ボウロウ作戦 その1

−フィッシュベッドを釣れ!−


1960年代中期。北ベトナムはソビエト製のレーダー、ソビエト式の戦闘機、ソビエト式の地対空ミサイルを配備し、かつソビエト軍事顧問団による技術・戦術指導を受け、その防空網は世界でも指折りと言える高いレベルの質を備え、大げさに言えば現在のアメリカ空軍がAWACSを中心とした情報優勢による航空支配を実現しているのと同様、情報管理による迎撃システムは当時交戦国であったアメリカに対し非常に大きな効果を発揮していました。
具体的な数値では1966年中における戦闘機のキルレシオは25:13(米海・空軍:北ベトナム空軍)と、およそ2対1でアメリカが優勢であったとはいえ、朝鮮戦争において10対1で北朝鮮・中国を圧倒(実質5対1程度と言われている)したのに比し、アメリカ軍はソビエト式のベトナム軍に大いに「苦戦」を強いられていました。
なお、ベトナム戦争における最初のMiGによる損失は第47回二つの橋をめぐる攻防戦・タンホア橋を巡る戦いで取り上げた、タンホア鉄橋への攻撃の際に発生しました。
北ベトナムに供与されていたソビエト製の戦闘機。すなわちミグを排除する事は防空レーダー・地対空ミサイルの排除とともにアメリカ軍とって大きな命題でした。

ミグを最も効率よく排除する方法は、翌67年イスラエルによって行われた六日間戦争(第三次中東戦争)第1日目の奇襲航空作戦において数百ものエジプト機を地上撃破し空軍を壊滅させた事例にあるように離陸する前に叩く事である事に疑いの余地はありません。
しかし、ベトナムの戦場では米大統領レベルの決定により北ベトナムの航空基地は聖域化し爆撃は禁止されていたため、ミグの排除は空中で撃墜する以外にはありませんでした。

北ベトナム軍はそれを承知しており、ほぼ連日のように防空レーダーでとらえた航空機を飛行速度や高度からF-4のような戦闘機であるか、F-105若しくはEB-66のような攻撃機や電子戦機であるかを推定し、後者と判断できた場合にのみミグを離陸させ追い払いました。
このときにミグは実際に交戦し撃墜する必要はなく、対象がF-105であらば爆弾を投棄させ、爆撃ミッションを中止させるだけで十分な戦果でした。
むろん爆弾を満載した“サッド”が無防備でミグの脅威下に進入するはずもなく、決まりきったパッケージでF-4ファントムの護衛を受けていましたが、ミグは攻撃機編隊に接近するのみで、迎撃管制から護衛戦闘機の接近を知らされるとアフターバーナーを開き、F-4ファントムとの交戦は避けました。つまり、爆弾を投棄させその後は攻撃される事の無い安全な聖域、つまり地上へ戻ってしまえば相手の攻撃の意図を挫くという目標は達成できたのです。
アメリカによる北ベトナムの航空基地爆撃は禁止という戦略を逆手に取った戦術は多くの場合成功し、このとき僅か15機保有するに過ぎなかったマッハ2級の高速迎撃機MiG-21は北ベトナム軍にとって非常に重要な地位を占めていました。

アメリカ軍は、航空基地を攻撃してはいけないというアホらしい交戦規定を呪いつつ、それを最大限に活用した戦術をとる忌々しいミグを葬り去るため、攻撃機を偽装した戦闘機によりミグを誘き寄せ、それを迎撃し叩き落すという1つの奇策を立案しました。

フィッシュベッドにサッドという疑似餌を与えるため、通常F-105に装備されるAN/ALQ-71ジャミングポッドをF-4に搭載する改修を行い、かつ作戦中のF-105の飛行速度と高度、飛行ルート、コールサインや通信、空中給油エリア、給油中の速度を完全に模擬し、むろんレーダーはスタンバイにし、ミグキラーたるF-4ファントムをF-105だと誤認させるためにあらゆる努力が払われ、パイロットにはその作戦のためだけの訓練すら施されました。事実、北ベトナム軍はこうした特徴をレーダー画面から仔細に観測し、より高い精度で機種を分類していました。
65年には既にF-4をF-105に模擬しミグを誘い出す作戦が実行されていましたが、過去に行われた同種の作戦と比べ、徹底的にレーダー上では完璧にF-105になりきると言えるレベルであり、この作戦は「ボウロウ」(Operation Bolo)と呼称され、67年1月2日に決行されることが決定しました。

なおボウロウとは「望楼」ではなく、フィリピンの片刃、長身で丸みを帯びた大型の短剣のこと。ボーロー、ボロとも読みますが、今回ではボウロウで統一します。

次回、ボウロウ作戦その2へ続きます。