾岸戦争の交戦規定ではIFF(敵味方識別装置)による判別のみでよかった。すなわちAIM-7を多用した目視外距離戦闘という別次元の戦闘が行われ、F-15の目視外距離戦闘能力が試されていたのだ。
湾岸戦争における最後の撃墜は1991年3月22日にピタラスPC-9練習機のマニューバーキルであり、F-15により38のイラク軍機が撃墜され、そのうち実に63%の24機はAIM-7スパローによる撃墜であった。
殆どの戦闘がAWACSに支えられたインフォメーションスペリオリティ(Information Superiority)、情報優勢によりF-15が先手を取る事により勝負が決し、およそ15km-25kmの相対距離でAIM-7Fを発射し標的まで数キロに接近した時点で撃墜を記録していた。湾岸戦争において71発のスパローが発射されうち67発はF-15が発射した。
湾岸戦争末期には、開発が遅れていたAIM-120A AMRAAMがサウジアラビアへ送られ、F-15Cに装備され実際に戦闘空中哨戒任務に用いられたが、イラク空軍機は殆ど飛んでない状況であり、発射は行われなかった。

撃墜数26%を占める10機は短射程のAIM-9Lサイドワインダーによる撃墜であったが、殆ど攻撃機や、イランに逃亡するSu-22フィッターやSu-25フロッグフットに対し使用され、互いに背後を取り合うドッグファイトはついに一度も起らなかった。
湾岸戦争における空対空における多国籍軍の損失はMiG-25に撃墜されたF/A-18ホーネット1機のみであった。
1991年2月28日、砂漠の嵐作戦が終結し3月3日には停戦協定が結ばれ、一応の決着がついた。
しかしイラクの火種は始まったばかりであった。その後も10年以上に渡り米軍によるイラクに対する軍事作戦は途切れる事なく続く事となる。
なお、イランに逃げ込んだイラク空軍は、ついにフセイン政権が倒れるまで戦闘機を完全に返還されることはなかった。イランは一部を自国の戦力としてしまったようである。

極めて迅速なRapid Global Mobility(全世界規模の即時展開)で紛争地域に急行し、圧倒的なInformation Superiority(情報優勢)に基づき完全なるAir Superiority(航空優勢)を確保する―。
こうした航空機と情報を活かした「機動性ある軍隊」および戦争の変革は、後に軍事革命(RMA)と呼ばれ、「持つもの」と「持たざるもの」の航空戦力の差はさらに広がってゆくこととなる。

F-15C 湾岸戦争
(写真は2003年イラクの自由作戦のものであるが、文字通りデザートストームが吹き荒れる劣悪な条件にも関わらず95.5%に及ぶ平時以上の稼働率を確保したEagle keepersの貢献も忘れてはならない。)



(写真は1990年砂漠の盾作戦中に展開するF-15E。航空優勢を確保するF-15C/D以上に多国籍軍に重要だった戦闘機はF-15Eストライクイーグルであった。当時の多国籍軍での全天候・夜間攻撃ができる戦闘機は限られており、ストライクイーグルは主に夜間の「スカッド狩り」や「戦車狩り」に投入された。)

【コソボ紛争 アライドフォース作戦】

コソボ紛争は、ユーゴスラビア国内の民族の勢力争いに端を発する。
セルビア人の勢力であるミロシェビッチ大統領の政権はアルバニア人が多く居住するコソボ自治州のアルバニア独立勢力(コソボ解放軍 KLA)を鎮圧するために軍事行動を行い、一般市民をも無差別に殺戮し根絶やしにする民族浄化を行った。イスラム教を信奉するアルバニア人にとってコソボは先祖の土地であったが、セルビア人にとってはセルビア正教の聖地でありアルバニア人の独立を認めるわけにはいかなかった。
ユーゴスラビア軍は国際連合をはじめとする各国の再三の非難にもかかわらず、コソボ自治区に駐留し続け、3月24日にNATO軍は軍事行動に踏み切った。ユーゴスラビアへの軍事行動は航空攻撃のみによって行われ、アライドフォース作戦と呼称された。

