二つの橋ををめぐる攻防戦
〜橋が落ち、時代が変わる〜
…それから4年後の1972年4月。アメリカ合衆国大統領はジョンソンからニクソンへと代わり、大統領はベトナム現地兵力の削減を発表するなどベトナムの情勢も大きく変化した。
4年間の北爆停止中、ベトコンは破壊された橋を修理、輸送網をさらに強化した。そしてこの北爆停止中のアメリカ人犠牲者数は2万5000人にも達し、さらに同年2月にはハノイ政府はアメリカの段階的削減こそが好機ととらえ、最大規模、そして最後の攻勢に打って出ていた。
これに対し"アンクルサム"は対話での解決を放棄、指定されていた空爆禁止区域を解除、もちろん最重要目標にはタンホア及びポールドゥメ両鉄橋の名前がリストに挙がっていた…。そして4月27日に、"不死身のドラゴンジョー(龍の顎)"との異名をとったタンホアへの攻撃が決行された。
1967年、最初のタンホア攻撃時の主力はF-105Dサンダーチーフと無誘導爆弾であった。
が、今回は違う。F-105と比較し高度な爆撃照準器を搭載したF-4DファントムIIである。攻撃火器も当時の“バカな爆弾”から最新鋭のEOGB(TV誘導弾)及びLGB(ペイブウェイレーザー誘導弾)が使用される。戦闘機も爆弾も過去とは一新されたのだ。
攻撃編隊は12機のF-4Dで、うち4機がチャフシップ機で。残りの8機はそれぞれ2発ずつの2000ポンド級のEOGBとペイブウェイ1LGBを装備。かくしてタンホアをめぐる戦い、第二幕が開幕した。
まず、攻撃に先導しチャフシップ機がチャフコリドーを生成する。続いて8機のF-4Dが攻撃に入るが、タンホア上空はやや雲がかかっておりLGBの使用は不可能であった。よってEOGBが5発投下された。
SAMやAAAも多くが発射されたが、優れた照準器のおかげでよりAAAの有効範囲外の高い高度から投下でき、さらには漂うチャフによりSAMの殆どが打ち上げ花火に変わっていた。
結果攻撃機8機とチャフシップ4機はは損害ゼロであり、たった5発の爆弾でタンホアに対しかつて無い大損害を与えることに成功した。初めてタンホアの橋桁を落としたのだ。
(PHOTO:USAF)
67年の最初のタンホア攻撃では“バカな爆弾”を300発をも投下したにも関わらず、損害はなきに等しい状況であった。その無敵のドラゴンジョーがたったの5発のEOGBで破壊されたのである。
しかし、いかに大損害を与えても放って置けばまた復旧が開始されてしまう。以降定期的に復旧作業を阻害するためタンホアに対し攻撃が加えられ、72年10月までにさらに空軍が4回、海軍が11回の空爆が行われ、橋の土台となる橋脚も含め完全に破壊された。その後、タンホアは復旧される様子が無かったため米軍の目標リストからその名前が消えた。悪名高きタンホア鉄橋が沈んだのである。
1972年5月8日。アメリカ航空戦力による反撃作戦“ラインバッカー”が発動された。
ラインバッカー作戦発動から3日後の5月10日、この日は1日で米軍は開戦以来最多の11機のミグを撃墜し、また米海軍ではF-4Jパイロットランダル・カニンガムとレーダーシステム士官のウィリアム・ドリスコルがベトナム初のエースパイロットとなった。そしてあの橋、ポールドゥメへの復讐が行われた。
直接ポールドゥメに対し攻撃するのは16機のF-4D。うち12機がLGBを装備、残り4機がEOGBを装備した。
チャフシップ機とワイルドウィーゼル機が先導しSEAD及びチャフコリドーの生成を行った。タンホアと違い首都ハノイに近いポールドゥメには厳重なSAM防御網が敷かれていた。さらにはペイブナイフ目標指示ポッドを搭載した指示機により“レーザーパケット”が生成され、次に攻撃機が空爆に入る。各機は濃密なAAAとSAMを避けるため15000〜18000ftで爆弾を投下する。
結果は誘導爆弾の直撃12発、橋桁が一つが完全に落ち、また橋桁の多くが大損傷を受けていた。数倍の編隊で行った4年前のポールドゥメ攻撃に比べてやはり大きな戦果を挙げたのである。
なおこの作戦において160発のSA-2が発射されているが、被弾機は無かった。MIGCAP機についてたF-4Dが殲撃6型(MiG-19)及びMiG-21により2機撃墜されたがMiG-21を3機撃墜している。
そして翌日、ポールドゥメの息の根を止めるべく第二次攻撃が実施された。攻撃機はF-4Dが4機。うち3機がMk84ベースの2000ポンドLGB、1機がM118ベースの3000ポンドLGB、それぞれ2発ずつ装備した。
たったの4機、8発の爆弾ではあるが実証済みである誘導爆弾装備機にとって、それは十分すぎる数であった。結局3つの橋桁を落とし、さらに3つの橋桁を大破させた。
その後4ヶ月にわたり悪天候のため追加攻撃を行う事が出来ないでいたが、ポールドゥメの復旧は終わらなかった。さらに天候が回復した9月10日に4機のファントムにより再攻撃が行われ2つの橋桁を落とし、通行不可能であった橋の復旧をより困難にさせた。
その後米軍が撤退するまでポールドゥメ橋は復旧に着手されることはなかった。悪名高いポールドゥメも誘導爆弾の前に屈服したのである。
北爆停止前のローリングサンダー作戦で米軍が落とすことの出来なかった二つの橋は沈黙した。戦闘機が、運用が、戦術が、爆弾が、、、全てが進化した結果である。…その中でも誘導爆弾のデビューが決定的であった。誘導爆弾を搭載した1機は無誘導爆弾を搭載した10機に勝ったのである。
1972年。それは航空戦に一大革命が起きた年であった。
終。
〜まとめ〜
3回にわたって取り上げた「二つの橋めぐる攻防戦」。橋梁への攻撃というのは、物資輸送を阻む最高の手段でありながら、目標は細くて長く小さいため、非常に難易度の高い航空攻撃です。たとえばF-4Dの無誘導爆弾の半数必中界はおよそ120m程度。それに比較しタンホア橋は幅17m、ポールドゥメは全長こそありますが幅はたったの12mです。初期の攻撃から分かるように、「数うちゃ当たる」だった訳です。
ところが実用的なペイブウェイ及びEOGBのような半数必中界が10m単位の誘導爆弾がベトナムの戦場にデビューすると、橋梁への攻撃は「狙って当たる」レベルまで向上したのです。攻撃に割り当てる機数が1/10で良くなり、他の機は別の任務に割り当てられるため、エアパワーは飛躍的に向上しました。まさに、誘導爆弾が航空戦のあり方を一変させたわけです。
そしてその後LGBが世界中脚光をあびた湾岸戦争時にはそれこそ「窓を狙える」レベルにまで向上することとなります。
また、この話はあくまでもタンホアとポールドゥメに対する攻撃と、精密攻撃のデビューにのみ主眼を当てています。実際にはMIGCAPやSEADといった重要な役割を担った部隊が参加しており、これらについては、僅かに触れている程度です。社会情勢も大幅に端折っております。もし別の視点から知ってみたい場合、ベトナム戦争関連の書籍を手にとって見てください。大抵この橋の攻防戦が記述されています。
ゲームの話になりますがJane's USAFというWin用のフライトシミュレーションゲームでは、このポールドゥメ橋に対する5月10日の攻撃ミッションが再現されています。