アライドフォース作戦では、F-15Cが航空優勢の確保のためにイタリアに展開した。ユーゴスラビアは15機のMiG-29と64機のMiG-21を保有していたが、MiG-21は殆ど飛行せず、MiG-29を散発的に飛ばす程度であったため、空中戦は殆ど発生していない。
開戦初日の1999年3月24日に2機のF-15CはAIM-120B AMRAAMにより2機のMiG-29に対し発射し、これを撃墜した。F-15がAMRAAMにより戦果をあげた最初の例である。最初に発射されたAIM-7およびAIM-120は回避されている。
イラク方面でAIM-120の命中率は格段に落ちており、久々のAMRAAMによる戦果であった。イラク軍は最初から米軍機と交戦する意思などあらず、戦闘機に接近し補足されると即座に引き返すといった挑発行為を繰り返していたため、いくら最新型のAMRAAMと言えども遠距離で発射し、尻尾を巻いて逃げる相手に命中するはずなどなかった。空対空ミサイルに対抗する最良の手段は反対方向に逃げる事である。
初日3機目の撃墜はオランダ空軍の性能向上型F-16Aによって記録され、1発AMRAAMによりMiG-29を撃墜した。

続く26日には1機のF-15Cが発射した2発のAMRAAMにより2機のMiG-29が撃墜された。
以上、AWACSの支援の元に殆ど一方的な戦いであったであろうことは容易に予想できる。AWACSのサポートを受け、AMRAAMを装備したF-15に限定的な性能しか持たないMiG-29が対抗できる手段などあるわけがなかった。

4月5日にはF-16CJが、同じくAMRAAMによりMiG-29を撃墜し、アライドフォース作戦中を通し全撃墜数はF-15Cにより4機F-16A/Cにより2機の合計6機で、すべてMiG-29であった。対するNATO軍の空対空に於ける損害は皆無であった。
が、アライドフォース作戦でF-117ナイトホークが撃墜されている。SA-3地対空ミサイル説や地対空砲火説が濃厚であるが、面白い説にMiG-29の発射したAA-8エイフィッドにより撃墜されたというものがある。
さらに旧ユーゴスラビアおよび旧東側諸国ではユーゴスラビアによりF-15を撃墜したと見る向きがある。
空爆開始二日後の3月26日にはMiG-21が発射したAAM(AA-8エイフィッド?)によりF-15Eを撃墜し、4月6日にはMiG-21とF-15によるドッグファイトが行われ、F-15は戦闘中山に衝突しMiG-21がマニューバーキルしたと言う。しかし米国はF-15の損失を認めておらず、信憑性には疑問符が付く。

B-2スピリットによるベオグラードの中国大使館の誤爆(JDAMを使用)、F-15Eストライクイーグルによるグルデリツァ鉄橋の誤爆(AGM-130を使用)など、精密誘導爆弾による「正確な誤爆」という、新たな問題点がクローズアップされるようになった。

6月8日にユーゴは国際連合を仲介しNATOとの和平案を受け入れ、平和維持軍(PKF)を受け入れることを条件に78日間の空爆は終了した。翌年2000年10月にはユーゴスラビアの独裁者ミロシェビッチの政権は崩壊し、民主派のコシュトゥーニツァが新大統領に就任し2003年にはセルビア・モンテネグロと国名を改称し現在に至る。
なお、指導者ミロシェビッチは2001年4月には職権乱用の罪で逮捕され、6月にオランダのハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に身柄を移送され、民族浄化を行った罪などで起訴をうけ裁判が行われている。ミロシェビッチは空爆によってセルビアが虐殺されたと主張。米国クリントン大統領も裁くべきだとし勝者による偏った裁判であると反論している。


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